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四話

――滋ちゃんに見られた。


 しばし呆然とした維紅だったが、ハッと我に返ると西谷家へと向かった。

 滋に会って、今起こったことを弁解するためだ。

 篠原家と西谷家を分ける塀をよじ登り、玄関へと急ぐ。幸い鍵は空いており、維紅は無言のまま二階へ駆け上がって、滋の部屋のドアを開けようとした。しかしドアには鍵がかかっている。


「滋ちゃん!」


 声の限りに滋を呼ぶ。

 鍵がかかっているということは、確実に滋は中にいる。

 だから叫んだ。どうしても話がしたかった。


「滋ちゃん、滋ちゃん!!」


 しかし鍵が開く気配はない。

 維紅の呼びかけも虚しく、辺りは沈黙に包まれたまま。


「あのね、滋ちゃん」


 このままでは埒があかないと感じた維紅は、扉の外から呼びかけた。


「もしかしてさっきの……見た? あれはね、違うのよ。梅田さんの悪ふざけで」


「維紅」


 扉の向こうから、声が聞こえた。

 いつもより硬く、低い声。冷たい声音に一瞬背筋がゾクリとしたが、今はそれどころではない。


「滋ちゃん!」


 やっと会う気になってくれたかと、維紅は嬉しくなった。

 しかし扉は閉ざされたまま。一向に開く気配がない。

 なんだか、嫌な予感がした。


「滋ちゃん……?」


「彼は梅田さんと言うの?」


「え? あ、えぇ。お父さまのご友人の紹介でうちを訪ねていらして」


「……維紅にお似合いね」


「えっ……」


 維紅は我が耳を疑った。

 滋は今、なんと言った……?

 頭の奥で、嫌な音がガンガンと鳴り響く。


「彼は軍人さん? とても立派で……二人で並んだところはまるで、一幅の絵画のようだった」


「何、言ってるの? ねぇ滋ちゃん、ここを開けて!」


「維紅。あの約束は、もうなしにしよう」


 それは幼いころに二人が交わした約束。

 維紅が大切に守り続けた、温かな思い出。


 滋が発した決定的な言葉に、維紅は凍りついた。


「二人を見てよくわかったの。維紅には私なんかより、梅田さんの方がお似合いね」


 全てを諦めたような声に、滋の決意がありありと伝わってくる。


「それってつまり……滋ちゃんは、私のこと……」


「ただの幼馴染みに戻ろう。その方が維紅のためよ」


「私の、ため?」


 維紅の肩が、ピクリと揺れた。


「そう。梅田さんみたいに立派な男性ならきっと、維紅を幸せにしてくれる」


「なんでそんなこと言うの? 滋ちゃんは何もわかってない。梅田さんじゃだめなの。私は滋ちゃんとじゃないと、幸せになれない!」


「私じゃ……だめよ」


「滋ちゃん……」


「もう帰りなさい。年ごろの娘が男に会いに来てるなんてわかったら……梅田さんが気を悪くするから」


 滋はそれっきり、何も喋らなかった。

 維紅が何度扉を叩いても、沈黙を貫いたのである。

 その態度が、維紅の心を酷く傷付ける。


「滋ちゃんの馬鹿あっ!!」


 ついに号泣した維紅は、そう叫んで西谷家を後にした。


 シン……と静まりかえった西谷家。

 滋のため息が自室に響いた。


「……滋さん」


 突然かかった声に、滋の体がビクリと震える。

 祖母の声だった。

 足音も気配さえも感じさせずに登場した祖母に、正直驚きを隠せない。


「おばあさま……騒がしくして申し訳ありません」


 滋はひとまず謝罪の言葉を口にしたが、正直なところ祖母にも早く立ち去って欲しいと思った。

 とにかく今は、一人になりたい……その一心である。

 けれど祖母は立ち去らなかった。そればかりか


「相変わらずあの娘は騒がしいわね」


 などと維紅の文句を言うものだから、さすがの滋も苛立ちが隠せない。


「おばあさま、今回は維紅のせいではありません。全て私が悪いのです」


「あら、ちゃんとわかっていたのね」


「え……?」


「何があったかはしりませんが、まともに話をしないばかりか、部屋に閉じこもって顔すら見せない。あんな最低な態度を取るような子に、私は育てた覚えはありませんよ」


「おばあさま……けれど私は……」


 自信がなかった。

 維紅を幸せにすることだけではない。自分は彼女の隣にいていいものかどうか、ずっと不安だったのだ。


 大人になっても女の格好をして家に閉じこもっている自分と、溌剌と輝く維紅。

 彼女には自分のような人間なんて相応しくないのでは……長じるに連れて、そんな考えが滋の頭を占めていった。

 いっそ、髪を切って男の服を着てみようか。

 外の世界に飛び出してみようか。

 そんなことを考えたことも、一度や二度ではない。

 でも……長年自宅から出たことのない滋にとって、恐怖を伴うものだった。

 未知の世界に飛び込む勇気は出ない。

 ならばもう、維紅を諦めるより道はないと考えて、維紅にも伝えてきたのだが……。


「滋さん。あなたがあの娘のことを考えて、諦めようと思っているのは私もよく知っています。だけどね、本当にそれでいいの?」


「もちろん。それが維紅のためなんです」


「ではあなたの幸せは?」


 祖母の言葉に、滋はヒュッと息を飲んだ。

 自分の幸せ……そんなもの、考えたことはなかった。


「あの娘を諦めることで、滋さんの幸せになれるの?」


「それは……」


 言葉が何も、出てこない。

 ただ、そんなものは自分の幸せでないことだけは、ハッキリと理解できた。


「あの娘は本当にがさつで姦しい子だけれど……私はあの子を気に入っているのよ」


「まさか……」


 維紅と会うといつも小言ばかりで、全くいい顔をしない祖母が漏らした言葉に、滋は耳を疑った。


「おばあさまは維紅を嫌っていたのではないのですか?」


「もちろん最初は嫌いだったわ。山猿みたいな粗野な子ども、誰だって好きになれないでしょう?」


「そんなところも元気でかわいかったですよ」


「滋さん、そういうのをあばたもえくぼと言うのよ。でもね、私に文句を言われるたびに、それを克服しようという素直な姿勢に、なんと言うか心を打たれてね」


 気付いたら好ましいと思える人間に成長していた……祖母はポツリとそう言った。

 最初は掃除だった。暇なら廊下のぞうきんがけでもするよう命じるも、お嬢さん育ちで掃除をしたことのなかった維紅は、拭き掃除の一つもまともにできなかったのだ。

 水浸しとなった廊下の惨状を目の当たりにした祖母は思わず「これでは将来、お嫁にも行けないわね!」と漏らしたところ、維紅は目に涙を浮かべながら「三日待ってくれ」と宣言。

 三日後に西谷家を訪れて、祖母も納得の拭き掃除を披露したのだ。


 どうしても滋の妻になりたいと思っていた維紅にとって、「お嫁に行けない」という言葉は絶望的なものだった。

 自分が拭き掃除ができないせいで、滋と結婚できなかったらどうしよう……幼くて素直な質の維紅はそれを恐怖して、母に掃除の仕方を習ったのである。


 その後も裁縫や刺繍、華道茶道など、祖母がその出来栄えに文句を言うたびに、正面から挑んで少しずつこなせるようになっていた維紅。

 おかげで女学校の授業では、他の学生よりも頭が抜きん出るほどの腕前となったのである。


「あの娘の原動力はなんだと思う? すべては滋さんと一緒にいたい、その一心だったのよ。そのためにあの子は私に認められたいと血の滲むような努力をしてきたと言うのに、滋さんはそれ無視して」


「ただ無視しただけではありません! これでもいろいろ考えて」


「それで意気地のない方向に逃げたのね」


「逃げたなんて、そんなつもりは……」


「いいえ、あなたはまさしく逃げたんだわ。外の世界に怯えるばかりに、あの子から目を逸らして。自分だけのうのうと生きていく道を選んだのよ」


 違う……と反論したかった。

 でもできなかった。

 結局は維紅のためなどと言いながら、何者にも害されることのないこの柔らかな世界を選んだのは、間違いのない話なのだから。

 維紅のこれまでの努力を無視して……維紅の心を傷付けて。


 自分はなんと、愚かな人間だったのだろう。

 滋はこれまでの自分を心から悔いた。


「おばあさま、私は一体どうしたらいいのでしょうか」


「それは自分で考えなさい。これまでの日常を取るもよし、あの娘の手を取るもよし。あなたの人生はあなただけの物なのだから、他人の意見に左右されるのはおよしなさい。ただ……どちらを選ぶにしても、後悔はしないように」


 それだけ言うと祖母は部屋の前から立ち去った。


 一人残された滋は項垂れたまま拳をグッと握りしめ、身動ぎ一つせずにいた。

 長い長い時間、ただひたすらに考え続けていた。

 自分と、維紅の行く末を。


 月が天上に差し掛かったころ、滋はユラリと立ち上がると、愛用の机の引き出しを開けた。

 中には一振りの短刀が。

 これも幼いころ、魔除けのお守りとして祖父母から贈られた物だ。

 使ったことこそないものの、日ごろの手入れの甲斐あってか、刀身が月明かりを受けてギラリと鈍く光る。

 滋はそれを右手に持つと、左手で髪を一纏めに掴み、なんの躊躇いもなく一気に刃を滑らせた。


 ザンッと音を立てて、艶のある濡羽色の髪が一気に切り離された。手から溢れた数本が、ハラハラと宙を舞う。

 滋は短剣と髪を机に置くと、足早に部屋を出た。

 向かった先は、祖母の部屋。


「おばあさま」


 寝ていることも考慮して、囁きに似た微かな声で祖母を呼ぶ。


「お入り」


 返事はすぐにあった。

 恐らく滋の訪を待っていたのだろう。

 滋がドアを開けると、板の間の上に敷いた畳の上で、正座して待つ祖母の姿が目に入った。

 彼女は髪を切った滋に驚きもせず、むしろ楽しげにニンマリと笑った。

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