第一話『玉響の行き違い』(続)
悪夢を見る時は何かのお告げとか言うけれど、私はそうは思わない。いや、思えないのかもしれない。
だって、私にとっての悪夢はいつも同じだから。
始まりは大体、そう。今日と同じような暑い暑い夏の日。切羽詰まった私と、彼女。人生の半分以上を一緒に過ごして来た思い出はいつまででも色褪せない。
この関係が大人になっても、結婚して子供が生まれても続くと信じて疑わなかった。そんな、青春時代に一つの影が落とされる。
『……あんたのせいだよ』
溢れる言葉は相手の口から。操作の効かない暴走機関車のようにスラスラと出る乱暴な言葉の数々。
『あそこでミスをしていなければ』
思ってもいない言葉のはず、なのに。滑り落ちていく感覚。ハッとした時には、すでに遅かった。信じられないものを見る目。そして、目の前には涙をいっぱいに溜めた一人の女の子。
どこからどう見ても悪いのは私で。焦って謝ろうと言葉にした時には、彼女と私の間には断崖絶壁があった。飛び越えられない、埋めようとしても焼け石に水。どうしようもできない状況になってから私は叫び、涙を零して、目を覚ますのだ。
「……また、見ちゃった」
たらりと垂れる汗は寝ている間に流れ出たものだろうか。畳の下がしっとりとしている。ふとお腹に違和感を感じて見てみると、大きめのタオルケットがかけられていた。ふんわりと香る柔軟剤の匂いはどこか懐かしい。そっと畳んで床におくと、ノックが聞こえた。
「はい」
「失礼します。早いですが夕食の準備ができました」
「あ、今行きます」
「分かりました」と声が聞こえた後、リズムよく階段を降りる音。あの少女がわざわざ知らせに来てくれたようだ。このタオルケットも彼女によるものだろうか。少し人とは思えない雰囲気を持っている彼女は一体何者だろうか。
人のことを詮索するのはよろしくないが、ここに泊まるのだから気になってしまう。ふと外を見ると、少しずつ太陽が傾き始めているようだ。夏だということもあり、まだまだ日は高い。
放り出していたスマホを手に取り時刻を確認する。確かに夕食には早いようだが、気になる範囲ではない。
「これ、返した方がいいよね」
せっかくの夕飯が冷めてしまう。ぼうっとしている場合ではない。簡易的な机の上にスマホを置き、代わりに畳んだタオルケットを手に持って立ち上がった。外に出ると上にまで漂ってくる夕食の匂い。
誰かが作るご飯なんて、久しぶりな気がする。
いつもは自分で作るか、外食に頼っていることも多かった。温かくても、どこか味気ないご飯に慣れてしまったらしい。この匂いだけで十分に幸せを感じられるようになったようだ。
「うわぁー! 美味しそう!」
グゥッと鳴るお腹を抑えて席に座る。手に持っていたタオルケットをどうしようか悩んでいると、「もらいます」と差し出された手。「あ、ありがとうございます」とお礼を言い、白い手の上に乗せた。一人で食べるのかと思っていたが、女の子も座った。しかも、私の目の前に。
別に食べるなとは言わないが、少し不思議な感覚がする。普通は隠れて食べるものじゃないだろうか。軽く頭を傾げていると、「すみません、ご一緒してもよろしいですか?」と声が聞こえた。
「あ、はい! も、ち、ろ……」
勢いに任せて返事をしてしまったことを少し後悔した。振り返った先には、手に鍋を持った男の、人、のはず。いや、正確に言えば声と体は男性。そして、頭が時計になっている。
「……? あぁ、すみません。異形頭を見るのは初めてですか?」
「え、いや、その、は、はい……」
腰の低さと柔らかに驚いたのだが、それ以上に噂には聞いていた異形頭の人間がいるだなんて。最近では当たり前のように定着して来たが、都会よりも田舎の方が多いと耳にしていた。
都市にいた時は大して気に留めていなかったが、実際に会うと動きが止まる。固まったままの私を見てクスクスと笑う彼は手に持っていた鍋を鍋敷きの上に置く。
「私は時計の異形頭のロロと申します。気軽にロロと呼んでください」
「はっはい……」
ニッコリと、笑っている気がした。確かに表情は見えないが何と無く分かった。彼は慣れた手つきでお椀を持ち、味噌の香りがするスープを中に入れる。私の前に置いてから次に彼女のお椀を手にした。
その間も私はじっと見つめている。失礼だと分かってはいるけれど、私の知っている時計とは異なる見た目をしているのだ。本来私が見慣れている時計の数字はアラビア数字。しかし、彼の場合は日本の干支が書かれている。昔ながらと言うのか、それとも特注で作られたものなのか。
異形頭のことについて思い出しながら見つめていると、お腹がもう一度鳴った。
「ふふっ そんなに焦らなくても大丈夫ですよ。ルナ、まだ『いただきます』してないから触っちゃダメ」
ぺちっと叩いた彼女、ルナの手は密かに漬物を狙っていたらしい。意外な行動に笑みがこぼれた。二人分の食事を準備した後、鍋に蓋をして大人しくしている彼女の横に座った。
しかし、彼の前には飲み物しか置かれていない。不思議に思っていると、「私、飲み物しか飲まないので」と言われて納得した。
「じゃあ、いただきましょうか。せーの! いただきます」
「いただきます」
手を合わせて唱える。給食を思い出すなぁ、と懐かしみつつ早速お味噌汁に手をつけた。味噌の匂いはどこへ行っても安心する。味噌汁が好物とかではなく、あれば嬉しいと思えるのだ。
ほんわかとお椀越しに伝わる温かさに安心感を抱きつつ、口に運ぶ。
「えっめちゃくちゃ美味しい……」
「あら、そう? ありがとう」
勝手に口から溢れた言葉は心の底からのもので、どこぞの旅館かと思うほど上品な味をしている。次から次へと口の中へ具材を運んで堪能していると、目の前に座っている女の子は表情を一切変えずに黙々と食べていた。美味しいとか言わないのかな。
でも、毎日こんなに美味しい料理を食べたら舌が肥えそうだ。チラッと隣のロロさんを見ると、自分で用意したのか緑色の液体を飲んでいる。何か特別なものだろうか。青汁とか飲んでいるのかなと想像をしていると、「そういえば」と話を始めた。
「よくここを見つけましたねぇ」
「え? あ、その、いつの間にかそこにあったと言うか……」
いきなりそこに現れました、なんて言っても信じてもらえないだろう。それこそ異形頭の方がまだ現実的だ。だって、目の前にいるし。適当にお茶を濁して漬物に手をつけた。かりこりと音がして、ほのかに酸味を感じさせる。
漬物はどうしてこうもご飯が進む料理なのだろうか。キラキラと光るお米を口の中に入れて幸せを噛み締めた。
「あら、やっぱり? まぁここら辺だとよくあることだから大丈夫よ」
「は、はぁ……」
ブーンと聞こえるのは換気扇の音だろうか。消し忘れなのか、それとも匂いがこもっているからなのか。曖昧な私の返事の後は少しだけ沈黙が続いた。黙々と口の中に運んで今日のエネルギーを蓄える。
お味噌汁を最後の一口を飲んだ後、「ごちそうさまでした」と手を合わせた。夏だけど、温かいご飯は元気が出る。いつだって寒さは人間の敵だ。
「満足してもらえました?」
「もちろんです! こんなに美味しい夕飯久しぶりで……しばらく食べられると思うと、元気が出ます」
「そう、良かった」
少しくだけた話し方をする彼は、優しさに満ちている。隣にいる少女の姿を時々見つつ、食べ方が汚いだの好き嫌いはしないだの注意していた。どうやら彼女は野菜が好きではないらしい。
特に今日出ていた野菜炒めの中に入っているピーマンと人参を器用に避けているのを見ていた。それを目ざとく見つけたロロさんは彼女のご飯の上に乗せて食べるように催促する。まるで……
「親子、みたいですね」
キョトン、とした顔をするロロさん。本当にそんな顔をしているかは分からないが、こちらの方を見ているような。引き続きモグモグと口を動かす彼女。
「ふふっ 親子かぁ。確かに、そんな感じかもしれないわね。ルナもやっと、人間らしくなったのかしら?」
「人間らしく?」
「ううん、何でもない。あ、もうこれからタメ口でもいいかしら? お客もあなただけだし、自分の家のようにくつろいで構わないから」
「あ、はい!」
「いい返事ね。じゃあ、後は片付けるからお風呂入っちゃって!」
ガタッと席を立った時にはロロさんのグラスは透明になっていた。私の前に置いてあった器を重ねて向こうへ持っていく姿を見つめる。人間らしさ、とはどういう意味なのだろうか。
最近では異形頭の人の方が人間らしい時があると聞いたことがあるような。完璧な人間である人は人間味がなく、物から生まれた彼らが人間味を持っているなんて。そもそも完璧な人間って何だろうか。
そもそも私自体、ちゃんとした人間なのだろうか。
「お風呂、入らないんですか」
「えっ」
じっと見つめる緑色の目から圧力を感じる。綺麗な顔をしているからなのだろうか。美人な人は無表情だと怖いと聞いたことがある。頭の片隅で思い出しつつ、「は、入るよ!」と勢いよく答えた。何か言われるかと思ったが、彼女は「わかりました」とだけ言って自身の食器を皿洗いしているロロさんの元へと持って行った。
二人で何か話しているのが見えたが、彼女はすぐにどこかへ行ってしまった。不思議な雰囲気を持っているけれど、あの様子だと身内ではないのだろうなぁ。
「……まぁ、私には関係ないか」
お風呂入ろう、と自分に言い聞かせて席を立つ。数時間昼寝をしていたのもあり、汗がべっとりと肌に引っ付いていてモゾモゾする。明日の予定なんて何もないけど、すぐに入って寝ちゃおう。疲れを翌日に持ち込むのは良くない。
かちゃかちゃと食器があたる音を後ろにして自分のお風呂の準備をしに向かった。