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7 牛、そして歯のない老人

   7  牛、そして歯のない老人




 コーヒーを片手にインターネットの波間をただよう。ヴィシソワーズに始まり、白身魚のとろとろ煮つけ、お粥のかぼちゃペースト乗せ、やわらか親子丼、などなど。離乳食のページは色鮮やかで品数も豊富だ。中でもこのサイトは、いかにもらしい離乳食(たとえばパンのミルクお粥だとかりんごの甘煮だとか)以外にも大人顔負けの料理が充実していてそこがいい。以前作ったことがあるメニューなんかもぱらぱらとみながら、僕はたくさんの写真を目で追いかける。

 美知留はどうやら勉強中らしい。ノートに張りつくようにしてなにかを書きこんでいる。途中、ときどき思いだしたように辞書をめくる。上質の紙がこすれる涼やかな音。とても声をかけられる雰囲気ではない。美知留は均整のとれた背中から鬼気迫るものを発し、ひたすらにシャープペンシルを走らせる。ぬるくなったコーヒーを一口すすり、僕はまた情報の波にさらわれていく。

「やだ。あなたパパだったの?」

 美知留の声で我にかえる。どれくらいの時間が経ったのだろう。美知留は僕の肩ごしにウィンドウを覗きこんでいて、いつのまにか机のノートやら辞書やらは片付いていた。勉強は終わったようだ。

 美知留はひどく真面目な顔で冗談を言う。というよりも、半ば本気の節さえ感じる。彼女が冗談を言うことは少なくないが、ときどき冷やりとしたものを覚えたりもする。まあ、そんな独特な空気感が、僕はけっこう気にいっているのだけれど。

「まさか。だけどあながち間違いでもない」

 美知留はすこし首をかしげる。

「ちあきだよ。あいつ、腹の調子が悪いみたいだったから」

 フルーチェをほんの申し訳程度食べてしまうと、ちあきはしばらくトイレにこもり、青い顔で出てきたかと思うとベッドに突っ伏してしまった。細い体。やっぱり病院にいこう、と僕はちあきをなだめたが、ちあきはすっかり眠ってしまったふりをして動かなかった。我の強い子どものようだ。

「ふうん。やっぱり航介は優しいのね」

 美知留は屈めていた腰を伸ばした。

「ところで散歩になんていかない?」


 僕たちは街路樹の下を歩いた。冬のあいだ固く閉ざされていた幹が、芽吹きの季節を喜び、静かに心を震わせながらうたっている。緑々とした香りを胸にすいこみながら、僕たちは日曜の町を歩いた。

 ちあきは膝を抱えるようにして眠っていた。幼いころからの癖だ。いつだってちいさく丸まって眠る。その姿をみると僕は不安にならざるをえない。胎内であたたかな海に浮かぶ貧弱なお豆さんを連想してしまうのだ。赤茶けて、しわだらけで、不格好な赤ん坊。僕の大切な、そしてか弱いお豆さん。しかしちあきの寝顔はおだやかで、息はしっとり湿っていたが、朝方の燃えるような熱さはなかった。慎重に毛布をかけなおす僕を、美知留がじっとみていた。

「ふたりの歴史を教えて」

 歴史? 身重な大型トラックが通りすぎ、僕の言葉をさらっていく。地面がびりびりと震える。僕はもう一度訊き返さなければならなかった。歴史って?

「そう、歴史。それこそ歴史の教科書みたく淡々と話すの。あったことだけを、私情を交えずに」

「歴史の教科書か」

 僕はふと考えを巡らせた。たくさんの感情が入り乱れた歴史の教科書。たとえばこんなふうに。「1582年、本能寺にいた織田信長は、織田家に仕える武将明智光秀による襲撃を受けた。ひどい裏切りだ。これを本能寺の変という。年号は覚えやすい語呂合わせとして『いち(1)ご(5)パン(8)ツ(2)』がよく使われるが、これはこの事件の重大さを甚だしく損なうものである。よってこの語呂合わせの在り方に筆者は問題を提起する……」。

 絶え間なく走りゆく車に追いこされながら、僕はちあきとの思い出を追いかけた。僕とちあきの歴史。すごしてみればあっというまの、しかしふり返ってみればずいぶんと長く、色濃い歴史。求められるままに話しながら、僕は思い出の鮮やかさに驚いた。たとえば喧嘩した明くる朝にちあきがみせた不格好な笑顔だとか、両家そろって(当時僕は小学生の終わり頃で、ちあきに愛情は感じても、恋愛のそれとはまるで違った)でかけたハイキングで立ち小便するちあきの後ろ姿だとかいう、いわゆる主役らしい思い出に隠れていそうな風景が、次から次へとあふれてくる。皮肉なことに、美知留の存在はちあきのかけがえのなさを僕に改めて思い知らせた。

「ちあきは未熟児だったんだ」

「みじゅくじ」

 美知留はアマゾンで育った少年が初めて言葉を発するように、それはぎこちない発音でくりかえした。僕はうなずく。そう、こんなに小さかったんだ。それにひどく赤茶けた色をしていて、赤ん坊ってどれもあんなものなのかな? とにかく印象深いよ。僕はちあきがいかに小さかったか、いかに弱々しかったか持てる言葉をありったけ使って説明した。美知留は真剣な表情をしている。敬虔な信者が、教祖のありがたいお言葉を一言も聞きもらすまいとするかのように、つよく思いつめた目をして。

「じゃあ僕も訊いていいかな」

 一通りを聞いて満足したのか、美知留は素直にうなずいた。

「きみは大学生をしているということだったけど、それはどうして?」

「華の女子大生にしては老けているって言いたいのね」

 美知留は例の真面目とも冗談ともつかぬ口調で言った。まあいいわ。そのとおりだもの。

「簡単に言うと出戻りなの。一度勤めて、また大学に戻った。違う大学だけどね」

 美知留が言うにはこうだった。四年制の大学を卒業し、都内の出版社に就職。出版業に詳しくない僕、おそらく一般的な立ち位置だろうけれど、そんな僕ですら知っている有名会社だ。だれもが羨む成功の道だったはずなのに、美知留はそれを、たった二年で手放してしまう。理由は職場の上司にあった。直属の上司、大原部長と美知留は言ったが、彼がどうも美知留をいたく気にいったらしい(「厚い胸板を誇りにしている遊び人タイプだったわ」と美知留は言った)。用もなく話しかけてくるのは毎日のこと、美知留がわりかし愛想よく返していたのをいいことに、あげくしつこく食事に誘いなどもしてくる。こうなると社内にも変なうわさがたつ。美知留はばかげた噂話に興味はなかったが、そのために自分の能力を見くびられるのだけはごめんだと思っていた。それに、その仕事は美知留とたいそう肌が合ったらしい。楽しめる仕事などほかにそうそうあるはずもない、だから美知留は大原部長の誘いもうんと我慢した。しかしある日、ついに堪忍しきれなくなった彼女は、大原部長にきっぱりとこう言ってやったのだそうだ。

「申し訳ありませんがわたしにはどうしても好きになれない人種がいまして、それというのは仕事もできないのにふんぞり返ってデスクに座っているような輩なんですが、つまりそういうわけでお誘いを受けるわけにはいきません」

 僕は思わず苦笑する。それじゃあ大原部長に面と向かって「あなたは役立たずだ」と言っているのも同じことではないか。

「それで、出戻り」

「そう。ほんとうは辞めずにそのまま居座ってやろうかと思ってたの。だけどなんだか意欲が失せちゃって。変な話よね。部長にがつんと言ってやったら仕事がまるで楽しくなくなっちゃった。まるでわたしは部長に渇をいれてやるためにあそこへ就職したみたい。でもまあいいの。ほかにやりたいこともみつけたし」

 やりたいこと。僕がつぶやくと、美知留は手をゆらゆらと動かした。空気の層をつかんで風に揺らすみたいに。

「染色。わたし、いま大学で染め物を学んでいるの」

「へえ。芸術家だ」

 美知留はまんざらでもなさそうにほほ笑んだ。

「もうひとつ訊いてもいいかな」

 美知留はすこし小首を傾げた。どうぞ、ということらしい。髪が揺れ、形のいい耳がちらりと覗く。いけないことを言うような気がして、僕の胸は妙に騒いだ。

「気を悪くするかもしれないけど。きみはどうして、その、僕に好意をもってくれたのかなって」

 美知留は目だけを動かして僕をみた。それからなにも言わずに視線を戻す。心臓の鼓動が全身に広がる。

 ずっと不思議に思っていた。たった四五回のメールののちに、突然送られてきた「会いませんか」のメッセージ。だけどどうしてだろう。もちろん顔写真のやりとりなどするはずもなく(まあたいしたことない僕の顔だけど)、僕の本質にせまるような言葉のやりとりもなかったはずだ。なにが美知留の琴線に響いたというのだろう。話を聞くに、美知留はどうも確固たる自分をもっている女性に思えるのだが。

「どうして自分を好きになったかだなんて」

「うん」

「それ、ちあきくんにも同じように訊いた?」

 僕の足が止まる。美知留も続けて歩みを止めた。まっすぐな視線。化粧箱に並べられ、まち針で刺し貫かれた昆虫のように、僕はすっかり動けなくなってしまう。いや、と答える僕の声は頼りなく掠れた。いや、訊いたことない。

「じゃあわたしにも訊かないで、そんなくだらないこと」

「……わかった」

 僕はしばらく考えてから、

「ごめん」

 先に立って歩いていた美知留は、無駄のない動作でふり返ると、さっぱりとした顔で笑った。


 ちあきが夕方まで目を覚まさないだろうことは分かっていたから、僕たちは外で昼食をすませ、スーパーに寄ってからまたゆっくりと散歩をして帰った。寝室をのぞいてみると、やっぱりちあきはゆるやかな寝息をたてていた。

 散々迷ってから、夕食はくずし白身魚のとろーり和風あんかけに決めた。これなら僕たちだって無理なく食べられる。ちあきは四時すぎに目を覚まし、僕をみるなり腹が減ったとのたまった。まったく、うちの王子さまはこれだから困る。しかし僕とて慣れたもので、はいはい、と適当にあしらいながら、さっさとちあきの分だけを先に仕上げてやった。

 ちあきはおそろしくゆっくりご飯を食べた。気を利かした美知留が、朝と同じようなお粥を作ってくれたのだが、それですら一口に三十回近く噛んだ。おまえは牛かとからかいたくなる。ぽつぽつと交わされる会話にもまるで無頓着で、ちあきはひたすら口を動かす。歯のない老人がチューインガムを食むように、もごもご、もごもごと。

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