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13 告白

   13  告白




 異常は十二月の定期健診でみつかった、とちあきは言った。

「異常は十二月の定期健診でみつかった。そのとき僕は普段より二キロほど体重が落ちていて、その前にひどい風邪をひいたから、きっとそのせいだろうって話したんだ。だけど町田先生は納得しなかった。それから簡単なやりとりをしたよ。食欲は? あんまり。貧血やめまいは? ときどき。よくげっぷが出たりなんてことは? ――僕はしばらく考えてから、そういえば、って答えた。そしたら町田先生の顔がどんどん曇っていくんだ。ちあきくん、念のためにだけど精密検査を受けてみたほうがいい、って」

 淡々としゃべるちあきを、僕は別の星の生き物でもみるかのような目でみた。ちあきが言っていることを、僕はなかなか理解できない。頭がそれを拒絶する。

 ちあきが胃ガンだった。胃ガン。僕はひどく混乱する。勝手なイメージが次々に湧いてくる。

 ベッドに横たわるか細い病人。痩せて筋張った腕に点滴が刺されていて、鼻にはチューブが二本差しこまれている。枕元の花はすっかりうつむいていて、風に揺れるカーテンもどこかくすんでいて埃っぽい。病人は静かに眠っているが、その体内では病魔が連夜の饗宴を楽しんでいる。胃に巣食う悪魔たち。つるはしや鍬といった物騒なものを手に手に持って、そこらじゅうの壁を、細胞を叩き壊していく。悪魔たちが通りすぎていった場所はひどく黒ずみ、強張り、もう二度と呼吸をすることはない。木造住宅を包みこむ炎のように、悪魔たちは休むことなく働き続ける、破壊し続ける。最初、歳のいった老人かと思われた病人は、これがよくみてみるとちあきだった。骨ばっていまの面影はすっかりない。目はくぼみ、とじられたまぶたの向こうは空洞ではないのかと僕は錯覚する。肉を失って皮膚はたるみ、顔や首のあちこちがしわでいっぱいになっている。体のありとあらゆる部位が痩せ細り、触れると砕けてしまいそうで僕はもう動けない。ちあきの腹が弱々しく動く。細く、どこか腐敗臭のする吐息がもれる。僕は思わず顔をそむける。ベッドの枕元で、花は孤独に枯れていく――。

「航介!」

 美知留の声で我にかえる。気づけば僕はがたがたと震えていて、美知留にしっかと抱きとめられていた。歯ががちがちと鳴ってひどくうるさい。僕の体はもはや僕の意思など関係なく硬直し、泥の海のような恐怖に慄いている。

「聞くの、ちあきくんの話を聞くのよ!」

 力強い声。僕は吐きそうになる。美知留の声が頭のなかで跳ねかえり、突風となって僕に吹きつける。僕はやっとのことで顔をあげた。コーヒーカップを持ったちあき。困ったような笑みを浮かべるちあき。コーヒーを一口すすり、口の中でその温度を確かめ、ゆっくりと慎重に飲み下す。その行為は僕の体と精神とに絶大な効果を示した。体の震えは少しずつ治まり、口の裂けた悪魔たちは白い靄の向こうへと消えていく。僕は美知留の手をやんわりとはらう。ありがとう、という声はひどく掠れていたが、ちあきも美知留もそれをからかわなかった。

「話の続きをしてもいいかな」

 僕は静かにうなずく。その拍子に涙がこぼれた。

「精密検査の結果が出たのが十二月の暮れ。町田先生の読みは外れてはいなかった。早期胃ガンのステージワン。わりと早い発見だったから、外科手術をすればほぼ完治できるって話だった。消化器科の先生には開腹手術を勧められたけど、僕と町田先生は反対した。開腹に耐えられるだけの力が僕の臓器にはないっていうんだ。だから、ちょっと小難しい名前であれなんだけど、腹腔鏡下手術っていうのを受けることにした。大丈夫、ついてこれる?」

 僕はかろうじてうなずく。美知留が僕の背中をさすってくれている。

 腹腔鏡下手術。聞いたことはないし、できれば聞きたくない類の単語だ。ちあきの説明どおりだと、それは腹に一センチ程度の穴をいくつかあけるだけでできてしまう手術らしく、それでいて開腹した場合と同じ具合の効果を得ることができるのだという。臓器というものは当然空気に触れるとあまりよろしくなく、ちあきの場合はもともとが未熟なものだから、腹を切ってそれらを外気に晒してしまうのは非常にリスクが高い。しかし、腹腔鏡下手術はかなり高度な技術を必要とする。ビデオスクリーンをみながらの施術となるためだ。それに、どれほど優れた医者であっても、ほかの臓器の損傷や悪部位の取り忘れなど、小さいながら将来の禍根となりうる失敗をする可能性がひどく高い。しかしちあきはこれを強く所望し、病院側もそれを受け入れざるを得ず、一月の半ば、ちあきは孤独のなかで手術を受けた。僕にはカナダに発つとばかばかしい嘘をつき、美知留という不思議な女性を紹介して。

「手術は成功、大貫さんはほんとうにいい先生ばっかりだ。僕はしばらくの絶対安静を言いわたされて、ベッドの上で毎日をすごした。ちょうど航介にはホームステイ先で幼稚園を訪ねたとかってメールを送っていたころだよ」

 僕は思わず顔をしかめる。筋肉が凝るくらいに激しく。ちあきは天使のような園児たちと遊んでなどいなかった。ホストファミリーとのキャンプだって嘘だった。とんこつ味のラーメンなんて食べようはずがなく、毎日同じ風景のなかでただ眠り、起き、やることもなくすごし、そしてまた眠る。楽しい思い出のあれこれは、すべてベッドのうえでみた幻だったのだ。きっと手術後の傷は痛んだに違いない。不安だったに違いない。ちあきは夜がくるたびに、あるいは僕とメールを送り合うたびに泣いたかもしれない。ひとりですべて抱えこみ、だれにも弱みをみせようとしないで。

「だけど、治ったんだな? 手術はほんとうに成功したんだな?」

 ちあきはにっこりと笑った。

「言ったよね、残念ながら僕は健康体だって。胃に巣食っていたガン細胞はすべて取り除かれた。だけどお蔭で食事といったら流動食ばかり、僕はもう正直うんざりだった。そんなとき航介からメールがきたんだ。それをみて僕はとびあがった。ミチルちゃんを家に呼ぶだって? 動くならこのときしかないと僕は思った。そして気がついたら――ほんとう、すっかり無我夢中だったんだよ――航介の部屋の合い鍵だけを持って、僕は病院を飛び出していた」

 しばらくちあきは口を閉ざした。蛇口からもれるしずくが変則的なリズムでシンクを叩く。トン、トトン、ト、トン、トン。

「ねえ」

 代わりに切りだしたのは美知留だった。

「そろそろ本題に入らない?」

「本題?」

 その言葉に僕は噛みつかんばかりに驚いた。仮に本題というものがあるならば、いまのがそうじゃなかったのか? それとも、この告白以上に僕やちあきを苦しめるなにかがまだあるというのか?

「ごめんなさい、言葉が足りなかったわね。わたしにとっての本題ということよ」

 と美知留は言いなおした。

「実際のところ、ちあきくんが生きようが死のうがわたしには関係ないの。ただ、生きようという気があるか否か。重要なのはそれだけよ」

 僕は言葉もなく美知留をみつめる。同様にして美知留はちあきを、ちあきは僕を。そうだね、とちあきは静かに言った。

「話はどうしてミチルちゃんと航介を出会わせたのかっていうところにうつるんだけど」

 トト、トン。

「日本人は美談が好きだからね。僕が自分の死を覚悟して、ひとり残される恋人のために、自分に代わる存在をみつけてあげようとした、そんなふうに思いたがるかもしれない。だけどそれは全然違う。むしろその真逆だよ」

 トン、ト、ト――キュッ。

 僕ははっと顔をあげる。いつのまにか台所に立っていた美知留が、水道をじっと睨んでいた。部屋は再び沈黙に満たされる。ちあきはゆっくりと口を開いた。

「僕には航介を手放そうなんてつもりさらさらないんだ。新しい恋人なんて許さない。だから僕は、航介をより強く縛ってやろうと思った。たとえ僕が死んでしまっても、航介が絶対僕のことを忘れられないように、二度と恋なんてできないっていうくらいに」

 僕はちあきのなかに吸いこまれていく。瞳の星はいまや隕石の勢いで僕に迫っている。なのに僕は動くことができない。指の先の第一関節だって僕のいうことを聞きやしない。ちあきは呪いにも似た言葉を呟いている。僕を取りまいて離さない黒い手を次々と吐き出している。しかし僕はちあきを愛しいと思う。ちあきはいま、全力で想いを叫んでいる。ちあきの呪いが、学校の屋上からグラウンドに向かって叫ぶ、学生たちの青臭い告白のように僕には聞こえた。

「ミチルちゃんはそのための駒だった。僕の存在を航介に刻むための道具だったんだ。道具と言ってもそこらの人でいいっていうわけじゃなかった。僕に似ただれか。だけど僕とは決定的に違うだれか。そういう人間を近くでみることで、やっぱり僕以外はありえないっていうことを、心を抉るくらい深く航介に分からせてやりたかった。だからミチルちゃんをあんな強引な手段で紹介したんだよ。僕はミチルちゃんのことをけっこう気にいっていたからね」

 美知留が音もなくソファに座る。

「わたしの母も胃ガンだったの。だから消化器科って言葉を聞いたときにぴんときた。ちあきくんのそぶりといったら、入院中の母のそれとそっくりだったんだもの。それで、あなたもしかして胃ガンじゃないのって訊いてみたら、ちあきくんったらあっさり病気を認めたわ。そしていまと同じ告白をわたしにもした。だからわたしはここを出たの。これ以上ここにいたら損なわれると思ったから」

 損なわれる。ちあきも昨夜同じことを言って泣いた。僕が黙ったままうつむいていると、美知留はぐっと腰をおとして僕をのぞきこんできた。

「あなた、もしかしてわたしが“駒”呼ばわりされたから怒っているとか思ってないでしょうね」

 僕は目を丸くする。まさにそのとおりだったからだ。

「もしかしてもなにも、それ以外考えられない」

 正直に言うと、美知留はあからさまに呆れたようすでためいきをついた。再びソファにどっしりと体重を預けて沈みこむ。僕はぐっと言葉に詰まる。

「さっきも言ったでしょう。わたしにとって重要なのは、生きる気があるか、ないか。ちあきくんにはそれがなかったの。彼は死ぬつもりで行動していたの。死んだあとにあなたをより傷つけたくてわたしたちを出会わせたの。わかる? だからわたしは怒ったのよ。駒とか道具とかどうでもいいの。生きる気のない生人なんて死人以下よ」

 まくしたてるように言ってから、美知留はぽつりとつけたした。そんなのわたしの母さんと一緒よ。

 ちあきはさっきまでの勢いをすっかり失い、あぐらをかき、背中を曲げるとがっくりと首を落とした。熟れすぎた重い果実が枝から離れるようだった。美知留も静かに口を結び、マグカップを持つ自分の指をじっとみつめている。僕の頭のなかではずっと誰かが鐘を撞いている。それも、正月の夜を震わせる荘厳な除夜の鐘や、ヨーロッパの街並みに響く優雅なそれとはまったく違う。ただただ騒々しいばかりの、やかましい目覚ましにも似た音だ。どこか近くで火事でも起こったかのような騒がしさ。火の手があがったというならそれは僕の喉だろう。口の中はすっかり渇ききっていて、僕は一言発するごとに口を閉じ、舌で唇を舐めてやらなければならなかった。

「ふたりとも話してくれてありがとう。そろそろ――考えを整理してもいいかな。つまり、もう告白は終わりということで?」

 僕はなかば願いもこめてそう言ったのだが、残念ながらちあきはうなずいてくれなかった。ちあきは奇妙なしかめっ面をしてみせると、さも困ったようにこう言ったのだ。

「言っただろう? 僕は病院を逃げ出してきたんだよ」

 どこかで鐘がひときわ大きく撞き鳴らされた、ような気がした。

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