11 なけないカエル
11 なけないカエル
さて、どうしたものだろう。ひんやりとした夜道を歩きながら、僕は考えをさまよわせる。三十分ほど散歩してくるようにと美知留は言ったが、長くもなく短くもないその時間をいったいどうやってすごそう。コーヒーを飲むにも、通りすぎる車のナンバーを眺めながら歩くにも、三十分という時間はどうもぴったりはまらない。あてもなく進んだ結果、無遠慮に照る電飾となにか温かな食べ物のにおいとに誘われて、僕は手近のコンビニエンスストアに入った。
結果として、これはあまりうまい案ではなかった。雑誌コーナーに立ち、適当なものを一冊選んで流し読みしてみる。パス。新しいものを手にとる。パス。そんなことを何度かくりかえし、僕はようやく薄いインテリア雑誌に落ちついた。だけど、元来立ち読みなんて性にあわないものだから、三ページほどめくったあたりで僕はもう家に帰りたくてしようがなかった。どこかに腰かけるか、子どもたちに囲まれているかしないと僕は落ちつけない性質なのだ。しかし時計の針はなかなか動いてくれない。とろとろ、とろとろと重たそうに進む長針は、はちみつの海で泳ぐ不自由な魚みたいだ。さらに悪いことに、店の時計は防犯鏡のすぐ脇にあり、僕としては時計をみあげているつもりなのに、どうやら店員さんからすると防犯鏡をうかがっているようにみえるらしい。そうでなくとも雑誌を抜いては戻しをくり返したあとだ。店員さんの警戒はかなりつよい。僕が万引きでもしでかすのではないかと探る視線はあからさまで、隠そうなんてそぶりはまったくない。僕とてやましい気持ちなどないわけだから、そんな視線などおかまいなしといきたいところだが、どうも小心者である。ページをめくる指さえぎこちなくてかなわない。ぼんやりと眺めていただけの雑誌を棚に戻し、僕は追われるようにしてコンビニエンスストアをあとにした。店員さんの視線はいつまでも背中に刺さり、ありがとうございましたという間延びした声も、しつこく僕を追いかけてくるのだった。
帰りの道を、僕はことさらゆっくり歩く。たしか時計は十五分と進んでいなかったはずだ。あまった時間をどうしようかと僕は頭をひねったが、そうしているうちに見慣れたマンションが目に入った。僕は小さくためいきをつく。コンビニエンスストアが近すぎて困るということもあるものだ。そんなことを考えていると、前からやけに早足の人が歩いてきた。大きな鞄を持っている。あまり不躾な視線をやるのもなんなので、僕はアスファルトの不格好な突起をみつめているふりをした。いかる肩、ぐいぐいと突きだされる足。それから乱暴に揺すぶられる鞄。街灯に照らされるのはグレーのカルバン・クラインだ。僕はその鞄をみたことがある。
「美知留」
声をかけると、美知留ははっと顔をあげて足を止めた。スニーカーのゴムが、鉄のマンホールと擦れあってきゅっと小気味よい音をたてる。
「――早かったのね」
奇妙な間をおいてから、美知留は普段と変わらない声で言った。しかし、僕は彼女の目元がほんのりと赤らんでいることに気づく。街灯の光さえなければ気づかなかったものを。近場にあるコンビニエンスストアや、防犯に役立つ街灯を疎ましく思うなんて、今日はほとほと変わった日だ。
「うまく時間をつぶせない男なんだ。それはともかく、いったいどうしたの、それ?」
僕は美知留の鞄を指さした。グレーのカルバン・クラインに黒の鞄。どちらもあの日美知留が僕の部屋に持ちこんだものだ。奇妙な同棲生活が始まったあの日。それがいま、きたときとまるで同じ質量に膨れあがり、美知留の手に提げられている。どうしたのだなんて、ほんとうは訊かなくてもわかっているのに。
「帰るの。お世話になりました」
後半はほとんど義務のように呟き、美知留はかるく頭をさげる。それから僕が次に口を開くより早く、さっきと同じように肩をいからせて歩いていった。競泳選手のターンにも似た機敏な動き。
「美知留!」
僕はその背中に呼びかけてみたが、決断力のある足が止まることはもうなかった。
追いかけて呼びとめようと思えばできたはずだ、簡単に。だけど僕はそれをしなかった。美知留がなぜああも怒り、家を出ていったのかは気になるし、心配だ。しかしそれ以上に僕の心を不安にしてやまないのは――ちあき。ちあきはいったいどうしているのだろう。ひとりぼっちで、あの部屋で?
僕はほとんど走るようにして部屋へ戻った、途中で何度もつんのめりながら。エレベーターを待っている時間ももどかしく、僕は階段を駆け上がる。僕の部屋は六階にある。暴挙とも思える行動をとらせた衝動を、僕は以前にも感じたことがあった。ちあきがカナダへと旅立つ前の夜のことだ。ちあきが遠く離れてしまうという危機感、不安、悲しみが混ぜ合わさり、僕はまともに事を考えることもできずに階段を駆けた。いま、まさに同じ衝動が僕を突き動かしている。“ちあきが遠く離れてしまう”。
六階のフロアにたどりつき、僕はしばらく膝に手をついて喘いだ。喉の奥が痛い。吸いこむ空気が熱い。だけど深い夏の夜空の色をしたドアが僕を待っている。汚れはやっぱりひとつとしてない。僕はドアノブを荒々しくひっつかんだ。
ちあきはぼんやりと座っていた。フローリングのうえに、膝をぺたりと折り曲げて。ただごとじゃない空気を、僕は即座に感じ取る。ちあきがこれほど無防備なようすをみせたことなど、いままで一度だってあっただろうか。いまのちあきにはまるで耐性がなく、風が吹けば倒れてしまいそうなほど弱々しかった。生まれたばかりの反芻動物よりずっと脆弱で、愛のある保護が必要にみえた。
「ちあき!」
呼びかけにだって答えない。僕は乱暴に靴を脱ぎ、座りこむちあきのそばにしゃがみこんだ。
ちあきは泣いていた。声はなく、涙さえ流さず。――涙さえ流さず。だけどちあきは泣いていた。
僕はしばらく言葉を失う。これじゃ『なけないカエル』と一緒じゃないか。鳴きたいのに鳴けず、泣きたいのに泣けず、顔をぐしゃぐしゃに歪める孤独なカエル。積もり積もった感情のために、めちゃくちゃに顰められたカエルの顔を、僕はこれ以上なく哀れなものと思っていた。だけどいまのちあきはどうだ。雪に閉ざされた町のようにしんと静かな表情。だけどちあきは泣いていた。涙を流すことさえなく泣いていた。一見穏やかにみえるようすだが、その哀れさはカエルのそれの比ではない。
「ちあき」
声が震える。泣いているのは僕なのかもしれない。
「もう訊かないから。なにも責めないから」
ちあきは喉の奥でくぐもった声をだした。ぐぅ、という獣にも似た声。かと思うと腕を伸ばし、僕の首筋にかじりついてきた。ちあきの軽い体重以上の衝撃が僕の胸をうつ。背に回した腕に遮二無二力をこめるちあき。触れあうちあきの胸をとおし、獣じみた呻きがひっきりなしに聞こえてくる。僕はどこか夢をみるような心地で、幻を抱くような気持ちで腕を伸ばし、ちあきの背をしっかと掴んだ。とたん、ちあきは火がついたように泣きはじめる。小さな子どもがやるように、激しく肩をひきつらせながら。僕の首筋がみるみるうちに濡れていく。熱い。ちあきの涙も、吐きだされる息も。ちあきを強く抱きしめながら、僕は透明のカプセルを思いだす。泣けない赤ん坊。赤銅色の体を痙攣させ、しゃくりあげることしかできないひ弱なお豆さん。
「もう戻れない」
嗚咽の合間にちあきが言う。なに、と僕は訊き返す。
「僕はもう戻れない。彼女だって戻らない。僕が……」
ちあきはそこでまたしゃくりあげる。彼女というのが美知留を指すことはもはや確認するまでもない。傷つけたから? 僕が言葉を補ってやると、ちあきは大きく首を横に振った。そして悲痛極まりない声で言った。
「僕が彼女を損なったから」
その夜、ちあきはほんとうに長く泣き続けた。僕のコットンシャツは鎖骨のあたりまでしっとりと濡れ、ちあきのポールスミスのボーダーセーターはしわだらけになった。僕は戸惑いながら、しかしなにも言うことができないまま、ただひたすらちあきを抱きしめた。夜が更けていく。ふと視線を巡らせると、食器棚のなかにトリコロールのマグカップをみつけた。美知留はもう戻らない。彼女は損なわれてしまったのだ。
そういうふうにして、奇妙な同棲生活は、ある日突然その幕をおろした。
「ほんとうにいいの?」
ちあきが言う。僕は静かにうなずく。
僕たちは裸で向かいあっている。リビングに敷いた布団のうえで、ぴったり体を寄せあいながら。
ちあきが小さく体をすくめ、僕は毛布をひきあげてその肩にかけてやる。僕の首筋あたりをまじまじとみていたちあきは、まだほんのりと熱をもった目でうかがうように僕をみた。
「ほんとうに、ほんとうにいいの? 僕はかまわないよ」
だけど僕は首をふる。
久しぶりに触れる“素”のちあきの体に、僕自身はものすごく素直に反応している。あけすけに言うと、つまり僕は勃起している。だけど今夜はちあきを抱かない。そのほうがいいと、僕はどうしてか確信をもって言うことができる。ただこうしているだけでいい。ちあきは不思議そうに身をよじる。僕はそのやわらかい髪を指で梳く。ちあきはしばらく僕の大きな手をみていたが、やがて膝を折り曲げると静かにまぶたを閉じた。僕はその寝顔をじっとみつめる。高くはないが筋のとおった鼻、行儀よく並んだ長いまつげ、色も形もうすい唇。
そして僕は夢をみる。不思議で幻想的な夢だった。
夢のなかでも僕たちは向きあっている。もちろん裸で。ちあきの体はうっすらと透明で、肋骨や、それに抱かれる心臓なんかが透けてみえる。ひよこのような心臓、未熟で小さいままの内臓、そのすべてがちあきなのだ。僕がじっとみつめていると、ちあきはくすぐったそうに顔をしかめて笑った。
「あんまりみてるとキスするよ」
僕はほほ笑みを返す。視線は逸らさない。するとちあきはステップを踏むかのような足取りで僕に近寄り、唇を触れあわせるだけの繊細なキスをする。そっとあわせられたちあきの唇。僕はちあきを感じる。透明なちあき。僕はただほほ笑みを浮かべてみつめている。やがて淡い寒色系の光が集まってきたかと思うと、まばたきをするうちにそれは美知留へと姿を変えた。美知留も裸で、ちあきと同じようにうっすらと透明だった。僕は美知留の裸などもちろんみたこともないが、夢のなかで彼女の裸体は妙に鮮明だった。左右で形の違う小ぶりの乳房、もったりとやわらかい猫が落としていったひと房の抜け毛にも似た陰毛。美知留の心臓はちあきのそれよりもずっと大きく、ゆったりと優しく動いている。あたたかな空気が世界いっぱいに広がる。そして気づいたことに、僕の体も透明だった。どうしていままで気づいていなかったのか不思議なくらい、僕の体も透明だった。
そして僕は目を覚ます、世界とともに。




