10 泥をふくむ
10 泥をふくむ
定期健診には行ってきたから。玄関を開けたとたんちあきは言い、仕事を終えたばかりの僕をいささか困惑させた。定期健診。先日大貫さんからかかってきた電話のそれだと気づくのに、僕はしばらくの時間を必要とした。
「それで?」
「詳しい結果はまだ。来週末ぐらいにもう一度いってくる。だけど変わりないと思うよ。町田先生もなにも言わなかったし」
「そうか。よかった」
口元がゆるみ、安堵のためいきが漏れる。そういえば留学中の健康管理はどうしていたんだろう。ちあきのことだから、きっとぞんざいにうっちゃっていたに違いない。だけども異常がなかったというならそれはほんとうによかった。ショルダーバッグにかけていた手を伸ばし、なにげなくちあきの頭に乗せる。わしわしと撫でるでもなく、ただ上にそっと置くだけ。僕の手はいつだってちあきの手よりも大きくて、ちあきの体温はいつだって僕よりすこし高い。大きな僕の手とあたたかいちあきの体が静かに熱を交換する。小さいころ、ちあきがまだ幼稚園の年ごろにはよくこうしてあやしたっけ。なんて思いながらふとちあきをみると、ちあきは――オーソドックな言い方になるが――鳩が豆鉄砲をくらったかのような顔をしていた。大きく開かれた目、力の緩んだ口。僕ははっとして手をひっこめる。鳩云々と表現するにはいささか重い空気が狭い玄関に漂う。僕はなにかいけないことをしただろうか。ちあき自身も驚いたようで、びくりと体を震わせると、なにも言わないまま背中を向けていってしまった。僕はひとり靴を履いたままとり残される。
その後、ちあきのようすに変わったところはひとつもなかった。毒のある冗談も、厄介な笑みも、最近新しく定番となった“牛食み”も。美知留がつくった菜の花とサーモンのパスタを、ちあきはひどく慎重に食べた。一口で何回も噛み、おそろしいほどの時間をかけて。僕は根気よく口を動かすちあきをみた。ちあきも僕の視線に気づいた。
「なに」
「別に」
「あんまりみてるとキスするよ」
何気なく放りだされたちあきの言葉に、僕はたちまち赤くなる。美知留が目だけでちあきをうかがい、それからこちらを向くのが感じられた。だけど美知留はなにも言わなかった。
ある日僕は大貫さんを訪ねた。園での仕事を早めに切り上げ、カレンダーを届けにいったのだ。このカレンダーというのはうちの園児手製のもので、毎月季節の風景や行事ごとなんかを描いている。クレヨンでめっためたに塗りたくられた画面はぎらぎらと鮮やかで騒々しく、僕が届けるたびに院長先生は目を細めて喜んでくれる。カレンダーは病院の受けつけに毎月飾られていて、患者さんにも好評なのだとか。僕が大貫さんに出向く係になったのは、僕のマンションがそこから一番近いからで、そのことに僕は異論もない。加えて僕はこの老先生が好きだった。
総合病院の院長ともなれば、偉ぶって堅苦しい言葉なんかを好んで使いそうなものだが、大貫さんのところの院長先生は違う。弓のような目の尻あたりには、えさに群がる小魚さながらに小じわがたくさん寄っていて、笑うと顔中がしわくちゃになる。子どもをみるときだってそう。院内で走りまわり、慌て顔の母親にめっとやられる子どもをみると、院長先生の顔はとろけそうになる。もちろん、彼からすれば僕だってまだ尻の青い子どもにすぎないから、僕と話しているときだって彼はときどきとろけそうな顔をする。そのたび僕は心があたたかくなる。やわらかな幸せに包まれている気分になる。きっと、院長先生のような人が僕には必要なんだと思う。僕だけでなく、ちあきや美知留、エコ住宅に住む上品な奥さま方にも。
いつだって僕は院長先生との会話を楽しむ。僕と院長先生は趣味が同じなのだ、つまり写真好き。最近はもっぱら孫ばかり撮っていると言い、院長室のデスク(ドラマでみるような機能的で小難しそうな部屋ではない)にもそれらしい写真がちらほらと飾られている。目のくりくりとした女の子で(たぶん)、彼女もいずれ院長先生のように目が細くなるのだろうか、そもそも院長先生自身幼いころはこのような目をしていたのだろうかと、僕はひとり想像にふけった。しかしどう考えてみても園長先生の幼児期は思い描けなかった。そういう人物が、つまりいま現在の姿しか想像できないという人が、きっと周りにひとりやふたりはいるはずだ。僕たちは立ったまま三十分近くも話し続け、やがて院長先生を呼ぶ声のために別れた。ついうっかり忘れそうになるが、彼は大病院の長なのだ。では失礼します、と言った院長先生の背中は、まるで曲がることなくまっすぐだった。僕が院長先生と話したなかですこしでも医学的な分野に関わるものとなると、別れ際に彼が言った「今年の春はスギ花粉がひどいです」という呟きにも似た一言だけだった。
僕がちあきをみかけたのはその帰りのこと。受けつけに飾られた今月のカレンダーをみていると、ふと見慣れた背中をみつけたのだ。顔はみえないが間違いなくちあきだった。その背中は薄手のボーダーセーターごしに背骨のようすをぷんぷんとにおわせていたから。僕はとっさに声をかけようとして――やめた。
ここ最近、ちあきのやつはどうも変だ。そもそもあのときから変だった。彼女でもつくれば。投げだすようにちあきがそう言ったとき、僕は漠然とした不安を感じた。なにかおかしい。なぜ? という言葉ばかりが頭をめぐる。明らかに減った食欲、妙に陽気なしぐさ、大貫さんからの電話を無視するかと思えば、珍しく声を荒げなどもする。それに先日の玄関でのことも。
ちょっぴりの罪悪感を胸に、僕はちあきの後ろ姿をつけた。一定の距離を置き、せかせかといきかう看護婦さんたちには怪しまれないよう注意しながら。緑とグレーのボーダーは、どこか薄ぼんやりとした色あいの服の患者さんたちのなかでけっこう目立った。しかしあっという間に見失ってしまう。よろつく車いすに気をとられた一瞬のことだ。というのも大貫さんは非常に入り組んだ造りをしていて、受けつけは中央と南口と北口とみっつもあるし、エレベーターだってあちらこちらを上下している。それに掃除がいき届いた廊下は右も左も同じようなもので、自分がどちらに進んでいるかなど、まったく見当もつかないのだ。何事もドラマのようにうまくはいかないものだ。肩を落とす一方で、僕はどこか安心していた。秘密を知ることは時としてひどくおそろしいから。そしてそんな後ろ向きの気持ちをふりはらうべく、水に濡れた犬がやるみたいに僕は頭をぶるりとやった。ちょうど通りがかった若い看護婦さんが、そんな僕をみてやわらかな笑みを浮かべる。どこか優雅に頭をさげる彼女に、僕はぎこちなく会釈をかえす。その背中ごしにみえた看板には、青っぽいゴシック体で「消化器科」とあった。
「定期健診の詳細って、でるの来週末だっけ」
なるたけさりげないふうを装いながら僕は言う。ちあきはシチューをすくう手をとめた。スプーンが半端に宙で揺れる。
「それがどうしたの」
「特に理由はないけど」
僕はいい具合に煮こまれたエビをスプーンでつつく。はっとするほど鮮やかなオレンジ。ちあきは妙に勘が鋭い。動物的直感とでもいうものだろうか。しばらく僕を舐めるようにみていたが、ことさらに無関心を装っていると、やがて小さく息をついた。
「そうだよ、来週末。ちょうど病院の近くに用事があるから、送るっていう申し出だったらいいよ」
心臓がいやに奇妙な打ち方をする。ちあきの言葉は僕に不気味なものを予感させた。僕はちあきの顔を正面からみすえる。嘘は許さないという気概を目にこめて。ちあきのスプーンがもう一度止まる。頼りなさげに浮かぶスプーンから、ホワイトソースがたらりと落ちた。
「だったら今日はどうして大貫さんにいたんだ」
ちあきはなにも言わない。ただ僕の目をじっとみている。――いや、みていないのかもしれない。そのときのちあきの表情といったら、感情らしい感情がまるでみてとれなかったのだ。驚いているのか、焦っているのか、それとも見当違いなことを言うやつだと僕を訝っているのか。ねっとりとした沈黙が続き、僕はたまらなくなって口を開いた。
「僕も今日大貫さんにいったんだ、園児たちのカレンダーを届けに。そこでおまえをみたよ。服だってそれと同じだった。消化器科、とかに入っていってたけど、どこか具合でもわるいのか?」
やはりちあきはなにも言わない。瞳のなかの星屑は消えることなく瞬いている。僕は自身の言葉がちあきになにかしらの影響を与えることを期待したが、しかしその目論見ははずれた。ちあきはまるで表情を変えなかった。というよりみせなかった、なにも。大小の光を宿しながら一切の感情をみせないちあきは、まるで宇宙を呑みこむ不吉なブラックホールのようだった。
たっぷりの時間をおいてから、ちあきがゆっくりと口を開く。
「残念だけど」
ぞっとするほど冷たい声。
「それは僕じゃない。言ってなかったっけ。今日はポートフォリオの講習会があるから遅くなるって」
僕は息さえひそめてちあきをみつめる。ちあきも視線をはずさない。
「ちあき」
「しつこいな」
ちあきは多少声に苛つきを滲ませて言う。
「航介の勘違いだよ。僕は七時半まで九号館の一〇一教室で講習を受けていた。だから病院に寄る時間なんてなかった。ポールスミスのボーダーセーターは世界で僕ひとりが所有している貴重品ってわけじゃない。それに残念だけど僕は健康体だ」
ごちそうさま。口のなかで転がすように言うと、ちあきはまだシチューの残った皿を持って立ち上がった。心配性も度をすぎるとわずらわしいな。リビングを出ていきしな、ちあきは吐くようにそう言い捨てた。僕はけっこう打ちのめされた。
美知留とふたりとり残されてからも、ねっとりとした沈黙はしばらく続いた。やがて口を開いたのは美知留だった。
「消化器科」
なかなかいい滑舌だ。僕はうなずいてそうだと示す。美知留はまたしばらく黙った。
「ねえ航介。散歩にいかない?」
僕はうっつらと美知留の顔をみる。正直とても散歩になどいく気分ではない。ちあきが嘘をついていることは明らかで、それをつき通そうとしていることも同じくらい明らかだった。いつものように悪意と茶目っけを混ぜくったような嘘ではない。笑ってすまされない類の嘘だ。えもいわれぬ淋しさと不安が胸を満たす。泥を口に含んだかのような、ひどい不快感が僕を包む。ちあきはなにを隠そうとしているのだろう。やっとのことで僕は言った。
「……どこかいきたいのなら車で送るよ」
「いいえ、どこにいくかは航介が決めるの。散歩にいくのはあなたひとりよ、航介」
僕はしばらく呆気にとられる。ひとりで散歩に? いきたくもないのに?
しかし僕は結局出かけるはめになる。散歩といっても定年後のつつましい生活を送る老人が楽しむようなそれではない。とどのつまり、体よく家を追い出されたかたちだ。美知留は有無を言わせぬすごみで僕を追いやると、三十分ほどうろうろしておいて、としんとした顔で言ってのけた。
マンションの外にでると、三月も中旬なのに夜闇はひんやりと体に冷たい。マンションをみあげてみると、まだほとんどの部屋に明かりがついている。近くの時計は八時半をまわったところ。僕は大きなためいきをつき、もう一度マンションをみあげた。六階の左から二番目。家主がおらず、その恋人と“がっつく”好敵手だけを残し、部屋は煌々とした明かりをカーテンのすきまから洩らしている。僕はざわつく胸の音を聞かないように歩きだした。