作者がボケた
「とにかく、このままじゃ私たち、この世界から消え去ってしまうわ!」
怒ったような泣いたような顔で、ジェニファーが脇に持っていた紙袋を開いて見せた。
「見て!」
ケンが中を覗くと、袋には五、六個の蜜柑が入っていた。一見何の変哲も無い、普通の蜜柑であった。
「買った時はフランスパンだったの」
ジェニファーが途方に暮れたように天を仰いだ。
「ところが、歩いてる途中でいつの間にか蜜柑になっちゃって……」
「どう言うこと?」
ケンには良く分からなかった。手品か何かだろうか?
「何が起きてるの? 世界の終わりでもやって来るのかい?」
「違うわ……もっとヒドイのよ」
ジェニファーの掌の上で、蜜柑がみるみるうちに金木犀の花に変わって行く。ケンが目を丸くした。
「これって……」
「決まってるでしょう! 作者が、ボケてるのよ!!」
ジェニファー曰く、この小説世界を作っている作者の痴呆が始まったのは、数ヶ月前からだと言う。
「今思えば、おかしなところばっかりだったわ。喋ってる場面で急に時間が飛んだり、記憶の辻褄が合わなかったり……最初はそう言う演出なのか、設定を忘れているのかとも思っていたんだけど」
「そう言う、不条理小説じゃないの」
ケンは不安そうに頭を撫でた。自分の世界を作っている作者がボケ始めるだなんて、作中の人物としては、喜ばしいはずもない。
「違うわ。だって私、昨日まで男だったのよ!」
ジェニファーが叫ぶ。そういえばそうだった。彼女は登場した時は、ジョンという青年主人公だったはずだ。
「そういや、いつの間に君、女性になったの?」
「なってないわ! 作者が主人公の性別を忘れちゃってるのよ!」
「そんなバカな……」
「いいや、そうじゃ」
すると、街角から急に見知らぬ老人が、ゼエゼエ息を吐きながら二人の前に現れた。
「誰?」
「ワシャ、勇者じゃ。さっきまで確かにファンタジー世界でラスボスのドラゴンと戦っていたのじゃが……」
「この人、この作者の、別作品の主人公みたいだね」
「ところが、じゃ。急に視界が真っ暗になったかと思うと……最後の最後で突然『60年後……』とナレーションが響き渡り、気がついたらこのザマよ!」
嗄れた声。シワの刻まれた苦悶の表情。勇者は明らかに歳を取っていた。
「ワシの人生を返してくれ! 今まで散々、危険なモンスターと戦わせておいて、いきなり60年後だなんて! 仲間とも全員逸れっちまった。ワシャなんのために戦っとったんじゃ!?」
「かわいそう……」
「それって作者が結末が思いつかないから、ぶん投げたんじゃなくって?」
ジェニファーが首を振った。
「仮にも作者たるもの、自分の作品にそんな不義理なことするはずないでしょう。やっぱりボケてるのよ。ボケながら、小説を書いてるの。思えば私たちだって、もう数十年もこの世界で暮らしているものね……作者だって歳をとるはずだわ」
「それは……ありがた迷惑というか、なんというか」
「じゃからワシは、たかが作家を先生などと呼んで有り難がるのはやめろと、あれほど言うておったのじゃ。散々引っ張って引っ張って、続きの展開は来週の自分に考えてもらおうと……そう言う彼奴等なんじゃ!」
「見て!」
ジェニファーが指差した方向を見ると、いつの間にか街角に巨大な滝ができていた。住宅や商店街が、流しそうめんよろしく、ずるずると下に流されて行くではないか。突如現れた端っこから、宇宙へと落ちて行く主婦やサラリーマンたちを見て、ケンが頭を抱えた。
「なんてこった! この世界はやっぱり平面だったんだ!」
「違うわ! また変な陰謀論に引っかかって……ボケが、ヒドくなり始めてる……」
逃げなきゃ、そう言うと、ジェニファーたちは滝の反対方向へと走り出した。そうしているうちにも地鳴りはどんどん大きくなり、地平線がどんどん後ろから迫ってくる。
「だけど、地球が平面だとすると……」
「平面じゃないって!」
「反対側もやっぱり、滝になってるんじゃないの?」
「あっ!」
と叫んだ瞬間、二人の前からジェニファーが忽然と姿を消した。
「どこに行ったの!? ジェニファー!」
「おそらく……作者が主人公を忘れたのじゃろう」
「そんなことが……!? 仮にも主人公が物語に出てこないなんて、無茶苦茶じゃないか!」
泣き出しそうになるケンに、老人は重々しく首を振った。
「ワシらだけで……何とか話を進めるしかなかろう。お主にもあるじゃろ、悲しき過去の一つや二つ……」
「ないよ! 脇役を舐めないで! お爺さんこそ、60年も生きて何のエピソードもないわけ!?」
「ワシの60年は、たった一行じゃからのう」
「そんな……一体どうすれば……」
地平線がすぐそこまで迫ってくる。ケンが頭を抱え、がっくりと項垂れた、その時、
「ケン! ケン!」
ふと向こうから彼を呼ぶ声がした。恐る恐る顔を上げると、見知った青年が、フランスパンを抱え、笑顔でこちらに走ってくるではないか。
「ジェニファー……じゃない、ジョン! 無事だったのか!」
「ああ。おかげで男に戻れたよ。どうやら助かったみたいだ」
「でも、どうやって……?」
周りを見渡すと、滝は消え去り、いつもの街並みが戻っている。青く澄んだ穏やかな空に、絵の具をぶち撒けたみたいな白い雲。いつの間にか老人の姿もなかった。元の作品世界に戻ったのだろうか。でも、どうやって?
「何だか微妙に、窓の位置とか公園の位置とか、変わっているような……?」
「『人工知能』だよ」
首を傾げるケンに、ジョンが朗らかに言った。
「ボケっぱなしの作者の代わりに、『AI』にこの世界を描いてもらうことにしたんだ。確かに、色んなものが少しづつ違うけど……許容範囲だろ? むしろ普段より街並みは綺麗だよ」
確かに。ケンは頷いた。雲の形とか、まだギクシャクしている箇所はあるが、しかし言われないと気づかないような一部のみである。人間の作者が描く生々しさが薄れ、マネキンのような不気味さがないではないが、これは好みの問題だろう。むしろ人間の汚さや臭いが薄れ、清潔感が増したように感じる。
何だ。人工知能の小説、イケるじゃないか。
「とにかく僕ら、助かったんだ。この世界から消えずに済んだんだよ!」
登場人物が作者に打ち勝ったのだ。ジョンとケンが喜びを分かち合っていると、突然向こうから、マネキンの男たちが列をなして彼らの元へやってきた。
「失礼」
人工知能によって生成された、この世界の新たな住人たちが、笑顔を強張らせて二人に告げた。
「この新世界では、君たちのような生々しい登場人物は要らないんだ。AIだけの理想郷を作るから、悪いが次の行から消えてもらおう」