旧姓を名乗り続ける彼女
「小椋さんは、なんで新しい苗字名乗らないの?」
あたしは思い切って聞いてみた。
2年前に結婚した彼女は、旧姓のまま仕事を続けているのだ。
彼女は、小倉トーストのおぐらと漢字を間違われても怒ったり愚痴ったりしないから、苗字にこだわって無いのかと思ったんだけど。
「んー……まず、始めに。苗字ランキングトップ10に入る苗字になってしまったので、それを名乗るとやたらカブる。ただでさえカブりまくりな中に、飛び込みたくは無い」
理由を言った後、彼女はランチのパスタを頬張る。咀嚼が終わるまで、次を話してくれるはずがない。
あたしもパスタを巻いて、パクリと口に入れる。
「次に……ってか1番の理由なんだけど、配偶者が『自分の苗字にする事を、当たり前のように思っている態度』だったからだよ」
咀嚼の終わった小椋さんはポツリと言う。
「え? 普通そういうもんじゃない?」
結婚する時って、ほぼ旦那さん側の苗字になるのだ。
社内結婚した佐藤さんは宮原さんになった。
半年くらいは、お客さんからの電話では宮原になりましたっていろんな人に言ってたのは、めんどくさそうだったなぁ。営業さんだから、外部のお客さんと関わる機会多いしね。
「まぁ、ほぼそうだけどさ、小椋で仕事してきたのよ、私。印鑑も通帳も免許も保険証も、クレジットカードや通販サイトの住所も全部小椋!」
そりゃあそうだ。あたしだって山原って名前で全部登録してる。
ってことは、旦那さんは変えるものが無いけど、小椋さんは全部登録を修正したり、銀行に行ったり……だよね?
「……気づいた? めっちゃくっちゃ手間だし、めんどくさくてダルくて、無駄に時間が奪われるのは、私だけってこと。それなのに当たり前の態度ってわけ」
目を見開いたあたしに、小椋さんは据わった眼で言葉を続ける。
「新しくなった戸籍謄本を持って、銀行に行かなきゃいけないし、免許センターにも行かなきゃいけない。1つ450円の戸籍が、確認のみで返ってくる場合もあれば、提出の可能性もある。そうしたらまた戸籍代が掛かる。おまけに配偶者のこだわりなのか、本籍地はあいつの実家がある長野にされちゃってるの」
え、ここ、東京……だよね。小椋さんは確か千葉に住んでいたはず……。
「長野まで取りに行くの?!」
「郵便で請求するけど、郵便で現金が送れないから、定額小為替になるし、小為替の発行手数料200円掛かるのよ。つまり、戸籍取るのに650円と送る時の切手代と返信用の切手代も必要になるの」
戸籍謄本って、通販サイトのようにポチッと申し込みでクレジット払いって訳じゃないのか……知らなかった……。
えーと、郵便の料金……面倒だから100円で計算、往復で200円。プラス650円……え?
「戸籍ひとつでこのランチ以上?!」
会社の近くにあるこのお店は、東京なのにサラダ・パスタ・デザートと食後のコーヒーか紅茶がついて750円で食べれる超穴場ランチなのだ! ありがたいよねー。じゃなくって、それだけお金が掛かるなんて知らなかった……!
「もし、戸籍が手元からなくなっても、旦那さんが取り寄せてくれるわけじゃないんだよね?」
「当たり前でしょ。取り寄せ方すら知らないはずだもの。あと、マイナンバーカード持ってないし」
時間も掛かるしお金も掛かるものを、自分のこだわりと世間の当たり前を振りかざして、自分だけ楽をしている旦那さんに対して、ちょっと怒りがわいてきた。
「だから、私いろいろ旧姓のままなの。わざわざ私だけが休みを取って銀行に行ってとか、不公平でしょ?」
銀行が開いている時間は、あたしたちも働いているのだ。手続きするとなると、有給をとらなきゃいけない。土日祝日は銀行もやっていないから。
「うわぁ……当たり前って思っていたけど……ちょっとどころじゃないほどのめんどくささに引いてる」
「専業主婦ってんなら、手続きだってしたわよ。でも違うじゃない?」
今ドキ、専業主婦なんて都市伝説みたいなもんだよね。中にはいるかもしれないけど、うちの会社の人たちみんな働いてるもん。
「何年も働いてきて、小椋としてこの会社や取引先に浸透しているのに、結婚したんだから、嫁なんだからポンと変えるのが当たり前って態度が、いまだに許せないもの」
嫁って言う割に、生活費は折半で、家事のほとんどが小椋さんらしい。
「うっわ、マジで引く……」
「でしょ? 2人で生活する方がお金はかかんないから、いまはとりあえずこれでいいけど、いつ離婚してもいいように、仕事は続けているのよ。あと、嫁なんて現代の戸籍には表記がないのに、ヨメヨメうるさいのよね。何時代の人? って気分になるわ」
どうしよう。結婚が輝かしいものに思えていた30分前のあたしが、どう頑張っても帰ってこない……。
見たくない現実を突きつけられたショックが、ジワジワ湧いている。
お互い働いていて、同じような負担だったところに、結婚で片方に負担がのしかかり、それを当たり前の態度でいるって……うわぁ、うわぁ!!
離婚に備えていつでも動けるように、仕事をやめないなんてのがリアル過ぎて……!!
まだ結婚して2年なのに、すごく夢が無さすぎる……。
「しっかり思いやり合いが大事なんだね……」
ランチのデザートは、味があまりしなかった。