7話 現実逃避 1
なんだ? この重苦しい雰囲気は。
さっきまでは『つい気が緩むような落ち着いた雰囲気』が辺りを包んでいたのに、急に空気が重くなったぞ? なんか居心地悪いな。
俺は雰囲気が悪くなった原因を探り、爺さんや他の人を見てすぐ答えに辿り着いた。
ああそうか、爺さんに注意されたからか。
他の人に爺さんから注意されたところを見られたせいで、雰囲気が悪く感じるんだ。
俺は自分のことしか見えなくなる癖を反省し、さっと湯船に浸かったらすぐ出ようと考えていた。
「今、主様の頭を叩きましたね?」
……クラリスの異変に気付くまでは。
「それがなんじゃ。小娘には関係ないじゃろて」
「関係ない、ですか? へえ……私の主様に暴力を振るうだけでなく、謝罪の1つもしないんですね?」
クラリスの瞳からハイライトが消え、瞳の色が深淵のような深い紅に変わっていく。
ま、まずい! この感じはまさかっ!?
俺はクラリスがおかしなことを始めないよう、急いで肩を掴もうとした。
「ぐぁっ!?」
が、ほんの少し遅かった。
肩を掴もうとした手が空を切ったのだ。
すぐ傍にいたはずのクラリスが一瞬で姿を消し、ほぼ同時に爺さんの呻くような声が耳に入る。
俺は嫌な予感がして、爺さんの方を見た。
(な、なんだよこれ……!)
俺の目に映ったのは、クラリスに思い切り腹を殴られ床に倒れる爺さんだった。
口から鉄臭い赤のシャワーをまき散らし、全身がびくびくと痙攣している。
その様子を見ていた1人の女性が悲鳴の声をあげ、浴場内はパニックに包まれた。
「きゃああああ!! 誰か、誰か人を呼んで!」
その声を皮切りに、人々は我先にと浴場の出入り口へ走っていった。
途中滑ってコケる人がいても誰も気に留めることなく外へ出ていき、まだ俺達のことを見ているような人はいなかった。
「簡単には死なせませんよ? 体力回復ポーションならたくさんありますからね。もっともっと苦しんで、生きていることを懺悔できたら殺してあげます」
「クラリスっ!」
爺さんの命を奪おうとするな!
俺達が悪かったんだぞ、おかしな真似はやめろ!
そんな言葉が喉元まで出かかるが、声になることはなかった。
「主様? どうかしましたか?」
クラリスがゆらりとした動作で俺の方を見る。
背筋がゾクッとした。あれは本気の目だ、本気で人を殺そうとしている眼だ。
喉元まででかかっていた言葉は、完全に奥に引っ込んだ。
「なるほど『早く終わらせろ』ですか。少々お待ち下さいね」
この時、俺は理解した。
昨夜のクラリスは、アレでも俺に手加減をしてくれていたのだと。
だってあんなのおかしいじゃないか。
ただの拳で人を半殺しだぞ。並の人間にできることじゃない。
それにーー
「あはっ、あははははは!!」
心の底から笑ってるんだ、クラリスが。
あんなに生き生きと楽しそうに笑う姿はまさに、
(暗殺者? いやそんな生易しいものじゃない。……あれは純粋に人を殺すことが好きな、殺人鬼だ)
はは、こんなの俺に何ができるって言うんだ。
人とうまく喋れない、スキルもまともに使えない、だからいざ暴力を目の前にして、腰が引けてる俺なんかじゃ、
……俺なんかじゃ、クラリスを止められない。
逃げよう。逃げてみなかったことにするんだ。
俺は爺さんを殴り続けるクラリスに気付かれないよう、静かに浴場を後にした。