一話
終業の鐘と共に校舎のあちらこちらで、かわいらしいさざめきが聞こえてくる。
ここは良家の子女が多く通う高等女学校。十二歳から十六歳までのうら若き乙女たちの楽園である。
篠原維紅は荷物を纏めて鞄に詰めると、教室の扉に手をかけた。
カラリと音を立てて開いた扉の先に、廊下に並ぶ下級生たちの姿。彼女らのお目当てはと言うと……。
「篠原さま、今日の一日お疲れ様でした」
「維紅お姉さま、ごきげんよう」
そう、維紅その人である。
「皆さま、ごきげんよう」
そう言って片手を上げて挨拶すると、あちらこちらから黄色い悲鳴が上がる。
「お姉さまー、こっち向いてー!」
「わたくし維紅さまを想って詩を書いてまいりましたの! お受け取りになってー!」
「抜け駆けはよして! 維紅さま、こちら私が焼いたクッキーですわ!」
「篠原さまー、お慕いしておりますっ!!」
キーキーキャーキャー姦しい声を背に、維紅は少しうんざりした顔で昇降口へと急ぐ。
「相変わらずですわねぇ、維紅お姉さま」
「絹代さん……あなたまでその呼び方はやめてちょうだい」
維紅の親友である絹代は、うんざり顔の維紅を見遣りウフフと笑った。
元士族の家系に生まれ、薙刀と剣の達人である維紅。薙刀を構える姿が凛々しくて素敵だと、女学生たちには大評判だ。
思春期の女子が集まる花の園においてそれは、ほのかな恋心に似ていると言えなくもなく。
つまり女学校中の生徒が、彼女に憧憬の眼差しを向けているというわけだ。
そのため登下校の時間ともなると、維紅を一目見て、運がよければ声をかけてもらおうと言う女学生の列ができる。しかも校門から教室まで、入り待ち、出待ちをするのだ。
大勢の女の子がズラリと並んで維紅を待つ風景は、もはや日常の風景と化した。
「それにしてもここ最近、なんだか人数が増えたんじゃなくて?」
「増えもするでしょうよ。だって私たち、もうすぐ卒業だもの。そうなれば滅多に会えなくなるでしょう?」
たしかに毎年、卒業が近付くにつれお気に入りの“お姉さま”と思い出を作りたいと、下級生が集うのは恒例とかしているのだが。
「それにしたってちょっと増えすぎじゃないかしら?」
「維紅さんの場合はそれ以外にも、いろいろ思惑があるようね」
「どういうこと?」
「卒業後の進路が気になって仕方ない子もいるってことよ」
「あぁ……そうね……」
この時代、女学校を卒業したからと言って、職業婦人になる女性はまだ多いとは言えなかった。大抵は見合いをして結婚、そのまま家庭に入るのである。
文武両道、しかも作法や家事、裁縫手芸の腕前もピカイチな、才色兼備の維紅が、卒業後どう言った進路を辿るのか気になって、些細な情報をも得たいと集まる下級生が、日に日に増えている……と言ったところだろう。
「維紅さんが職業婦人になられるのなら、同じところで働きたいと言っている子も多いのだそうよ」
「まさか!」
「本当よ。お嫁入りするまで維紅さんのお側にいたいと熱心に希望している子がいるんですって」
「私が即結婚するとは思わないのかしら」
「思えないんじゃないかしら?」
絹代はコロコロと笑って、維紅の言葉を否定した。
「だって維紅さん、婚約者もいなければ、恋人もいないでしょう? だから女学校を出たら仕事をするのだと、もっぱらの噂よ」
「人を独り者みたいな言い方しないでくれる?」
「あらだって本当のことじゃない。それとも許婚の一人や二人、いらっしゃるって言うの?」
「それは……」
維紅はグッと声を詰まらせて、それ以上は何も答えなかった。
「下級生たちの壁が鬱陶しいのであれば、どこにお勤めになるかさっさと白状することね」
「そんなぁ……絹代さん、ちょっと言い方が冷たくない?」
「冷たくもなるわよ。あなたがはっきり言わないせいで、私にところまで質問に来る子が大勢いるんだもの。正直少しだけ、鬱陶しいのよね」
「それは……ごめん」
「悪いと思ったら“よし乃”でみつ豆でも奢ってちょうだいな」
「わかったわ……。でも今日はごめん。この後少し用事があって」
「あら、そうなの?」
「みつ豆はまた今度。じゃあね!」
「また明日」
維紅は絹代に別れを告げると、早歩きで自宅の方角へ向かった。
本当は駆け出したいくらいなのだが、年ごろの娘が駆け出すなど、子どものようでみっともない。そんな姿をご近所に見られでもしたら、また。
ーーあの方になんて言われることか。
醜態は晒せない。絶対に。
なので維紅は、全力で歩いたのだ。
緩い坂道を上がり一つ目の角を曲がるとすぐ、維紅の自宅が見えてくる。
元士族の家らしい、立派な門構えの日本家屋。大きな母屋のほかに下働きらが暮らす離れと道場があり、現在は父と兄が師範となって門下生たちに剣術の指南を行なっている。
庭には美しく手入れされた松と、錦鯉が優雅に泳ぐ巨大な池まであり、ご維新前の面影を今に残しているのだ。
この界隈では有名な、立派な屋敷。しかし維紅はそこをスルッと通り過ぎ、隣の建物へ入って行った。
そこにあるのは維紅の家とは真逆の、小洒落た洋館。
明るい色のレンガを積んで作られた外壁と、緑色の三角屋根。小さな庭には区画ごとに季節の花々が植えられており、今は寒椿が目を楽しませてくれる。
維紅は玄関を入り、そのまままっすぐ階段を上ると、ある部屋のドアに手をかけた。
「滋ちゃん」
ノックもせずに部屋に入ると、窓辺に置かれた椅子で本を読んでいた人物が、ゆったりと顔を上げた。
一度も日に焼けたことのない、透き通るような白い肌。濡羽色の髪が藤色の友禅の胸元でサラリと揺れる光景に、維紅の胸がドキンと高鳴った。
しかし滋と呼ばれた人物は、長い睫毛の奥にある黒曜石の双眸で、維紅の無作法を咎めるように睨むばかり。けれど日本人形のように美しい顔立ちゆえか、はたまたおっとりとした気質ゆえか、迫力など微塵も感じないのだけれど。
「維紅……部屋のドアはノックするように、何度も言っているでしょう?」
滋が維紅に注意する。
しかしその声は外見とは丸で違い、随分低い。例えるならば、変声期を過ぎた男の声のような……。
「だって、滋ちゃんの体調がよくなったって聞いたら、いても立ってもいられなくて」
だから女学校から急いで帰ってきたのだ。
一刻も早く、滋の無事な姿が見たかったから。
「年ごろの女性なのだから、礼儀作法はきちんとして当たり前。それに部屋に入るときは、節さんと必ず一緒にと言ったはずよ?」
「私と滋ちゃんの仲なんだから、少しくらいいいじゃない」
「いくら幼馴染みと言っても、一つの部屋に年ごとの男女が一緒なんて……人に見咎められて在らぬ噂を立てられたらどうするの?」
そう……この麗しの佳人――西谷滋は、れっきとした男なのだ。
しかし見かけは完全に女性そのもの。
これには大きな理由があった。
仮死状態で生まれた滋は、その後もたびたび病魔に冒される、それはそれは体の弱い子どもだった。
風が吹けば咳をして、雨が降れば熱を出す。
季節の変わり目には必ず体調を崩し、四歳のときには風邪を拗らせて肺炎を起こし、死ぬ寸前まで陥ってしまった。
なんとか回復し容態は安定したものの、依然容態は安定しない。
この子は大人になる前に死ぬのではないか……大人たちがそう覚悟したとき、滋の父があるアイディアを思いついた。
『これからはこの子を、女として育てよう。そうすれば病魔はすぐに飛んでいくはず!』
西洋画家の父はその昔ヨーロッパに留学した経験を持ち、あちらでは魔除けの意味を籠めて男児に女児の服装をさせるということがままあったらしい。
だから滋が元気になるまでは女児の服を与えて育てよう……西谷家の人々は藁をも掴む思いで、その珍案に縋ることにした。
半ズボンや男らしい柄の着物はすぐに捨てられ、代わりにかわいらしいワンピースや女の子用の華やかな着物が用意される。髪も長く伸ばすようになり、見かけは完璧に女の子そのもの。
気付けば口調や仕草も女の子らしくなり、しかもまだ変声期前。
誰もが女児と信じて疑わない、完璧な女装男子ができあがったのである。
維紅が滋と初めて会ったのは七歳のころ。隣に洋館が建ち、引っ越してきた家族の中にいた滋を見て、麗しい日本人形が動いている……と感動したものである。
その日本人形が実は男だとわかったときの、維紅の驚きたるや!
初めは驚きもしたものの、同い年の維紅と滋はすぐに打ち解けて仲良くなった。
父や兄に剣術を習い元気溌剌な維紅と、なよやかで穏やかな性格の滋は妙に馬が合って……維紅はいつしか、滋に恋をするようになっていた。
どうしても滋のお嫁さんになりたい。想いが止められなくなった維紅はある日、ついに滋に告白をしたのだ。
『あのね、大人になったら維紅を滋ちゃんのお嫁さんにしてくれる?』
滋は一瞬目を丸くしたものの、すぐに花が綻ぶような笑みを浮かべて
『私でよければ……』
そう応じた。はにかんで応える滋に感動した維紅。二人はお約束の印に……と、互いの頬にキスをし合ったのだ。
だから維紅は滋の部屋で二人きりになっても、ちっとも構わないのだが。
「維紅ももうすぐ女学校を卒業するんでしょう? そろそろお見合いの話が舞い込んでもおかしくないのだから、きちんと考えて行動なさい」
「またその話? 昔、結婚してくれるって約束したじゃない」
「維紅……」
滋は維紅の言葉に、ソッと目を伏せた。
そんな姿を見て、維紅の胸が怪しくざわめく。
近ごろの滋はいつもこうだ。
結婚の話になると、すぐに憂鬱な顔をする。そして話を逸らす。
その態度はまるで、維紅とは結婚したくないと思っているかのようで、不安で仕方がない。
「滋ちゃん……私たち、結婚するんだよね?」
最近何度も繰り返した言葉を、維紅は再び口にした。
――お願いだから、うんって言って……。
女学校卒業後の進路は、滋の妻になること以外にあり得ない。
そう願う維紅だったが……滋は幾度目ともつかぬ返答を口にした。
「ごめんね……それは、できないの……」