ノイズが走る
意識の混濁から抜け出すと、そこは黒洞々たる暗闇であった。
未だ、瞼の裏にこびり付く光の残像は消えず、視界の中心には名残惜しそうに白い靄がかかる。しかしそれは、蜻蛉の命ほどの儚い、刹那であった。視界の中心を覆っていた淡い光の靄は、拭い払ったように消え、その場所を真っ黒なインクが埋め尽くした。
それは突然の事であった。
私の足が、さもすっぽ抜けたかのように、膝から崩れ落ちた。咄嗟に手を地面に付けるも、勢いを殺す事はできずに、そのまま顔から着地をした。その鈍い衝撃は、私の積み重なる疑問や得体の知れない不安を一旦、意識外へと追いやるものであった。
私は両手を湿った地面に付き、上半身を持ち上げ、立ち上がる動作をした。しかし、私の意図に反し、体は地面に吸い込まれるようにして倒れた。
飛沫が上がり、小雨のように頭上に降り注ぐ。
そして、息が詰まる程の静寂を取り戻す。
四つん這いで、玉のような雫が毛先に垂れ、濡れた髪がさも鉛程の重さを含むようにして、無気力にうなだれる。鉄鋼が腐食するように、心が徐々に衰弱する感覚が、あぁ、尺取虫のように顔を這う雫が、実に生生しく疎ましい。
私は立ち上がるという、日常的に行っている動作が何故できないのか。無意識にもその原因を探ってしまい、その違和感の正体を、微かながらも認識してしまった。首筋に蛆虫が這うが如き悪寒が、背筋を走った。
違和感の正体を私は知りたくはなかった。しかし、怖いもの見たさに、谷底に顔を覗かせるように、私は、その恐怖の正体を覗きたくなってしまった。
また、同じように立ち上がろうとするが、結果は変わるはずが無い。
「はぁ、はぁ、はぁ…。」
私の想像が確証へと近づいているという現状に動悸が激しくなる。
心臓を両腕で締め上げるような圧迫感を感じる。冷や汗が滝のように流れ、鬱屈とした圧迫感を、乱れた呼吸から吐き出す。嫌に静寂なせいか、心臓の拍動が脳まで響き、耳に膜が張り付いたように、その振動がぼぉんぼぉんと脳を揺らす。
この恐怖から逃れるためには、違和感の正体を確認しなければならない。
私を覗き見る恐怖に抗う為に、その感情に向き合おうとした。しかし、決心を固めたつもりであったが、いざ、行動に移そうとするも瞳孔が左右に揺れ、無意識に視線を逸らしてしまう。それでも、ことさらに、恐怖からくる好奇心という化け物は嫌に私を誘惑し、私の視線をは化け物へと吸い込まれてしまうのだ。
「ぁあ、足が…。」
焼い塊が喉仏で詰まる。
モノクロの視界には右足のみが映っていなかった。
私の右足は、制服の上から消えたように、欠損していた。この現実を認めたくないがために、私の右手が右太股へと、無意識にすうっと伸びた。指の腹で太股をなぞるが、依然として足が足であった頃のように、痛みは微塵も感じなかった。それでも、暗くて見えない切断面を触って確認する勇気は無かった。できても、その縁を擦るのみである。
ない右足を上げ、右手をその下に潜らせるが、ぼたりと赤黒い雫が私の掌へと注がれることは無かった。
足が欠損している状況で何故、出血していないのかを考える余裕は、今の私には無かった。それでも、切断面が熱く燃えるような、ドクドクと血潮のマグマが吐き出されているような、そんなありもしない感覚に陥った。床に手を当てるも、ただ湿っているだけである。そして、それは私の血で湿っているのではないと自分に言い聞かせた。
程なくして、私はこのまま停滞する訳にはいかなかったため、どこにあるか分からない出口へと、這って探し始めた。
石材の地面は凍てつく程に冷たく、ほのかに湿っている。閉鎖的な空間のせいか、空気が重たく淀んでおり、鋭い冷気が我が身を裂いた。そして、生々しい、得体の知れない鼻を突く匂いで、顔を歪ませながら、微かに認識できる濃淡のシルエットを頼りに、ようやく壁へと行きついた。視覚が効かない以上、塵芥ほどの光をもとに、右往左往に這い回るのではなく、壁を伝えばいつかは出口へと到達できるのではないかと考えたためである。
ここが、何かしらの建造物であることはすぐに察しがついた。這っていれば、否が応でも、水平の段差や整えられた床など、明らかに自然界の構造ではないことを全身の感覚から感じ取れた。しかし、この空間がどういった構造をとっているのかは分からないが、建造物であるならば必ず扉なるものはあるはずなので、瓦礫のような何かで躓きながらも壁を伝って進んだ。
それ程時間は経っていないだろうが、名も付けようのない様々な感情が時間を引き延ばした。
薄っすらと生糸のような筋が壁に垂れていた。それは一筋の光であった。
私は、不器用な足取りで、壁にもたれ掛かりながらその場で立ち上がった。そして、黒ずんだ指で、影を溶かす程の騒がしい光芒をなぞった。そこは確かに、はっきりと窪んでいた。指をなぞっても、なぞっても窪みであった。間違いなく扉であった。
私は、胸から溢れ出す希望と、しがみ付いて離さない不安を抱いて、体重を乗せながら扉を押した。眩い光の中を掻き分けながら。
風化した荘厳な扉を開けると、雪崩のように、ぼうっと風が滑り込んできた。質量のある風が怒涛の勢いで私を押し退け、流されるように尻餅を着いたが、そんな些細な事など眼中にはなかった。
今にも零れ落ちそうな金色の露が、紫色の爆ぜた夜空に浮かぶ。その空に、針で無数の穴を開けたような星が一面に広がる。まるで、油絵の風景画をそのまま黒のキャンバスに書き写したような凄艶さであった。
あの輝きは太陽の光ではなく、月の光であったのだ。
何と美しく、幻想的であろうか…。
私の心も、視線も吸い込まれた。
生温い夢想に浸り、意識は微睡みに沈む。そんな夢心地を覚ます声が聞こえた。
「おい君、私の声が聞こえるか!この姿はどうしたんだ!」
瞬き程の、知覚できない程のほんの一瞬、目の前にいる女性が白い彼岸花を想像させ、もしや幽霊かと思った。そして、私はすでに死んでしまったのかと想像した。あの扉は天国と地獄の境目であり、目の前に立つ女性は天国への導き手であるかのようで、息を呑む程に圧巻した。
月光が辺り一帯を満遍なく照らしているはずなのに、まるで声の主をライトアップしてするように煌々と輝く、そんな錯覚が見えて仕方がないのだ。
目の前の女性は、この世の全ての美しさが霞む程の、そんな美貌を持ち、向日葵ように力強く屹立するかの如き立ち振る舞いだった。露玉のような月と、太陽のような顔の双璧が、私の顔を覗き込んでいた。
月光が私を照らす。
ようやく、私は私を見た。
私の体には粘着質の赤黒いインクが、纏わり付いていた。今まで嗅いでいた匂いはこれだったのか。
血管が凍った。
私の視線は無意識に、かつ一抹の不安に誘導されるように右足へ移動した。
熟れた柘榴の果実が弾けたように、赤黒い果汁が滴り落ちる。
私の意識が微睡みに深く、深く沈んだ。
まずはこの小説を最後まで読んでいただきありがとうございます!
突然ですが、この小説の主題は、主人公黒野薊の身に起こる謎を明らかにすることです。恐ろしいくらい数多もの伏線を挿入しました。
だから、一話目から訳が分からないと感じる方が多くいらっしゃると思います。
この物語は序章を読んで流れが理解できると思います。
ですので、序章までで良いので読んでみて下さい。
・この小説の面白さ
・謎の深まり
・魅力的なキャラ
・この物語の仕掛け
・これからどうなっていくのだろうと思わせる
この小説の面白さが伝わると思います。
壮大な謎なので考察してみても面白いかもしれません。
もし序章まで読んで面白くないと感じた方は離脱しても構いません。
序章は10話構成にしようと考えてます。
ぜひご愛読のほど宜しくお願いします。