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3 あなたの家で、あなたの撮った写真をみる

   3  あなたの家で、あなたの撮った写真をみる




 もとはといえば、美知留に関することは僕にとって厄介事でしかなかった。僕にとっての恋人はちあき以外に考えられず、ちあきもそれをわかっているはずだ。ちあきがなにを考えているのかはさておき、とにかく僕にとっては迷惑極まりない事態だったはずだ。望まない展開だった。それがどうやら、気づかないうちに問題はその土俵を替え、それどころか問題は問題であることすらやめた。つまり、恋愛という概念を捨ててみれば、美知留はこのうえなく気があういい友人だったということだ。

 僕は美知留との距離感を楽しんでいたし、彼女のとなりを心地よく思っていた。美知留と分かちあう心安さは十年の知己のそれにも似、得がたい友人にめぐり会えたことで、僕はちあきに感謝さえしていたのだけれど。


 水道水を一息に飲んでしまったあと、僕は携帯電話の電源を切った。美知留には申し訳なく思ったが、ほかにどうすればいいのかわからない。せっかく築いた友情が音をたてて崩れていく。まるで前向きな方法ではないけれど、電源を切ることで、僕はその音に耳をふさいだ。

 しかしいつまでも耳をふさいでいることはできない。目を閉じて歩いていたら、いずれ壁に頭を打ちつけてしまうように。

 一週間もしないうちに、僕は新納先生にお叱りをうけた。新納先生は同じ年少組をうけもつ女先生で、とんぼのように大きな眼鏡をかけている。ひどい近視で、度の強いレンズのために輪郭がすっかり歪んでしまっている。だけど園児思いのいい先生だ。あとそれから、ビールよりも発泡酒のほうが好きという変わり者でもある。アップリケはチューリップ。恐れを知らない園児たちは、新納先生のアップリケを指さして「似合わない!」と叫んだのだったが。

「澤井先生、あなたちゃんと携帯電話を確認していらっしゃいます? 電源が切れているようですよ。昨日からずっとお電話しているのに繋がらないから」

「すみません。長く充電をしていなかったものですから」

 僕は苦い気持ちで謝った。電話は僕が持っている『なけないカエル』という絵本を持ってきてほしいという内容だったらしく、新納先生は今日それを読んであげる約束をしていたのだという。『なけないカエル』を楽しみにしていた園児たちは、僕が持ってきていないことを知ると泣いてしまう子などもいて、僕はすっかり参ってしまった。子どもの涙をみるのはつらい。

 いつもよりぐったり疲れて帰宅すると、僕は一番に携帯電話の電源をいれた。するとさっそくメールが二通とびこんできた。どちらもやっぱり美知留から。おそるおそる、僕は一通目のメールを開く。受信日は最後に会った土曜日だ。

「いきなりあんなことを言ってごめんなさい。でも本心よ。とりあえず話がしたくて電話をしたんだけど、聞こえるのは電子的な女の声ばかり。うんざりしちゃう。あなたの家は地下深くにあるわけ? とにかく連絡してきてちょうだい」

 深く息を吸い、ことさら時間をかけて吐きだした。悩みながら二通目を開く。すこしばかり時間をあけて、水曜日にそれは送られていた。

「死んでいるの? それとも富士の樹海にでもいる? どちらにせよ同じことだけど」

 美知留らしいユーモア(出会って二ヵ月程度だというのに、僕はもうはっきりと“美知留らしさ”を感じることができる)に苦笑していると、突然携帯電話が震えはじめた。ディスプレイには受話器が持ちあがった電話のアニメーションと、「初島美知留」の文字が点滅している。着信だ。ひどく進まない気持ちで、だけど僕は通話ボタンをプッシュした。

「不躾な質問をするけど」

 開口一番美知留はそう言った。どうぞ、とか、よしてくれ、とか僕が言うのを、しかし彼女は待ってくれなかった。

「あなた、もしかして童貞?」

 美知留の一言には強烈なボディブロー並みの威力があった。それでも僕は自身の名誉のために立ちあがる。

「答えはノーだ、きみが真面目にその質問をしているのなら。だけどどうして?」

 美知留はこの回答をなかなか気にいったらしい。電話口で満足げな吐息をつくのが聞こえた。しかし声はまだ怒り調子だ。

「どうしてって、あなたがすっかり逃げているからよ。ちょっと告白されたくらいで怖気づいて、情けないわ」

「怖気づくっていうとちょっと語弊があるけれど、ごめん。悪かったと思ってる」

 美知留はもう一度息を吐いた。それからさっぱりと笑った(と思う)。

「いいわ。あなたのそういう素直で真面目なところ、好きよ」

 ありがとう、と僕は言った。声がほんのすこしだけ掠れる。

「だけど償いはしてもらわないと。女を五日も待たせたのよ」

「申し訳ない。薄給の僕だけど、できる限りのことはする」

「お金なんて必要ない。ただ、今週末、航介の家に招待してほしいの」

 僕の家? 声がすっかり裏返ってしまう。そう、僕の家、と美知留はうたうように繰り返した。

「写真が趣味って言ってたじゃない。たっぷりあるだろうアルバムをみたいのよ」

「じゃあ全部持っていくよ。大したものじゃないけれど貸したっていい」

「そういうわけじゃないの。わたしは単にアルバムを眺めたいわけじゃない。ましてやファミリーレストランの電灯の下でなんて。あなたの家で、あなたの撮った写真をみる。このことに意味があるの。わかる? 好きな男をもっと知りたいっていう純粋な乙女心なのよ。これ以上わたしに説明させないで」

 僕は黙った。美知留もしばらく黙り、僕がなにも言わないでいると再び口をひらいた。

「心配しないで。なにも家にあがりこんで襲おうってわけじゃない。ただ純粋に、お友達として遊びにいく。たとえ腹に一物あったとしても」

「物騒だな」

 僕は笑った。美知留はそれを了承ととらえたらしい。じゃあ土曜日、いつもの時間にあのファミリーレストランで。そう言うと、さっさと電話を切ってしまった。やれやれ。まるでちあきがふたりに増えたみたいだ。

 そう思ってから、僕は長くちあきとメールをしていないことに気づいた。たしか、三日前に送ったメールにはまだ返信がなかったっけ。続けてメールを送るのはすこし気が引けた。ちあきだって遊んでいるわけではなく、立派にカナダで勉強をしているのだ。なにかと忙しいのかもしれないのに、まるで返信を急かしているようで申し訳ない。しかし僕は、気づけばけっこうな長さのメールを書いていた。携帯電話の電源を切りっぱなしで新納先生に怒られたこと、スーパーで買った卵がレジでふたつ割れてしまったこと(お一人様一パックの特売品だった)、オリオン座がすこしずつ傾いていること、それから今週の土曜日に美知留を家に招待すること。すこし迷ってから、美知留に告白されたことは黙っておくことにした。そんなことを書いたりしたら、ちあきはきっと大喜びでこんなメールをよこすだろう。じゃあ次の土曜日が楽しみだね、とか、避妊は忘れないように、とか。

 だけどやっぱりちあきからの返信はなかった。


 よく言われることだし、自分でも認めているけれど、僕はかなりの心配性だ。A型の性だと思っている。それに加えてちあきは人の心配をひどく煽る性質のやつだ。もともと体が弱いくせに、なにかにつけて無茶をする。

 未熟児だったちあきは中学生になってもそれは小さくて、悪童たちには「お豆さん」とからかわれていた。いまでこそ身長はそこそこまで伸びたものの、僕にとってはいつまでたっても「お豆さん」なのだ。いつ熱をだしてしまうか、いつ体調を崩してしまうか、心配で心配で仕方がない。特に、ちあきが遠く海を挟んだ地にいると思うと、僕の心配性はいつもに増して激しくなった。風邪でもひいただろうか。いや、それだけじゃなく、解熱のために打った注射が日本人の体質にあわず、ひどい副作用で入院してしまっているかもしれない。入院先の病院はナイアガラの滝の近くで、その音に慣れないちあきは夜も眠れず、食事も喉をとおらなくなって……そんなふうに、僕の想像は悪いほうへと喜んで突き進んでいく。

 そういうわけで、ほんとうならば美知留と会えるような気分ではなかったのだが、これ以上彼女を怒らせては厄介だし、それに彼女の発する心地よさに安心させてもらおうという算段もあって、土曜日、僕はいつものファミリーレストランへと美知留を迎えにいった。マンションのドアには汚れひとつない。出ていきしな、僕はもう一度パソコンをチェックしてみたけれど、やっぱりちあきからのメールはなかった。

 そして僕たちは昼食をすませ(僕はナポリタン、美知留は和風ハンバーグだ)、近くのコンビニエンスストアに寄っていくつか物を買った。スナック菓子、野菜ジュース、それからカルピス。道も知らないのに美知留は僕のすこし前を歩き、十字路に出くわすたびにこちらをふり返る。僕はレジ袋を提げていない側の手で、右、とかまっすぐ、とか簡単な指示を出す。言葉のやりとりはなかったが、手信号はなんだか秘密めいていて、僕はむしょうに愉快な気分になった。缶蹴りの最中、こっそり目配せを交わした土くさい思い出がよみがえる。

 よく磨かれたドアの前に立ったとき、太陽はやや傾き始めていて、空の三分の二あたりのところで赤と青が押しあっていた。美知留は上機嫌で、学園祭でばかをやらかした学生の珍エピソードを語っていた。たらふく酒を飲み、いい具合にできあがった彼は、校舎の三階から堂々たる放尿をしてみせたのだという。以来、美知留の大学の学園祭ではアルコール類が禁止になったらしい。まったく迷惑な話だわ。美知留はそう言ったが、言葉のわりに声はずいぶんと楽しそうだった。

 そして笑いながらドアを開け、すっかり顔のゆるんだ僕を出迎えたのは朝にはなかったちあきのブーツだった。僕はすっかり固まってしまう。


   ☆


 ちあきがいる。この部屋のなかに。でも、なぜ? 思いもかけない事態に気が動転し、僕はまともに考えをまとめることすらできない。ただ、ぐちゃぐちゃに混乱した頭のなかで、単純な五文字がひたすら跳ねまわっている。

 ――はめられた。

 ちあきのやつ、いったいなにを考えているんだ!

「奥さん、うしろがつっかえてるわ」

 美知留の吐息が首筋にかかり、彼女が背伸びをしていることを僕は感じる。僕の肩越しに部屋を覗きこみ、けっこうきれいにしてるのね、と美知留は感心したような声をあげた。

「あら?」

 正面のドアがゆっくり開く。僕はもう成り行きをみまもることしかできない。右手に提げたレジ袋が、ずっしりと重みを増していく。

 すこしだけ伸びた髪、ひどく痩せた頬、すこしだけ白くなった肌。だけど口元の“にやにや”は相変わらず。清潔なシャツに深緑のベスト、それに細身のジーンズをはいて、いかにも上品なたたずまいだというのに、僕にはちあきが悪魔にしかみえなかった。悪魔は笑みをさらに深めると、いつもよりずっと甘ったるい声で言った。

「おかえり航介。それに、そちらは――彼女かな?」

「違うわよ。いまは」

「『いまは』。そりゃけっこう」

 僕は意識を飛ばしてしまいたくなる。美知留は突然の闖入者にたいして驚いていないようだ。ルームメイト? などと訊いてくる。僕は返事に窮した。草を噛んだように口のなかが苦い。

「まあ……それに近い感じ」

 どうにかこうにか答えてやると、ちあきはますます愉快そうに笑った。そして右手をまっすぐ美知留にさしだし、いけしゃあしゃあとこう言った。

「はじめまして。僕は國守ちあき。きみの名前は?」

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