14 ミックスベリー
14 ミックスベリー
永遠に続くかと思われた夜は静かに終着駅にすべりこみ、僕たちはリビングに布団を並べた。
結局、すべてはちあき一世一代の告白だったのだ。そしてその事後報告だった。胃にガン細胞がみつかったこと、その恐ろしい響きに死を覚悟したこと。しかしその一連をとおしてちあきは――自分で言うのは面映ゆいが――僕と正面から向き合えるようになったのだ、ほんとうの意味で。これまでのようにどこかちょっとそっぽを向いてみたり、鼻を鳴らしてみたりという強がり抜きに、真っ向から僕をみつめてきたちあき。最初こそ戸惑ったものの、ついにはそれに応えることができた僕。不思議なことに、僕たちを以前よりいっそう強く結びつけてくれたのはちあきの病気――いや。そうじゃない。
美知留だ。
不具合な僕たちを結びつけてくれた、そして自らもその一端として体を預けてくれたのは、ほかならぬ美知留その人だった。
ちあきが“駒”と言うのなら、確かに彼女はその役割を見事に果たした。僕はちあきの絶対的な立場を改めてみいだしたから。だけどそれだけじゃなかった。美知留のとなりは僕にとってたいそう居心地がよく、きっとちあきにとっても(不本意なことに)そうだった。それを問うと、ちあきは不承不承ながらもそれを認めた。たしかに、ミチルちゃんのいるこの部屋って、そうあんまり悪くない、と。
「僕は明日大貫さんに戻るよ」
暗闇にちあきの声がしんみりと響く。消したばかりの蛍光灯は、いまだ明かりの余韻をほんのりとにおわせている。僕はそれが薄れていくさまをじっとみていた。たぶんちあきも、美知留も。
僕たちはまたいびつな小の字を描いて並んでいる。そしてちあきは僕の右手を、美知留は左手をしっかりと握っている。僕もその両方を握りかえす。言葉にはおよそ表しようもない愛をこめて。
やがて右手のほうから静かな寝息が聞こえてくる。いつだって一番に寝入るのはちあきだ。どんなにひどい問題をひきおこしたあとでも、我関せずといわんばかりにさっさと目を閉じてしまう。繋いだちあきの手のひらが、ゆるやかに温度をさげていく。秋が冬に移ろうように、沈みゆく夕陽に花弁が音もなく閉じていくように。その寝息がすっかり規則正しくなるのを待ってか、美知留がおもむろに口を開いた。
「どうして航介のことを好きになったのかって」
「え?」
さらりと布が擦れる音がして、美知留がこちらを向くのが分かった。
「どうして航介のことを好きになったのかって、あなた聞いたわよね」
僕はうなずく。そして部屋が真っ暗なことに気づいて「うん」と答える。
「名前なの」
「名前?」
「(美知留はどうやらうなずいたようだ)わたしの名前。メールのとき、航介はいちいち漢字で打ってくれたでしょう。そういう人って初めてだったの。だから会ってみようって」
そんなことで? 僕は思う。思うだけでなく口にもする。すると美知留は簡潔にこう言ったのだ。
「それだけじゃ不満?」
「いいや」
答えてから、僕はなんだか不思議と胸があたたかくなるのを感じる。そして素直な気持ちで言う。ありがとう、と。すると真っ暗な空気がかすかに揺らいで、どうやら美知留はほほ笑んでいるらしい。それもきっと、はっとするくらいやさしく、あたたかな顔で。僕は思わず電灯をつけたい衝動にかられる。明かりの下でその笑顔をみてみたいと思う。だけどそのとき、ふと右手を握るちあきの手にきゅっと力がこめられて、僕はこいつが実はたぬき寝入りの名人なんじゃないかと疑ったりもした。
「たぶん、あなたがわたしの初恋だわ。正直な意味での。そしてお豆さんにとっても」
僕は美知留の次の言葉を待つ。しかし聞こえるのは穏やかな吐息だけ。僕は苦笑し、また天井に目を向ける。秒針が静かに時を刻んでいる。水道の蛇口はしっかりと閉じられていてもう水は漏れない。蛍光灯はもううんともすんとも言わなくて、僕はおとなしく目を閉じた。そしてもう一度透明な夢をみる。
向きあう僕たちはやっぱり裸だった。そしてうっすらと透けてもいた。ちあきの心臓はだれよりも小さくて、だれよりもちくたくと忙しなく脈うっている。前回の夢とすこしばかり違うところがふたつある。ひとつは僕たちがみんな手を繋いでいるところ。ちあきと僕、それから美知留。僕たちはいまや、不格好で欠陥ばかりの、愛しくてたまらない三角形だった。繋いだ手から、僕たちは自由に互いの体温を交換しあった。そしてもうひとつ、その三角形の中心には赤ん坊がいた。僕の腕の、ちょうど関節あたりまでにも満たない大きさの赤ん坊。赤茶けた肌は、だけどやっぱり透明なのだ。赤ん坊の心臓はちあきのそれよりもずっと小さい。
「わたしの子どもよ」
と美知留が言う。うん、とちあきが重々しくうなずく。
「そしてあなたの子どもでもある」
そう言って美知留はまっすぐに僕をみた。僕はうろたえてちあきをみる。ちあきはにやりと笑ってこう言った。
「同時に僕の子どもでもある、というわけだ」
僕はすっかり混乱する。だけどちあきと美知留はすっかり訳知り顔で、妙に穏やかな笑みを浮かべて僕をみている。赤ん坊はぷっくりとした四肢をいっぱい動かし、世界に触れようとはりきっている。僕の胸は満たされる。繋いだ両手が熱を帯びる。僕の胸は満たされる――。
「おはよう」
目を覚ましたら、お豆さんが僕にキスをした。
パソコンを開き、新着メールを確認する。ショップ案内や園長先生からの園だよりにまぎれて、ちあきからのメールが一通入っていた。
「今日はホストファミリーとショッピングに出かけたよ。向こうの店ってただのスーパーでも規模がでかいね。おそろしく鮮やかな原色のジェリービーンズを買ったよ。こんなもの食べたら舌がカラフルに染まりそう」
僕は笑いながら返信メールを書く。
「きれいに舌が染まったら写真を送るように。美知留先生は染まり具合にはなかなか手厳しいから気をつけて。それはそうと、しょうゆラーメンは食べたくない?」
返事はすぐに送られてきた。「食べたい」。ただそれだけのメール。だけど僕にはそれが嬉しい。急いで僕もメールをかえす。じゃあ明日、園が終わったらカナダまで会いにいくよ。お土産はなにがいい?
ちあきはまた大貫さんに戻った。まだ決められた入院期間は終わっていないのだ。突然の脱出の後、顔面蒼白の町田先生との交渉の末、どうやら一週間のみの自由行動権(毎日通院することを条件に)を獲得したらしいのだが、ちあきはこれを大幅に上回って僕の家に居座ったため、それはこっぴどく怒られたらしい。普段温厚な人が怒ると怖いものだよ、と言って無責任にちあきは笑った。僕もそのお叱りの端っこを食らうことになった。ちあきを見舞った最初の日、僕はついに町田先生との対面を果たしたのだ。
「何度もお話をうかがっていましたが、お会いするのは初めてですね」
そう言ってめがねのずれを直す町田先生は、その動作すらも穏やかだった。優男という言葉がこれほどしっくりくる人もそういまい。僕たちは空のベッドのそばに腰かける。ちあきはちょっとした検査を受けているのだ。
「その、ちあきはどれくらいまで話しているんでしょう。つまり、僕との関係なんかを」
「全部です」
町田先生はにっこりと笑う。僕の舌がすこしだけ強張る。
「蔑視しないんですか?」
「ホモセクシュアルであることについてそうおっしゃっているなら、僕はしません。これがけっこう多いんですよ、医療従事者には」
町田先生は立ちあがり、空いた窓べりに手を乗せた。四人制の病室に患者さんはおらず、僕と町田先生だけだと部屋の質量はどうも大きく感じる。町田先生はひとり言のように呟いた。
「ちあきくんがそのことを告白してくれたのは、たしか中学の終わりごろだったと思います。僕はそのときちあきくんの背中に聴診器をあてていて――ほんとうにきれいな背中だった――ちあきくんはどうやら泣いているようでした。だけど僕にはそれが嬉し泣きに思えて仕方なかった。そう思ったとき、僕は自分が激しい嫉妬心にかられていることに気づいたんです。僕は顔もしらないちあきくんの恋人に、つまりあなたに嫉妬していました」
町田先生が静かにふりむく。僕は黙ってその顔をみつめる。
「言ったでしょう。多いんですよ、この業界には」
そして町田先生はゆったりと僕に歩み寄り、大きくて丸っこい手を差しだした。
「ちあきくんが退院できるまで、僕は全力をかけて彼を守ります」
「よろしくお願いします」
僕たちは固い握手を交わした。だれもいない病室でのことだった。窓は病院に併設された公園に臨んでおり、にぎやかな声が飛び交うそこは満開の桜であふれている。印象深いたくさんの瞬間がそこにはあった。
僕は『なけないカエル』の絵本を開く。最後の一ページ、幻想的な夜の風景。孤独なカエルは夜な夜なこっそり池の水面に浮かびあがり、哀れな声で月を呼ぶ。お月さまお月さま、どうして僕はなけないのでしょう。だけど月は答えない。しかし、今夜はその声を聞いている別のカエルがいた。そしてあっと驚いた声をあげた。月を呼ぶカエルの声は、それは強くてたくましい鳴き声だったから。
しばらくしてちあきからのメールが届く。それをみていると、どうやら無意識のうちに口元がゆるんでいたらしい。
「なにちあきくんみたいな顔してるのよ」
辞書を片手に美知留が苦笑する。今年の夏から始まる就職活動(二度目の)に向けて、美知留は目下英語の勉強中なのだ。TOEICの高得点を目指しているという。ウィンドウを覗きこむ美知留のために、僕はちょっと体を左に寄せた。お土産は、という僕のメールに対し、ちあきの返事はひどく簡素なものだった。
「フルーチェだって。だったら御所望の味は」
文字を読んだ美知留はふきだし、続く僕たちの声はおどろくほどぴったりとそろった。
「ミックスベリー」