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4 勝手知ったる他人の家

   4  勝手知ったる他人の家




 熱々のアメリカンコーヒーを飲み、カップの縁からふたりをうかがう。向かいあって談笑するちあきと美知留は仲のいい姉弟にみえなくもない。しかし、ちあきがにこやかであればにこやかであるほど、僕の頭はずきずきと痛んだ。

 状況を整理してやる必要があるだろう。まず、美知留との関係をけしかけてきたのはちあきだった。女と遊んでおいで、なんて棘のある言葉が本心でなかったことは、いまとなっては明らかだ。ちあきはこうして僕たちの邪魔を――誤解を招くだろうか。つまり僕たちの友情の邪魔を――しようと戻ってきたわけだから。しかしどうして? ちあきという人間を、どうやら僕はまだ理解しきれずにいるらしい。まったくもってなにを考えているのか分からない。それに留学はどうなったのだろう。ちあきが日本を経ったのは二ヵ月とすこし前で、単位を得るためには最低でも三ヶ月が必要だとか言っていなかっただろうか。

「純粋な子だったのね」

 笑いを含んだ美知留の声に、僕はようやく気をとりなおす。美知留は愉快そうにこちらをうかがっていて、ちあきは僕と目もあわせようとしない。まったく話を聞いていなかったものだから、僕だけすっかり置いていかれてしまっている。

「というのは」

「呆れた。おとなしいと思ってたら聞いてなかったの? ちあきくんが教えてくれたのよ。小学五年生のバレンタインの話」

 聞くなり僕の顔はみるみる熱をもち始めた。トマトみてぇ、とちあきが毒づく。

 小学五年生の冬。二月十四日にだけチョコレートに与えられる不思議な使命、つまり男女をつなぐ赤い糸のような役割を、僕たちはおぼろげながら理解していた。そしてひどく関心をもっていた。そういう年ごろだったから。

 クラスの男子は、みんなある女子の動向に注目していた。中沢はるみ。十五年ほど経ったいまでも、フルネームで思いだせるあたり驚きだ。とにかく、彼女はほんとうにチャーミングで、マラソンだって速かったし、ふと風がふいたときなんかに芽生え始めた女の色香が漂ったりする、いわゆるクラスのマドンナだった。

 僕はなにをやってもそう目立たない小学生だったけれど、実はひそかに期待していた。それというのも、僕たちの小学校では毎年クラス替えがあったというのに、僕と中沢はるみは四度も同じクラスですごし、だからたぶん中沢はるみと最も長く時間を共有してきたのは僕だった。だけどことさらに無関心をよそおい、僕は算数の授業に集中しているふりをする。僕を含めたクラスの男子はそれとなく中沢はるみに視線を送り続けたのだが、中沢はるみは一向に気づくようすもないまま、ついに放課後を迎えた。

 僕は肩をおとした。中沢はるみは、おそらく朝の早いうちに、ほかのだれかにチョコレートを渡してしまったに違いない。たとえば三組の阿部とか、五組の牛丸とか。泥に沈みこんだような気持ちで黙々と帰る準備をしていると、弾んだ足音がして、中沢はるみが僕のとなりを駆けていった。通りすぎると同時にぽん、と小さな包みを机に置いて。赤い包装に白いリボン。僕の鼓動はいっきにスピードを増していく。

「ハッピーバレンタイン!」

 鈴の音のような声で言うと、ほかの女子たちと笑いさざめきあいながら、中沢はるみは教室を走り出ていった。僕はしばらく彫像のように小さな包みを眺めていた。

 と、ここまでだったらいい話だ。幼くてこそばゆい恋のお話。しかしこれには続きがある。

 まずひとつめの惨事。中沢はるみにもらったチョコレートを手に、僕はちあきの家を訪ねた。そのころちあきは僕の家の二件隣りに住んでいて、僕たちはしょっちゅう互いの家を行き来した。その日ちあきは軽い風邪気味で、スポーツ刈りであらわになった首筋がほんのりと赤らんでいた。小学一年生になったばかりの、ほんとうに小さな「お豆さん」。僕とちあきは本物の兄弟のようで、ちあきにだけはなんでも相談することができた。家族にさえ言えないことだって。だから僕は赤い包みをとりだして、クラスの女子にこれをもらったんだけど、どうしたらいいかわからない、と言った。

「食べれば」

 ちあきは無感動にそう言った。ちあきは口達者な子どもで、そのころから周りをばかにする兆候があった。

「食べられない。もったいなくて」

「じゃあ一緒に食べよう」

 なにが「じゃあ」なのか定かではないが、僕はこっくりうなずいた。そして包みを解いたのだが、中から表れたのはいびつな楕円、おそらくはハートをかたどろうとした果ての失敗だろうチョコレートだった。ごろりと転がるそれは、原始時代に僕たちの祖先がつくったという石器だかなんだかを思わせた。あまりに不格好な愛情の形にちあきはげらげらと笑い転げ、発作のように身をふるわせながらハートもどきのチョコレートをつかみあげると、あっという間もなく口のなかに放りこんでしまった。僕は口を丸くし、力強く咀嚼するちあきをみつめる。ちあきは薄目をあけて僕をみると、ふん、と鼻を鳴らしてこう言った。

「うん、板チョコの味」

 僕は泣いた。男泣きに泣いた。驚いたちあきの母親が走ってくるほどに激しく。

 そしてふたつめの惨事というのは……。

「それがまた義理チョコだったっていうんだから傑作だよね」

「そうなの?」

「うん。なのに航介ったらすっかり勘違いしちゃってさ、なけなしの小遣いで花なんて買ったわけ。で、緊張しながらそれを渡しにいったらさ、その子なんて言ったと思う?」

 僕はちあきの薄い唇を、ホッチキスかなにかでとじてやりたい衝動にかられる。

 中沢はるみがなんと言ったか。僕はもちろん覚えている。僕の幼心をひどく傷つけた一言、「こんなの役にたたない」、だ。そう言われて初めて気づいたことに、中沢はるみは両手に大きなかばんを提げていて、そこから色とりどりの包装紙がはみだしている。僕はようやく悟った。中沢はるみはクラス中に義理チョコをばらまき、都合よく勘違いした男子たちは、彼女にせいいっぱいの贈り物を返したわけだ。そして僕のせいいっぱいは「役にたたない」。僕はうちひしがれた。

 美知留の笑い声を極力聞かないようにしながら、僕はちみちみコーヒーを飲んだ。もうすっかりぬるくなっている。やがて空になったカップに目ざとく気づき、ちあきはさっと立ちあがった。

「お代わりを淹れてあげるよ」

 ちあきはにやりと笑う。僕の背筋はぞわぞわする。

「勝手知ったる他人の家、ってね。ミチルちゃんもどう、お代わり?」

 インスタントコーヒーの壜を手に、くるりとふり向いたちあきはおそろしく爽やかで、僕は夏の日差しにあてられたような眩暈を感じた。


 僕はいますぐにでもちあきを問い詰めてやりたかったが、そこは悪がしこいちあきのことだ。ちょこまかと器用に動きまわり、なかなかふたりきりの時間を作らせない。美知留がトイレに立つと洗面所で顔を洗い、美知留がコーヒーカップをシンクに運ぶと後についてクッキーなどを取ってくる。しかし、美知留が突然の電話に部屋を出たときはどうすることもできず、ついに僕とちあきは向かいあった。

「どういうつもりだよ」

 ちあきはふんと鼻を鳴らす。

「どういうつもりって、こういうつもり」

「ふざけないでちゃんと説明しろ。どうしてこんなことをしたんだ。つまり、美知留をけしかけておいて、挙句ぶち壊そうなんて真似」

「ぶち壊す? 僕の存在のために壊されるものがふたりの間にはあるの? そういう感情はないって話だったけど」

 僕は盛大にためいきをついた。こうなってはすべてを話してやるしかない。

「僕のほうにはまるでない。誓ってそう。だけど美知留はどうも違うみたいなんだ。一時の感情かもしれないけれど、僕に好意をもってくれている」

 ほーう。ちあきは間延びした声をあげた。

「そう仕向けたのはおまえだろう。それで結局なにがしたい?」

 ちあきはにやにやと笑うばかりだ。しかし目だけは笑っていない。ぎょっとするくらい強い力をもって、僕を正面からみつめて離さない。その目の光に、僕は二十歳の夜のことを思いだした。

 月が細い夏の夜、狭くて息苦しいアパートで僕たちははじめて体を重ねた。僕は幼児の心理を学ぶ貧乏大学生で、ちあきはまだまだ着慣れないブレザー姿の高校生だった。男同士の行為になどまるで造詣がなく、それはちあきも同じことで、僕は初めてハンドルを握る教習生のようにうろたえた。おそるおそる手を伸ばしてみると、ちあきは快感よりもずっと強い痛みに顔をしかめた。僕は怖くなって手をひっこめようとしたが、その腕をちあきがつかんだ。そしてなにも言わずに僕をみつめた。たくさんの星をちりばめたような、夜の色をした瞳。

 気づけば僕は勃起していた。丈夫なカーゴパンツごしにもはっきりとわかってしまうくらいに猛々しく。もちろんちあきはすぐに気づいた。そしていたずらの現場をみつけたときのように、口の端をいじわるに歪めた。なんとか態勢をたてなおそうと僕は咳払いなどしてみる。しかし空咳はむなしく響き、僕はよけいみじめな気持ちになった。

「とにかく……彼女を傷つけるなら僕は許さない。僕は友人としての美知留を大切に思っている」

「友人としてのミチル」

「そう。だいたい、僕の恋愛だとかそういう感情はぜんぶ――」

 硬直。全身がしびれたようになり、僕は言葉を失った。

 ちあきの唇、ちあきの吐息。首にまわされたちあきの腕の感触、色のない頬、行儀よく並んだ長いまつげ、額をくすぐる栗色の髪。僕の時間が一瞬止まり、僕のすべてはちあきに支配された。濃厚なキス。ちあきは果実をむさぼる獣のように、僕の唇に激しく噛みつく。赤い実をほおばる草食の獣。尻を浮かせ、覆いかぶさるようにして。頭がくわんくわんになり、僕の思考は白い靄に包まれた。

 ちあきはわずかに顔を離すと、ゆっくりと薄いまぶたを開けた。星の輝きが僕を射すくめる。それからもう一度、今度はより慎重に、丁寧に唇を舐めた。ねっとりとした感覚。僕の唇は意思と関係なく開かれ、そこからちあきの舌が入りこんできた。さらに体重がかけられ、僕は体のうしろに手をついて支える。歯列をなぞるちあきの舌。体の髄まで麻痺するような感覚。その恍惚とした時間は、無遠慮な物音に突如として打ち消された。

 つむじ風さえ巻き起こしそうな勢いで僕はふり向いた。ドアのところに美知留が立っている。おそろしいほど感情のない顔で、僕をじっとみつめている。僕はその表情から言葉を読みとることができない。冷え冷えとした、冬の用水路に張った氷のような顔。

 言うべき言葉などみつかるはずもなく、僕が口をぱくぱくとさせているあいだに、美知留はさっさと部屋を出ていってしまった。紺色のドアが開き、閉じる。その音にも感情はまるでこめられていない。僕はそれを茫然とみおくる。残されたのは熱い吐息と、淋しげに落ちたままの美知留の携帯電話だけだった。

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