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1 足の爪

   1  足の爪




 はめられた。

 マンションのドアは深い紺色をしていて、泥がはねるとひどく目立つ。一昨日磨いたばかりだから、いまいましい汚れは見当たらないけれど。去っていく夏の、名残惜しげな夜の色。そのドアを八割ほど開けたところで、血がさっと凍る心地がして僕は固まった。背中にぞわぞわ冷たい気配がする。指先からすっと感覚が引いていき、おおげさでなく、僕はうっかり倒れそうになった。

 ちょっぴりくたびれた革のブーツ。ちあきのお気に入りだ。そこからにょっきりと生える二本の脚を、僕は目を閉じるまでもなく思い描くことができる。そのうえに続く華奢な腰や、生まれたての山脈みたいな背骨なんかも。すべてが鮮やかで、生々しい。そして象牙のような顔にはりついた“にやにや”。厄介な笑顔だと分かっているのに美しいと思わずにはいられない、そんな笑み。

「奥さん、うしろがつっかえてるわ」

 美知留の声が背中をくすぐる。

 ああ――はめられた。


   ☆


 彼女でもつくったら。なんでもないようすでちあきは言い、僕はしばらく言葉をなくした。

「なんだよ、それ」

 ちあきは足の爪を切っている。丸まった背中。ちあきの背中からは、いつだって背骨の気配がぷんぷんにおう。たとえごわついたジャージを着ていたとしても。

 昼寝を終えた猫のように、それは深々とだらしのない伸びをすると、ちあきはようやくこちらをふり向いた。しんと静まった目、そして口。どうせいつものいたずらな笑みでいることだろう。そう思っていた僕はあっけにとられた。なんだよ、それ。僕はもう一度くりかえす。なんなんだよ、その顔は。

 ちあきはにやっと口をつりあげた。

「なにって、言葉のとおりだよ。女つくって、遊んでおいでって」

「頼むからそう突拍子もないことを言わないでくれ」

 ちあきはますます嬉しそうに笑う。

 幼馴染という認識が、恋人へと移り変わったのはいつだったろう。明確なポイントはなかったと思う。たとえば線路の切り替えポイントのようなものは。赤ん坊が少年になり、少年が青年になる。そんなふうに、ごくごく自然に、僕はちあきを愛するようになった。そしてたぶん、ちあきも。

「だって、もうすぐカナダだし」

 カナダ。ちあきはあっさりそれを口にしたが、僕はけっこう傷ついた。

 ちあきの通う大学では、三ヶ月から半年間の留学が必須となっていて、ちあきはその行き先にカナダを選んだ。理由は「ナイアガラの滝の音を聞いてみたい」。いかにもちあきらしい理由だが(圧倒的な風景に出会っても、ちあきがカメラを構えることは絶対にない。ちあきの目的は感動を持ち帰ることではなく、“その瞬間”を生きることなのだ)、僕にとっての問題はそんなことじゃなく、ちあきと長く会えないことだ。それに加えて心配でもある。なんだって冬に出かけなければならないのだろう、鼻水も凍る極寒のカナダへ。

 しかしちあきは僕のもやもやした気持ちになどまるで興味がないようだ。ひとりを悲しむようすはなく、むしろ出発の日を心待ちにしている。まあ当然といえば当然だ。ちあきを待っているのはま新しい世界で、日常に置いていかれる僕と、ちあきの心境とが大きく違ってくるのは仕方がない。だけど僕はすこし淋しい。

 ちあきがうんと小さいときから、僕はちあきを知っている。ほんとうに、おそろしいくらいにちあきは小さかった。

 赤茶けた猿のできそこないみたいなちあきは、二千グラムとちょっとの重さで生まれてきた。いわゆる未熟児というやつ。ちあきは自分で呼吸することができなかった。母親のおっぱいに吸いつくこともできなかった。白いかすを体中につけ、ひどく神経質にしゃくりあげるばかりで。幸いなことに、脳やその他の神経に障害はみられないとのことだったが、自力で生きられないちあきは、母親に抱きしめてもらうこともできず、おもちゃのような透明のカプセルに入らなければならなかった。カプセルのなかで指を動かしたりする赤ん坊を、僕は息をつめてみつめていた。ガラスが曇ってしまうくらい顔を寄せ、真剣に。お兄ちゃんかな、と看護婦さんに声をかけられたとき、僕はほんとうに自然な気持ちでうなずいた。僕がこの子を守らなければ。そんな声を聞いた気がして。

 ちあきとキスをするたび、僕はそのときのことを思いだす。ちあきが吐きだす熱い吐息に触れると、泣くこともままならず、不格好な咳をするひしゃげた赤銅色の赤ん坊が脳裏をよぎる。

「いつ帰ってくるの」

 ちあきは爪を包んだティッシュを丸め、ごみ箱にめがけて山なりに投げた。ナイスシュート。

「さあ」

「さあって」

「だって、どれくらいのことを学べるか分からないでしょ。三ヶ月で全部みえるかもしれないし、半年以上かかっても理解しきれないかもしれない。一応、三ヶ月っていうふうには届けてあるけど、気が変わったらもっと長くいる。大学もそれを許してくれたから」

 投げ捨てるような声だ。説得の余地はない。

 言いながらちあきは僕の携帯電話をとりあげ、我が物顔でそれをいじり始めた。僕はただ、ぼんやりとそれをみている。細くて長い、ちあきの指。切りそろえられた短い爪の形。

 ぱちん、という小気味いい音で気をとりなおす。寝起きのような感覚にひたる僕に携帯電話を放ってよこし、ちあきは躊躇なく立ちあがった。インディゴのジーンズは、膝のあたりがしわでいっぱいになっている。

「じゃあ、準備もあるから今日は帰るわ。“ミチルちゃん”によろしく」

 呼びとめる間もなく、ちあきは部屋を出ていった。

 乱雑に閉められるドアの音を聞きながら、僕はうっつら時計を見上げる。十一時五十六分。駅まで十五分はかかるから、よほど走らなければ終電を逃してしまう。いつもながら、無茶ばかりする恋人に、僕は盛大なためいきを送った。

「冗談じゃない」

 ちあきのいない部屋に声は無感動に響く。僕は携帯電話を開いてアドレス帳を呼びだした。もとより僕に選択権はない。先方――ちあき曰く、ミチルちゃん――には、すでに話が通っていることだろう。こうこうこういう理由で、ある人に紹介したいんだけどいいかな、と。もちろん、理由は適当な嘘っぱちに決まっている。ちょっとしたきっかけできみの写真をみて、とか、きみの話をしたらどうも興味がわいたらしくて、とか。恋人が留学でしばらく日本を離れるから、そのあいだのいわゆる“間女”としてきみを紹介したいんだけど、どうかな。まさかこんな馬鹿正直は言うまい。とにかく今回のことは彼女の同意があってのもので、つまり、心待ちとまではいかないにせよ、少なくともミチルは僕からの連絡を期待している、はず。

「うわっ」

 どうしたものかと考えていると、手の中でじれったそうに携帯電話が震えた。Eメール一件受信、送り主はちあき。本文はあっさりしたもので、ミチルちゃんには事前に説明してあるから、その一文だけが液晶にぽっかりと浮かんでいる。やっぱりそうか。そうなると、僕はどうしても彼女に連絡を入れなければならない。

 しかし、とにかく。

 僕は終話ボタンを押さえ、携帯電話の電源を切った。今日はそのことについて考えるのをよそう。きっと頭が痛くなる。明日か、明後日か、そのうちに。とにかくいまは、エプロンにつけるアップリケを選んでしまわなければ。


 結局、僕がミチルにメールを送ったのはそれから四日後のことで、アップリケはひまわりに決めた。できれば何もつけたくなかったけれど、先生ひとりひとりにシンボルマークを、というのが園長先生の方針で、僕はそれに従わなければならない。ひまわりは遠目にすれば太陽にみえるし、色も黄色で僕好みだからまあいい。それより気がかりなのはミチルのほうだ。僕がメールを送ってから十日が経つが、彼女からの返信はいまだにない。簡素にまとめた内容がまずかったのか、それとも登録されてからすぐに送らなかったから?

「彼女、なかなか特殊だから」

 電話口で、あっけらかんとちあきは言う。

「なんていうのかなあ、けろっとした感じ。よく知らないけどね」

 よく知らないけどね。僕はちあきの言葉をくりかえす。いい加減なものだ。まったく、勘弁してもらいたい。

「おまえの友だちなのか?」

 いや、とちあきは言った。友だちの友だち。でも一度だけみたことあるよ。

「派手じゃない種類の美人さんだった。でも和風って感じじゃないんだよなあ。ちょっとミステリアス。あれは航介のタイプだと思うな」

「よしてくれ」

 頭を抱えてためいきをつくと、ちあきは愉快そうに笑った。それからどうでもよさそうに言葉を続ける。飛ばしていた注意事項を読みあげるように。

「そうそう。出発、明日だから」

 金槌で殴られたかのような衝撃が全身を走る。明日だって? ちあきが明日、カナダにいってしまう? 喉があっという間に干上がってしまい、僕は慎重に唾をのみこんだ。

「聞いてない」

「言ってないからね。平日だし、見送りはいいよ」

「いくよ。何時だ」

「無理だよ。だって昼だもん」

 僕はうなった。明日は保護者が園にくる。みんなでお弁当を食べよう、という恒例イベントのためで、毎月はじめの月曜日にやる。僕たち教員と保護者とが意見交換できる貴重な機会で、間違っても抜けられるものじゃない。ちあきだってそれは分かっているはずなのに、どうしてまたそんな日を選んだのだろう。じっと黙りこむ僕に、ちあきは朗らかに言った。大げさなんだよ、航介は。別に今生の別れってわけでもないんだし。

「……連絡する」

「いいよ。でも電話はやめてね。時差とか考えるの面倒だし、高くつくし。パソコンを持っていくからさ、そっちにメールしてよ」

「わかった」

 その夜の電話はほんとうに味気ないものだった。

 ちあきがいってしまう。それも、とほうもなく広い海の向こうに。ちあきがいない時間を思うと、情けないことに視界が揺らいだ。いい歳をして、と笑われるかもしれない。だけど僕は耐えられないほど苦しい。切ない。僕たちはほんとうに近くにいたから、時に手足がくっついてしまうくらい近くに、だから互いがいない生活なんて、いまさら考えようがない。

 電話機の前で座りこんだまま幾らかの時間がすぎた。どれくらいそうしていただろう。台所の冷蔵庫が低くうなる。それをきっかけに、僕はばね人形のように立ちあがり、車のキーをひっつかむと家を飛び出した。


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