12 藍に吹く風
12 藍に吹く風
ちあきは精力的に動いた。ちあきが通っているのは私立大学で、たしか土曜日には大事な実習があるとか言っていたはずだが、大学にいくそぶりなどまるでみせない。
「もちろん出てはくれないだろうけど、電話してみる?」
僕が言うと、ちあきはきっぱりと首をふった。
「そんなことをすればミチルちゃんは失望するよ。そして僕たちを下らないやつだと思う」
「じゃあ訳を知っている人間に彼女の居場所を聞こう。共通の友人がいるんだろう?」
「まあね。だけどやっぱりミチルちゃんはがっかりする」
「じゃあどうするんだよ」
ちあきはさっさと立ちあがり、机のうえの財布をジーンズのポケットに捻じこんだ。
「足で探す。足と、頭で」
それはほんとうに文字通り“探す”という行為だった。僕たちはときに並んで、ときに別れてそこらじゅうをねり歩き、美知留の影がないか探しまわった。美知留はこのあたりの土地勘がないようだったから、きっといくらか離れたところに住んでいるはずだと僕が言うと、電車に乗って適当な駅で降り、そこでまた同じようにねり歩く。スーパーをみつけては中に入り、かごを持つ美知留の姿を探した。ビスケットが好きな美知留が現れることを期待して、無駄に菓子コーナーをいったりきたりもした。例のファミリーレストランにも寄ってみた。僕と美知留がまだ出あったいきに、よく待ちあわせていたあのファミリーレストラン。しかしその窓際にもくつろぐ美知留の姿はなかった。
このときばかりは僕も携帯電話を持ち歩いており、ここぞ使い時とばかり僕はちあきに電話をかけた。こうしてみるとやはりなかなか便利なものだ。
「ここらですこし頭を使うとしよう。きっとパソコンを使うことになるから、国道沿いのインターネットカフェへ。これる?」
「ソフトクリーム機があるところだね。いいよ。十五分ほどで着く」
しばらくして合流した僕たちは、そろってインターネットカフェに入った。たいして仕切りのない共有ブースに通してもらい、僕たちはさっそくパソコンの前に陣を取る。途中にソフトクリーム機があったが、ちあきはまるで日に灼けた看板の前を通りすぎるみたいに、その存在を気にもかけなかった。ちあきはソフトクリームが大好きだ。
「ずっと以前、僕たちは土曜日に会ったことがある。日曜だと昼ごろから会うのに、あのときは確か夕方からっていう指定だった」
「それまではなにかしらの用事があったということだね。もしかすると大学かな」
「その可能性は高い。つまり私立大学ということだ」
ちあきは大手検索サイトをたちあげる。僕たちはひそひそと会話を続けた。
「そういえばミチルちゃんは毎日八時すぎに家を出てたな。大学の一限目っていうのは大概九時すぎから始まるから、大学の場所は航介のマンションから三十分程度。二限からの可能性を考えると二時間程度ってところかな」
独り言のようにつぶやくちあきは真剣そのものだ。条件を満たす大学を探してみると、短大も含めればけっこうな数になった。しかし、僕はそこで重要なヒントを思いだした。道路を揺らしながら走り去るトラック、春の日差しにくすぐったそうな街路樹、空気の層をつかみ、ゆらゆらと幻想的に動かす美知留の手。
「そうだ。美知留は大学で染色を学んでいる」
「染色?」
ちあきの指がキーボードを打つ。次に画面に表示された大学はたったひとつしかなかった。春乃木芸術大学。僕とちあきは顔をみあわせた。
大学直通のバスに揺られること十余分。簡素な住宅街を走っていたバスは、いつのまにやら緑うっそうと茂る山のなかへと入っていた。
ちあきはくつろいだようすで背もたれに体を預けている。対する僕はなんだかそわそわと落ちつかない。この先に美知留がいるかもしれないと思うと緊張したし、なにより、学生ばかりのバスのなかで、僕はひどく浮いてやしないかと心配だったから。しかし学生たちは僕の存在などまるで気にも留めておらず、目を閉じてバスの揺れに従う者、イヤホンから流れる音楽にあわせてリズムを刻む者など、だれもが自分の世界に浸っているようだった。そうしているうちにバスはゆっくりと停車し、空気を圧縮する音をたてながらドアが開いた。東京とは思えない風が頬を撫でる。
僕たちは学生にまぎれて歩いた。バス停におりた学生たちは、はじめのうちはひとつの流れに沿って歩いていたものの、やがてそれぞれの道へと散っていってしまう。行く先を持たない僕たちはその場に立ちすくむしかなかった。
「教務課にいってみよう。染色の実習はどこでやっているか訊くんだ」
ちあきはまるで物怖じせず、キャンパスを我が物顔で進んでいく。僕は昨夜の夢を思いだす。ひよこのように小さなちあきの心臓。どうやら、度胸の有無と心臓の大きさとはさほど関係ないらしい。僕は置いていかれないようについていくので精いっぱいだった。
教務課の職員さんはひどく事務的に道案内をしてくれた。染色コースの教室ですね、はい、染色は陶芸学科のコースになりますから同じ棟です、体育館の裏手の建物がそうですよ、はい、一階です、においがあるからすぐにわかると思います。
教えられた建物に向かうと、僕たちはすぐに教員さんの言葉の意味を知る。なるほど、強烈なにおいだ。どぶのにおい。それも夏まっただ中で、そこらの無責任な人々が生ごみなんかを捨てたりして、しかも流れが淀んでいるものだからそのままそこで腐ってしまった、そんなどぶのにおい。ちあきはむっと顔をしかめたが、なにも言わず建物に入っていく。僕もそれに従う。
場所はすぐにわかった。たくさんの大きなシンクに大きな槽、そして行儀よく並んだ物干し竿。竿にはいくつかの布がかけられていて、それはどれもはっとするほど深い藍色をしていた。ひどいにおいは並べて置かれた槽から漂ってくるらしい。中にはもったりとどす黒い液体が入っていて、黄緑色のあぶくがいくつも浮かんでいる。そのうちのひとつのそばに美知留はいた。足を心もち広げ、液体の中をまるで見透かそうとするかのように熱心にみつめている。やがてきっぱりとした動作で屈みこむと、おぞましい色の液体に怯むことなく手をつっこみ、屈んだときと同じくらいきっぱりと立ちあがった。引きあげられたのはあぶくより幾分か濃い色の布。美知留はそれを地面に擦らない高さで持つと、ぴんと手を伸ばしたまま目だけをこちらにやった。風に布が揺れる。僕たちの短い髪も揺れる。美知留は驚かなかった。
「ごきげんよう」
ちあきが朗らかに言う。美知留はなにも答えない。ただ視線を手元に戻す。僕はあっと声をあげた。美知留の持つ布が、みるみるうちにその色を変えていく。汚水を思わせる黄色みが消え、残ったのは澄みわたる藍色だけ。干されている布よりはすこし薄い色のそれを、美知留は水をためたシンクに浸した。しわにならないよう、そっと丁寧に水にくぐらせる。手首の動きは琴を弾く美女のようだ。
「くさいでしょう」
と美知留は言った。
「染め粉ってくさいのよ。夏だともっとひどい。汗ばんだ体にまでにおいが染みつくんだから」
美知留は布をとりだした。さっさと物干し竿の下に立つと、手慣れた動作でそれをかける。ちょっちょと布の端をつかみ、色などを確かめているのだろうか、優秀な監視員のようなまなざしでそれをみつめたあと、ようやく僕たちのほうに向きなおった。頬に藍色の筋がついている。
「すでに御存知だとは思うけど、わたし、ひどい頑固者なの」
そう離れていないというのに、美知留は遠くに呼びかけるようにして言う。コンクリートの壁に、美知留の声は明るく弾んだ。
「知ってるよ」
とちあきが答える。ちあきも声をはりあげる。
「だけど、実は一番の頑固者って航介なんだ。無言の圧力っていう必殺技をもっている」
僕は目を丸くしてちあきをみた。僕が頑固者だって? それはまったく心外だ。驚き呆れる僕をよそに、会話はさっさと先に進んでいく。僕はまた置いてけぼりをくらう。
「それで、ちゃんと話したの?」
「まだだよ。だけどもう覚悟はできている。ただ、きみがいないと始まらない」
美知留はようやくほほ笑んだ。
「まだ二時間ぐらいかかりそうなの。体育館には学生食堂があるけど、どうする、そこで待つ? それとも先に帰ってる?」
部屋で待ってるよ、と言って僕たちは春乃木芸術大学をあとにした。
バスは山のなかを静かに走る。ふとちあきが僕の右手を握った。僕はちょっと息をのんでちあきをみる。ちあきは立ったまま、じっと窓の外に目をむけていた。学生たちは今度こそ僕たちを異端者と認め、興味深そうに、不気味そうにうかがってくる。並んで立っているだけでなく、手を握るというアクションをひとつ加えるだけで、世界はこうも牙を剥くのだ。だけど僕たちは手を離さなかった。僕はちあきの手をつよく握りかえす。ちあきの体温はしっとりと高い。そして僕の手はちあきよりずっと大きい。僕たちは一度も言葉を交わさなかった。だけど十本の指はしっかりと絡みついて離れなかった。それで充分だった。
美知留がやってきたのは四時をすぎたころだった。手にはレジ袋を提げていて、中身は豆腐とゆず胡椒だった。うどんに入れるとおいしいの。美知留はとんちんかんなことを言いながらそれを冷蔵庫に入れた。
僕たちはそれぞれコーヒーを手に向かいあう。美知留はトリコロールのマグカップを大事そうに両手で包みこんでいる。僕の口はなにかしらむずむずと動いたが、しかし堪えた。話すべきはちあきなのだ。僕はちあきの言葉を待たなくてはいけない。
けっこうな時間がすぎた。あるいはまるで数分も経っていないのかもしれない。ただ、いつまでも続くかにみえた沈黙は、コーヒーの湯気の香りをはらむちあきのためいきに打ち破られた。
「どういうふうに言えばいいのかよく分からないけど」
ちあきは僕をみた。無数の星が僕を捉える。
「正直に打ちあけると僕はカナダになんていってないんだ。僕はずっとこの町にいた。大貫さんの、北棟の五階の部屋に、三人で」
頭を金づちで殴られたかのような衝撃。ちあきはカナダにいっていなかった。留学の話は嘘だったのだ。僕は拳をにぎり、くらくらする意識をどうにか支える。美知留は石像のように背筋を伸ばして動かない。ちあきの口だけがとどまった時間のなかで奇妙に動く。聞きたくもないその先の言葉を僕は待つ。ちあきは小さく息をついた。
「つまり、僕は胃ガンだったんだ」