8 小の字
8 小の字
幼稚園の朝は八時に始まる。白髪まじりの用務員さんがひとりいるのだが、彼だけはどうやら七時半に出勤しているらしい。一度、錆びた自転車をひどくのんびり漕いでいる姿をみたことがある。赤い自転車がふらふらいくのをみていると、僕はなぜだか夜店の金魚すくいを思いだした。冷たく角ばった槽のなかで、優雅に鰭をなびかせる和金たち。彼はともかく、僕たち教員は八時前後に登園すればいいわけで、僕の場合はマンションから車で二十分ほどだから、世間様に比べると楽なものだろう。電車通勤など考えるだけでぞっとする。僕はつぶあんでもこしあんでもなく、車両は片栗粉をまぶしたやわらかい餅皮ではない。つまり、たくさん詰めこまれたところで嬉しくもなんともないということ。
園長先生が朝の会終了を告げ、先生方はそれぞれの仕事に戻っていく。僕は園児たちから預かったにっきちょうを点検していたが、新納先生がやってくるのをみて顔をあげた。
「おはようございます」
「おはようございます」
新納先生はちょっと下唇をつきだすようにして話す。
「これ、ありがとうございました」
さしだされたものを受けとり、ああ、と僕はつぶやく。『なけないカエル』。僕のお気に入りの絵本だ。
「先日はすみませんでした。あれから携帯電話はこまめにチェックするようにしています」
僕はジャージの左ポケットをぽんと叩く。新納先生はうなずいたが、ほんとうはポケットになんてなにも入っていないのだ。携帯電話はやっぱり家に置いてきたまま。
「どうでしたか」
いつまでたっても新納先生が動こうとしないので、僕は苦しまぎれにどうでもいいことを言った。新納先生は小さくはっと息を吸い、それから新しいものを発見するような目で僕をみた。
「よかったです。とても。お話の最後には泣いちゃう子どもなんかもいて」
「そうですか。きっと新納先生の語り口がお上手だったんですよ。僕も精進しないとなあ」
新納先生は深く頭をさげた。そしてもう一度僕の顔をみた。
「澤井先生」
「はい?」
「なにかいいことでもありました?」
え? どうしてだか僕は思わず右頬をなでる。新納先生はそれ以上なにも言わず、大股で自分のデスクへと戻っていった。僕は手のなかに視線を戻す。水彩絵の具で描かれたカエルは悲しみに顔をいっぱいいっぱい歪め、だけど泣けないものだから、それはまあひどい顔をしている。頭ばかりがでかく、ひょろ長い四肢のカエル。その姿は、ふと僕に僕たち自身のことを思いださせた。僕たち、つまり、僕とちあき。鳴けないカエルはできそこないと呼ばれ、池の底に隠れてひっそり暮らす。悲しみ、憤り、そして孤独。だけどカエルは涙を流すことができない。くすぶる感情は腹のうちに溜まっていくしかない。かわいそうな、哀れなカエル。そういえば、この絵本はどういう結末だったろう。
いいことでもありました? 新納先生はひどい勘違いをしている。最近の僕のまわりは厄介事だらけだ。みすぼらしい貧乏神が、負けず劣らずみすぼらしい風呂敷に荷物をまとめ、どうやら僕のマンションにあがりこんできたらしい。それくらい僕はいろいろと困っていた。
まず、なんといってもちあきの存在。四日前に体調を崩し、しかしその夜にはすっかり元気を取り戻したちあきは、ことあるごとに僕を挑発してくる。しかも美知留がいるときをわざわざ狙っているようなのだから厄介だ。食事をすれば「あーん」などとやってくるし、風呂に入れば裸のままでそこらをうろつく。ちあきの足はカモシカのように細く、だけど力強い。そしてその足が僕にどんな効果をもたらすかをちあきはよく知っている。
それに美知留のことだって。ちあきはともかく、美知留までも僕の部屋を出ていく気はほとほとないらしく、毎朝大学に向かい、夜になると当然の顔をして帰ってくる。ときどきスーパーで買い物をすませてきたりなどもする。美知留は家事をこなせる女性で(といっても格別秀でているわけではない。ただ動きにはおそろしいほど無駄がないというだけで)、そこのところはけっこう助かっている。ちあきとは喧嘩するでもなく、仲よくするでもなく、しかしやっぱり自然な距離感で接している。それについてもまあいい。ただ、どうしても僕が我慢できないのは夜のことだ。
「多数決といこう。あくまでも平和的にね」
すっかり顔色のよくなったちあきが言う。四日前の夜のことだ。僕たちはそれぞれコーヒーを手に座っている。美知留が使っているのはトリコロールのマグカップ。彼女がわざわざ家から持ち出してきたものだ。
「まず僕の提案。ベッドを使うのは僕と航介。悪いけどミチルちゃんにはソファで寝てもらう」
「なぜ?」
「だって僕と航介は恋人同士だから。人にみられながらやるのは趣味じゃないし」
「ちあき」
思わず僕が口をはさむと、ちあきは待ってましたといわんばかりに口元をゆがめた。ちあきの下品な冗談にも美知留はたいして動揺しなかったようだ。むしろ、そうもあらんといったようすで頷きなどする。しかしこの提案自体には賛成しかねるようだ。憮然として言いかえす。
「だけどそれはおかしいわ。だって、わたしたちはいまや同等のはずじゃない? たしかにあなたは航介の恋人だけれど、それがなにかしらのハンディになるとはわたしには考えられないわ」
ふむ、とちあきは言った。なるほど、たしかにそうだ。そりゃ僕が悪かった。僕はひそかに驚いた。ちあきが素直に過ちを認めるなんて、こいつ、いったいどうしたというのだろう。
「じゃあこうしよう。グーパージャンケン」
ちあきが握りこぶしをつきだし、美知留もそれに従う。ふたつのこぶしが並んだところで、ちあきは僕をふり向いた。
「航介も」
「ちょっと待ってくれ」
ちあきと美知留は顔を見合わせ、それからもう一度僕をみた。しかし手を下ろしはしない。
「僕の意見を言わせてもらうと、まず、美知留がソファで寝ることについては反対だ。こう言うと美知留は怒るかもしれないけれど、なんといっても女の子だからね。次に僕と美知留がベッドで寝る場合だけど、やっぱりこれも反対だ。美知留は腹に一物あることを宣言していたし、そんな女性と一夜をともにするのは危険だ。どうにか避けたい。最後に僕がソファで寝る可能性についてだけど、これは皆無だ。もっての外。ベッドカバーは新しく買い替えたところで、きみたちが夜半に喧嘩でもして傷つけられたらかなわないし、それになによりここは僕の家だ。ふたりとも忘れてそうだから言っておくけど」
ふたりはいつのまにか手を下ろしていた。僕のすさまじいまでの弁論に、やや呆気にとられたようすでいる。僕はなかなか満足した。胸の内がすっと軽くなるのを感じる。
「じゃあ」
とちあきが言った。
「妥協案をみつけなきゃ」
そしてみつけだした妥協案というのがこれ。リビングでの雑魚寝。
僕は最後まで抵抗した。もともとベッドのスプリングが変わっただけでも数日寝苦しい僕だというのに、フローリングに敷いた布団のうえで、しかも両脇にちあきと美知留を抱えて眠るだなんて、とてもできようはずがない。しかしちあきと美知留はなぜか強い結束力を発揮し、そろって僕を追いつめた。元来、僕は口げんかに弱い男である。加えてちあきは昔からの口達者だ。結果、僕は惨敗し、意気揚々と布団を並べるちあきたちを横目に、せっせとソファやら机やらをどかしてやる派目になった。
ちあき、僕、美知留。この並びだと、きっときれいな川の字にはなるまい。むしろ小といったほうが近い。とにかく、僕たちはいびつな人文字を描きながら眠らなければならなかった。これは僕にとってけっこうな負担だ。日付が変わるころ、僕はリビングの電気をすっかり消してしまったが、暗闇も僕に安息をもたらしてはくれなかった。右にちあき、左に美知留。僕の心臓はひどく落ちつかない。時計の秒針の音と鼓動の音。ちぐはぐで噛みあわない音のやりとりが僕をよけいにそわそわさせる。シャンプーの香りが暗いリビングを包む。
僕は首だけを動かしてちあきをみた。ちゃんと毛布はかかっているだろうか。足先がはみ出たりなどしていないだろうか。ちあきは珍しいほど行儀よく眠っている。背を丸め、吹きつける北風から身を守るようにして。僕は首をひねり、反対側の美知留をみやる。美知留も小さく丸まって眠っていた。まるでちあきと同じだ。男の子のように短い髪。まだしっとりと湿り気を帯びている。
ふと右手にぬくもりを感じる。ちあきが僕の手を握りしめていた。はっとして顔をうかがうと、ちあきははっきりと目を開いている。まっすぐに僕をみつめる揺るぎない瞳。そのなかに小さな星屑をたくさん宿して。ちあきはなにも言わない。僕もなにも言わない。気がつけばちあきは目を閉じ、再びゆっくりと寝息をたてていた。僕は戸惑う。もしかするとさっきのは幻だったのか、僕をみつめる荘厳なまでに美しいちあきは。しばらくちあきをみつめていると、今度は左手を優しくつかまれた。絡まる僕と美知留の指。しかしまるで嫌みな感じはしない。ただ自然に、安らぎを求めて結びついている、そんな具合。そのとき僕はなぜか、ほんとうになぜだか分からないけど泣きたくなった。妙に心があたたかくて、そして妙に淋しい。僕たちはどうして出会ってしまったんだろう。そしてこういう形で。いつのまにか僕はほんとうに泣いていた。声はもらさず、ただ涙が頬を流れるままに任せて。嬉しいのか悲しいのかわからない。ただ、流れる涙はひどく熱く、しかしそれを心地いいと感じたのは確かだ。
右手はちあきと、そして左手は美知留と。もしもこのうえちあきと美知留とが手を繋ぎあえば、世界はなんと幸せなことだろう。僕とちあき、それからみちる。できあがった不思議な三角形は、社会をうまく歩いてやるにはきっと苦労することだろう。だけど、そこでしかみえない景色がきっとあるに違いない。僕はまだみぬ美しい景色に思いを馳せる。春にみる菜の花、夏の入道雲、秋の虫たちの声音に冬に散る雪。寒さに首を縮める亀の子のようなちあきのとなりに僕、そしてそのまたとなりに美知留。これでいい。僕は思った。このままでいい。
夜が静かに更けていく。僕の涙はとまらない。やがて秒針の音が闇に溶け、僕は夜空とひとつになった。