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2 パン生地の耳

   2  パン生地の耳




 翌日は目がくらむほどの快晴で、運動場にござを広げながら、僕は何度も空を見あげた。けむりのように薄い雲、気ままで退屈な鳥の飛翔。カナダにいくならどのルートかな。ちょっと考えてみて気づいたが、羽田空港は園のずっと東にある。したがって、カナダ行の飛行機が頭上を通ることはありえない。二十六にもなっておセンチか、と僕は自分に苦笑する。

 昨夜、僕の突然の訪問を、ちあきはとうに見越していたらしい。エレベーターを待つのももどかしく、息せききって階段を駆け上った僕を、ちあきは驚くでもなく出迎えた。風呂はすませたらしい。寝巻替わりのスウェットに濡れた髪、それからほんのり色気づいた頬。しかし手には細く美しい壜が握られていて、それはお子様用のノンアルコールシャンパンだった。

 なに。ちあきが言うように、これは今生の別れではない。それにいまは便利なもので、世界中がインターネットで繋がっている。パソコンがあれば、たとえちあきがブラジルのリオデジャネイロにいたって、まるで背中あわせでいるほど親密に言葉を交わすことだってできる。僕は退屈したマダムたちとたくさん話し、そのアップリケかわいいですね、なんて笑われながら仕事をこなした。ミチルからメールが届いたのはその夜のことだ。

 夕食をすませ、僕はさっそくちあきにメールを送ろうとパソコンを開いたのだが、ふと別の光に気がついた。点滅しているのは携帯電話のイルミネーションで、赤い光がメールの受信を告げている。僕は普段から携帯電話を持ち歩かない。大概の場合、机の隅やら下駄箱の上やらで留守番をしている。どうも苦手なのだ。最近はこれを時計代わりにする若者が多いようだが、僕には馴染みそうもない。駅のホームや横断歩道、助手席でさえ、ぱちぱちぱちぱち遠慮なく携帯電話を開いているさまをみると、わけもなく悲しくなったりもする。自分だって若者のくせに、とちあきはよく笑っていたっけ。あと、持ち歩かないなら意味がない、とも。とにかく、そういうわけで僕は携帯電話が苦手だ。

 ミチルのメールは簡素なものだった。ちあきの言葉を借りれば、ほんとうにけろっとしている。まず返信が遅くなったことにちらりと触れ(こういう理由で、だとかはまるでなく、ただ、遅くなってごめんなさい、とだけあった)、それから軽い自己紹介が続く。

「へえ。名前、美知留って書くんだ」

 初島美知留。きれいなリズムだ。変わった名前だからてっきりあだ名だろうと思っていたけれど。なかなかややこしい漢字で、一発ではどうしても変換してくれない。彼女は親しく名前で呼ばれることを願っていたので、単語帳に登録しておくことにした。つい最近覚えた機能だ。僕のことも航介と呼んでください。当たり障りなく、僕はそう返しておいた。

 僕たちは何度かメールをやりとりした。美知留の返信は間延びしたもので、三十分ほど間があくことも珍しくなかった。しかし不思議と腹はたたず、それどころか僕は美知留に好意をもった。美知留のメールには、僕におもねるような空気が一切みられないからだ。敬語がくだけた口調になっていくのに、時間はそう必要じゃなかった。ゆったりとしたやりとりは妙に心地よく、僕はその合間にパソコンを立ちあげ、ちあきに送るメールを書いた。

 美知留は僕とそう変わらない歳だったが、しかし大学に通っているという。その理由には興味がわいたが、初コンタクトで不躾な質問もどうかと思い、僕はしばらく内容をためらった。そうしていると、返信もしないうちに美知留から続けてメールが届いた。

 会いませんか。件名はなく、本文もそれだけの、とてもけろっとしたメールだった。

 ちあきからの返信はこなかった。


 美知留が指定した場所はファミリーレストランで、それもなんだか彼女らしいと僕は笑った。

 美知留の誘いに、まさか乗るとは思わなかった。これはもともと僕が望んだ展開ではないし、あちらとて特別僕に期待していたわけでもないだろう。だけどその週の土曜日、僕たちはファミリーレストランで会った。ちあきはあれから二日ほどしてメールを返してきたが(寒すぎて笑っちゃう、という内容だった)、僕は当然のようにこのことをちあきに報告した。やましい気持ちがかけらもないことをあえて伝えてやるために。ちあきから大した反応はなかった。

 先に互いをみつけたのは美知留の方で、窓際に座る彼女は、手をふって僕に合図をした。僕は案内のウエイトレスにかるく頭をさげ、大股で美知留のテーブルに向かう。

 黒いジーンズに飾りけのないアイボリーのシャツ。ベージュのカーディガンを羽織っていて、二つに折られたコートが席の脇に置いてある。短い髪は耳にかけていて、あらわになった右耳がとても美しい形をしていることに僕は気づく。よく練られたパン生地のようだ。

「わたしの耳がどうかした?」

 さっぱりとした笑顔で美知留が言い、僕はようやく耳を凝視していたことに気づいた。わずかに顔が熱をもつ。

「いや――ううん、なにも」

 美知留はちょっと首をかしげたが、表情はそのまま変わらなかった。ノートに貼ったまっすぐな付箋みたいな笑顔。

「それはともかく、はじめまして、かな? 美知留です」

「はじめまして。航介です、澤井航介」

 僕は無意識に右手をさしだし、それで美知留はすこし不思議そうな顔をした。僕は間違ったことをしたと慌てて手をひっこめようとしたが、一瞬早く、美知留がその手を掬いとった。しっかりとした握手だった。美知留の体温はすこしだけ高い。

「ごめんね、いきなり会おうなんて言って。迷惑じゃなかったかな」

「全然。土日はこれといった用事もないし」

 ちあきがいないから、と僕は心のなかでつけ足す。

 ご注文はよろしいですか、とやってきたウエイトレスが言い、コーヒーを、と僕は答える。若いウエイトレスは悲しげに顔をしかめた。

「申し訳ございませんが、コーヒーの単品はご用意しておりません。ソフトドリンクはすべてドリンクバーとなっております」

 じゃあそれで。僕はそう言おうとしたが、あ、という美知留の声がそれを遮った。

「ごめんなさい、ちょっと待って。またあとで呼びます。ごめんね」

 ウエイトレスは愛想よく笑い、別の客の相手に戻った。美知留はというと、とりだしたメニューを熱心に眺めている。

「どうしたの?」

「ずっと思ってたんだけど、ドリンクバーって単品だと妙に高くない? セットのほうが断然お得な気がするのよ」

 そう言う美知留は真剣そのものだ。声には不思議な説得力があり、都合よく僕は空腹に気づく。結局、美知留はこんにゃく海藻サラダを、僕はマルゲリータピザを頼み、ぬるいアメリカンコーヒーを一緒に飲んだ。ピザの生地はうすく、味もけっこうなうすっぺらさだった。しかし、ファミリーレストランのボックス席はなんとも居心地がよかった。――いや。これは正しくない。美知留のいるファミリーレストランのボックス席は、と言わなければいけない。

 そういうふうにして僕たちはときどき会った。おいしいものを食べるだけの日もあれば、ひたすら川沿いを歩く日もあった。しかし、なにをしていても美知留のとなりはわりと楽しかった。もちろん友人同士の清いつきあいとして。その証拠に、僕は毎度必ずちあきへのメールに美知留とのことを書いた。ちあきは僕の生活ぶりにはたいして関心がないらしく、襲いくる風邪のウイルスと必死に戦っていた。ただ一言、つまらないなあ、と物騒なことをぬかしたぐらいで。

 留学生活はわりかし順調のようだ。ちあきは目の前の写真を説明するような口ぶりで、毎日のあれこれをメールに書いて送ってきた。ホストファミリーとキャンプをしただとか、地元の幼稚園を訪ねたのだとか、外国の子どもはどうしてこうもぷっくりしているのだろうだとか。普段びっくりするほど冷めているというか、斜にかまえているちあきにしては、それはあまりにかわいらしい内容で、僕はちあきがなにかしら落ちこんでいるのではないかと疑った。柄じゃないけど、たとえばホームシックだとかで。とにかくあいつは素直じゃないのだ。そこで、淋しいのか、と送ってみたのだが、まさかあの天邪鬼がまともに答えようはずがない。そう思っていると、こんな返事がかえってきた。

「馬鹿言わないで。そっちと一緒にしないでくれる。カナダの生活は最高。ナイアガラの滝はちょっとやかましすぎるけど、ずっと住んでいたいくらい。だけど、まあ、ちょっとだけ、航介の顔はみたいかも。こっちの人ってみんな顔が濃いんだよ。とんこつラーメンばかり食べていて、ちょっと醤油味が恋しくなった、そんな感じ」

 僕は思わず声をあげて笑った。それからちょっぴり苦しくなった。僕もちあきの顔がみたい。生意気なその声を聞きたい。パソコンの画面は煌々と明るく、孤独の影はよりいっそうくっきりと輪郭をみせる。夜はどうしようもなく広く、無意味で、僕のそばにちあきの笑顔はない。


「こういうことは最初のうちに言っておくべきだったんだけど」

 土曜日はどこも人であふれている。だけどファミリーレストランは例外だ。もうすこし時間が経てばそれなりに混雑するのだろうけど、昼食と夕食のちょうど中間ぐらいのいまは僕たちを含めても四組しか店内にはみあたらない。

 美知留は小動物のような目で僕をみた。丸く、小ぶりでくりくりとした瞳。しかし怯えたようすはまるでなく、ひたすら純粋に視線を投げかけてくる。

「続けて」

「うん。きみは気を悪くするかもしれないけれど……。端的に言って、僕はきみを異性としてはみていないんだ。こんなふうに連絡をとりあっておいてなんだけど」

 つまり? 美知留が言った。

「つまり、僕はきみを恋愛対象としてみていないということ」

「みられないの? みたくないの?」

「みられないし、みたくない」

 美知留は持っていたコーヒーカップをおそろしいほど静かに置いた。そして手をテーブルの上で重ね、まっすぐに僕の目をみた。相変わらず小動物のような目をしていたけれど、そこにはしっかりと光る強さがあった。

「ねえ航介。あなた、いま自分がどれほど失礼なこと言ったかわかってる?」

 ごめん。僕は間髪いれずに謝った。ごめん、それについてはよくわかってる。すると美知留は首をふった。

「いいえ、わかってないわ。はじめてエッチをするときに、ズボンを脱いだあなたをみて、それもしげしげと注意深くね、そしてあたしが言うの。あなた、ずいぶん小さなおちんちんなのね、って」

 大げさに言うわけでなく、僕はコーヒーをふきだした。ウエイトレスは一瞬ぎょっと身をすくめ、それから気をとりなおしたようすで慌てて走ってきた。美知留は笑うでもなく、怒るでもなく、ウエイトレスから受けとったおしぼりで淡々とテーブルを拭いた。

「いまのは物の喩えだけど、あなたが言ったのはそういうことよ。つまり、それだけ失礼だってこと」

「申し訳ないとは思ってる。だけどそんなに」

「ひどいことでもないだろう、って? やっぱりなにもわかってない。仮に、わたしがあなたをただのオスだと思っていたら、さっきの言葉だってそう気にしないわ。むしろすかっとして快いくらい」

 僕はひどく間抜けだったと言わざるをえない。そう言う美知留に、今度は僕が訊いてしまった。

「つまり?」

 ふむ、と美知留は息をつく。

「つまり、どうやらわたし、あなたのことが好きみたい」


 その日、家に帰った僕は、水道水をがぶがぶ飲んだ。

 ちあきの言うとおり美知留は造形の美しい女で、悔しいことに僕のタイプだ。街中ですれ違ったとしたら、その瞬間にはっとふり返ってしまうわけではないのに、ふとした瞬間、たとえば野菜を炒めているときなんかに、昼間のあれはきれいな人だったなあと思いだしてしまう、そんな類の美しさ。そんな美知留から、ああも強烈で飾らない好意を贈られたのだから、僕が動揺するのも仕方がないというものだ。それに、僕は彼女の存在にすっかり気を許していたから。

 水道水はひどく味気なく、それでいて後々までカルキのにおいが鼻から抜けなかった。

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