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9 一本の電話

   9  一本の電話




 ピクニックにいこう。そう言いだしたのはちあきだった。

「だって春だよ。命萌える季節だ。桜が降り、菜の花が伸び、若草が芽吹く。これでピクニックにいかないなんて犯罪だ」

 熱をこめて話すちあきは下手な役者のようだ。美知留は笑うでもなく真面目に答えた。いいと思うわ、と。

 かくして僕たちは連れだって公園に出かけた。僕のマンションの近くには「エコ住宅」とかいう住宅街があって、公園はその一角にあった。市と住民とが協力してエコ活動に精を出しているらしく、たしかごみは十四種類に分別しなければならなかったはずだ。あとそれから太陽光電池の取りつけ義務と。すばらしいことだと思うが、僕のような貧乏教員が住めるような場所ではない。ばかばかしいことだが、地球への愛を表現するためにはけっこうな金がかかるのだ。僕にできることといえば、車で遠出するのを控えて近場の公園で遊ぶようにすることぐらいで、だけどこの公園がけっこうきれいだ。全体がレンガ調でまとめられていて、東京の郊外にぽっかりと海外はロンドンあたりが現れたのでは、と疑ってしまう。子どもが喜ぶ遊具なんかもちらほらあって、僕はときどきそのあたりを散歩するのだが、いかにも上品そうな奥さま方が、エコバック片手に世間話を楽しんでいる風景をよくみかける。だったら子どもたちもかしこまって大人しいかと思いきやそうでもなくて、はしゃぎまわる子どもたちをみて僕は安心する。やはり子どもは子どもなのだ。子どもはいともたやすく垣根をこえる。ときに言語の壁さえ飛びこして。

 ちあきを先頭に、僕たちは公園への道を歩いた。途中スーパーでちょっとした酒やつまみも購入して。小さなレジャーシートを片手に、僕は先をいくちあきの背中をみつめた。薄くのっぺりとした背中。僕は美知留がつくったお粥を思いだす。あれものっぺりとした味だった。美知留の尊厳のために言っておくが、けっして不味かったわけではない。ただ、なんとなく物淋しかった。お粥が風邪をひいたときの食べ物だからかもしれない。僕が風邪をひくことなど滅多になかったが、一度ひいてしまうとひどく長引き、そのあいだはちあきに会えなかった。会えば確実にうつってしまうからだ。僕はもう一度ちあきの後ろ姿をみる。薄い背中、ひょろ長い四肢、骨ばった手、そしてぽっこりと突きでたくるぶし。

「変質者の目」

「え?」

 僕は驚いて美知留をみる。

「航介、いま変質者の目をしていたわ。危険よ」

 僕の顔はみるみるうちに赤くなる。ちあきがすこし前にいることだけが救いだ。どうか聞こえていませんように。僕は小声で美知留を叱る。

「失礼だな。ただぼんやりとみていただけだよ。それに、なにかと凝視する癖はきみのほうが」

「わたしのは観察。ちょっと遠いところからみているだけ。あなたの場合は視姦よ」

 視姦だって! 僕は思わず叫びそうになる。機をあわせたようにちあきがふり返る。顔いっぱいの“にやにや”。最悪だ。僕はレジャーシートを取り落としそうになった。

「欲求不満なんだよミチルちゃん。もう二ヶ月半もやってないからね。だからミチルちゃん、今夜あたり、ちょっと出かけてくれる」

「ちあき!」

 ちあきはよけい嬉しそうに笑う。僕はぐったりと疲れてしまい、桜の淡い美しさも、ほどよく塩のきいたおむすびも、どれも妙に味気なかった。ただ、ピクニックの間中ちあきの携帯電話は鳴り響いていて、その無機質な電子音ばかりが耳についた。ちあきは一度だって電話にでなかった。


 ちあきと美知留が喧嘩したのは翌日のことだ。仕事から帰ってみると、リビングはおそろしく険悪な空気に包まれていて、それで僕はちょっと怯んだ。

「なにごとかな」

 ちあきと美知留を交互にみやりながら僕は尋ねる。ちあきは携帯電話を握りしめて立ち、ソファに座る美知留を睨みつけていた。美知留は静かな顔をしている。ただじっとちあきをみつめて目を逸らさない。どちらも話さないものだからよけい気味が悪い。

「なにごとだよ」

 僕はもう一度くりかえす。ゆるゆると息を吐き、美知留が口を開いた。

「ちあきくんにかかってきた電話をわたしが取ったの」

 電話を? そういえばピクニックのときからよくかかってきていたっけ。

「その相手がまずかったの? おばさん?」

「航介には関係ないだろ」

 いささか強い口調でちあきが言う。ふだん声を荒げないちあきにしては(人を馬鹿にすることは多分にあれど)珍しく大きな声だった。しかし美知留の声はよく通るものだから、僕にははっきりと聞こえてしまった。大貫総合病院。美知留はたしかにそう言った。僕の背中を冷やりとしたものが流れる。

 大貫総合病院。マンションからは車で十五分くらい、ちあきのアパートからは徒歩五分。ちょうど幼稚園と反対の方向にある大きな病院だ。なんでも脳外科がすこぶる優秀らしく、世界中から優れた治療を求める患者がやってくる。ちあきはその病院で生まれた。ちあきの母親が産気づいたとき、具合はあまりよろしくなく、みっつの病院をたらい回しされたのち辿りついたのが大貫さんだったのだ。

「なんで大貫さんから電話なんてかかってくるんだよ」

 僕自身よくお世話になる身近さと、ちあきを助けてくれた感謝とで、僕はその堅苦しい病院のことを「大貫さん」と呼んでいる。一度園でもそう呼んでしまい、ずいぶんと恥ずかしい思いをしたこともあったのだけど。ちあきはふんと鼻を鳴らした。

「ちあき」

「うるさいな。ただの定期健診だよ。今月は忙しくてまだいけてなかったから」

 ちあきの言葉に、僕はほっと息をつく。定期健診。それならまあ心配はない。てっきりなにか異常がみつかり、それでよこしてきた電話かと思ったが。

 ちあきは大貫さんで定期健診を受けていて、毎月初めの週末にいっている。どうやらちあきの内臓はどれも未熟なままらしく、ときどきうまく働いてくれないのだそうだ。詳しい話は忘れてしまったけれど、心臓の働きがどうも鈍いらしい。担当のお医者先生は町田という男性で、僕は会ったことがないのだが、めがねがよく似合う優男とのことだ。ぽっこりとした体形で妻子持ち。ちあきとはもう十年来の仲になるだろうか。ちあきの体のことをよく理解していて、変化があればすぐにでもみつけてくれるという。それで僕は彼を深く信頼している。

「だったらなんでピクニックだなんて言いだしたんだ。昨日いけばよかったじゃないか」

「ほんとうにいちいちうるさいな。忘れてたんだよ」

 ちあきは大きくためいきをつく。

「今回のことはもういいや。だけど二度と勝手なことしないで。僕にだってプライバシーってものがある」

 鋭く美知留を睨めつけると、ちあきは足を鳴らして部屋をでていった。もうすぐ夕食の時間だというのに、どこへいくつもりだろう。そう考えているうちに玄関のドアが開き、悲しいくらい静かに閉められた。僕は肩をおとし、ソファに目をむける。美知留はすこしだけ小さくなっていて、組んだ両手をぼんやりとみつめていた。

「コーヒー飲む?」

 美知留はわずかに首を縦にふる。僕は食器棚からコーヒーカップをひとつとトリコロールのマグカップをとりだした。

「悪く思わないでやってほしい。ちあきは妙に繊細な部分があるんだ。多くは自分の体について。あいつは人に弱みをみられるのをひどく嫌うから、だから病院の存在をにおわせたくなかったんだと思う」

 コーヒーをすすりながら僕は言い、言いながら不思議な気持ちになった。どうして僕はこんなことを言っているのだろう。恋人の弁明を、その恋人の好敵手にしているだなんて。なんだか妙な気持ちだ。僕はちあきを想いながら、美知留のことも大切で仕方がない。

「なんとなくわかるわ。申し訳なく思ってる」

 美知留はゆっくりとした動作で時計をみた。六時十七分。今日の夕食は昨日のカレーの続きだ。

「ちあきくん、帰ってくるかな」

 帰ってくるよ、と僕は言った。けっして美知留を安心させるためだけでなく、はっきりとした確信をもって。そう言いきれるだけの自信が僕にはあった。

 ちあきは一時間もしないうちに帰ってきた。やっぱり、と僕は苦笑する。僕とちあきはほんとうにたくさんの時間をふたりで築きあげてきたのだ。だけどちあきが大きなホールケーキを買ってきたのには驚いた。直径が二十何センチもある特大サイズ。爽やかな笑みでちあきは箱をさしだし、訳もわからないまま僕が受けとる。

「パーティーをしなきゃ」

 とちあきが言った。僕と美知留は箱をみつめて首をひねる。とたん、小さな破裂音がリビングに響いた。僕は肩を震わせ、思わず箱から手をはなしそうになる。ちあきはけらけらと屈託なく笑い、うっすらと煙をあげるクラッカーを放り投げた。

「ハッピーバースデー航介、ハッピーバースデーミチルちゃん。連名で悪いけど、店の人にちゃんとメッセージも入れてもらったんだよ。みて」

 僕は驚いてちあきをみる。僕の誕生日は二月。すっかり忘れていた。ちょうどちあきがカナダにいたころだったから、園児は口々におめでとうと言ってくれたが、ちあきのいない誕生日はどことなく味気なかったっけ。

「美知留も誕生日だったの、最近?」

「ええ。二月の終わり。だけどよく知ってたわね」

 ちあきは自慢げに笑ってみせる。ありがとう、という僕たちの声はぴったりと重なった。

 ちあき原案のメッセージプレートは傑作だった。もちろんばかばかしいという点で。ブラックチョコのペンシルで、ホワイトチョコの板にはこう書かれてあった。「ハッピーバースデー ふにゃチン・航介 がっつき・ミチル」。お店の人はきっと、注文を受けて目を白黒させたに違いない。ちあきはたいそう満足げで、進んでフォークや皿を用意などしたりする。美知留はしげしげとメッセージを読み、それからにやりと笑った。小ざっぱりとした笑顔ばかりだった美知留が初めてみせた、幾分人間くさい笑みだった。

「食おう! カレーなんて忘れて」

 忘れられるはずなんてない。僕はルーをすっかり鍋ごとあたためてしまっていたから、部屋にはスパイシーなにおいがぷんぷんと満ちていた。カレーのにおいを嗅ぎながら味わうケーキ。思わず顔をしかめたくなる組み合わせなのに、それでいて妙に愉快な気分だった。

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