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幸福な猫と祈り

 今日ほど耳が、鼻が良いことに感謝したことはありません。兵舎を飛び出し、たくさんの足音が聞こえる方へ、一か月で嗅ぎなれた匂いのする方へ走っていきます。街はいつも以上に賑わっていて、背の低い私では視界はあてになりません。匂いと音だけを追って伯爵の方へと走ります。

 走っても走ってもまだまだ足りません。一刻も早く、伯爵様のもとへ駆けつけなければなりません。どうかまだ何も起きていないようにと願います。



 そんなとき突如、怒声が響きました。複数人の怒鳴り声、そこから波及していくどよめきと悲鳴。まるで一点から波が広がっていくように、逃げ出す人、見に行こうとする野次馬、党すればいいかわからず立ち止まる人と、道は一気に混乱に陥りました。


 『複数人でかかれば間違いなくあたりの護衛はそれにかかりきりになる』


 恐らく、これがジャンの言っていた尖兵でしょう。あたりは混乱して逃げ惑う人でいっぱいになっています。人が走ってくる方が騒ぎの発生源だとはわかりますが、そのせいで道がすっかりふさがれ、とてもじゃありませんが、近づけません。ただでさえ小さい身体。気を抜けばきっと私は蹴飛ばされ人並みに流され、伯爵様のもとへとたどり着くことはかなわないでしょう。

 けれど尖兵が来たということは、ジャンが伯爵を刺そうとしているということです。



 「早く逃げろっ巻き込まれるぞ!」

 「嘘でしょこんな昼間に……!」

 「嬢ちゃん!そっちは危ねえぞ!?早く逃げな!」

 「私は兵士なので大丈夫です!通してください!」



 どうすれば傍に行けるでしょう。もう時間がありません。一刻も早く、彼らのところへと行かなければ。親切な人が私をかばおうとしますがその脇をするりと抜け怒号のする方へ向かいます。



 ある店の前に、荷車が放り出されていました。持ち主はすでに逃げていて、人の肩あたりまで積まれた麻袋が残されています。

 ハッとしてそれに向かって駆けだします。普通の子供の身体にはできずとも、元猫である私の跳躍力があれば十分でした。麻袋を踏み台に、屋根の上へと駆け上りました。人並みから抜け出すことができ、遮るものなくそのまま屋根を伝って騒ぎの中心へと走ります。騒ぎの中心には剣を振り回す男たちがいました。おそらく、あの夜にジャンと話していた人でしょう。彼らに応戦する兵士たちの中ににアルディーロさんがいました。



 「やっぱり、伯爵の側にいない……!」



 全部全部、ジャンの想像通りに進んでいます。このままでは彼らの思うつぼ。せめて私だけでも伯爵様の傍にいなくてはいけません。騒乱の頭上を駆け抜けようとして、アルディーロさんがこちらを見て目を剥きました。



 「シロ!?なんでお前屋根に……、いやいい!クラウスのとこ行け!早く!ブジャルドがいねえ!」

 「な、なぜジャンのことを、」

 「良いからさっさと行け!走れ!」

 「む、向かいます!ご武運を!」



 アルディーロさんの口からピンポイントでジャンの名前が出て驚きます。彼はいったいジャンが伯爵を狙っていることにいつから気づいていたのでしょうか。しかし考える時間も惜しく思考を放棄します。

 屋根の上を走りながら数十メートル先に目を向ければ、人並みの中あの美しい銀糸が見えました。そしてそのすぐ傍に、ジャンの姿も。



 「おいどうなってるんだあっちは!」

 「賊が出た!あっちで兵団が戦ってるんだ!」


 「伯爵、こちらへ!」



 逃げ惑う人々の中、伯爵を誘導するふりをするジャンの手に刃が見えました。人でごった返す混乱の中なら、手に隠れる武器は至近距離でも気が付きません。ジャンが勝利を確信した顔をしました。ここまですべてジャンの掌の上。そしてその右手が最後の一手。

 その右手が、伯爵に近づきました。



 「間に合って……!」



 ここまで来た、失敗するわけにはいきません。

 この日のために何もかも投げ出す覚悟をしてきました。どんな大切なものを捨ててもいい、この命さえ惜しくないと。

 ディアヴォロさんから人間になる方法を教えてもらいました。魔女さんに人間にしてもらいました。一か月間兵団の方々から訓練を受けました。一か月伯爵に心配をかけてきました。最後この日、アルディーロさんに伯爵様のお傍の護衛を任せてもらいました。

 たくさんの人の協力を得て、厚意を得て、期待を得て、私はここに来たのです。


 決してクラウス様を死なせません。


 歯を食いしばり、屋根を思い切り蹴り飛ばして跳躍しました。逃げ惑う人たちの頭上を飛んでいき、着地点は、伯爵とジャンの間。私ならできる、いえ私にしかできないことでした。



 「ぎ、ぐぅっ……!」



 間一髪身体を滑り込ませることができました。颯爽と助けることなどできず、無様に呻き声を零れました。お腹がひどく熱く、痛みます。脈打つように熱いのに、刺さっている刃はあの日の雪のように冷たいものでした。



 「なん、でお前がここに……!」



 目の前のジャンはひどく傷ついたような顔をしていました。あなたの企みは失敗したんです。いっそのこと邪魔をするなと怒ればいいのに。どうか、そんな顔をするなら、傷つくような優しい人なら、こんな方法を選ばなければよかったのに。

 周囲が異変に気が付いて、ジャンを地面に引き倒します。彼が持ったままの短剣が抜け去り、熱さと痛みだけがお腹に残っていました。ぼたぼたと血が落ちていくのを見ていると地面が急激に近づいてきました。もう身体に力が入りません。

 背後から腕が回されました。

 いつも私を抱えてくれる、力強い腕でした。



 「クラウス、様……、」

 「っ誰か、早くこの子を……!」

 


 今まで見たことがないような、焦った顔をしていました。伯爵様の美しいお顔はいつも落ち着いていて、穏やかなものです。彫刻のような美しさだと思っていましたが、こうしたお顔を見ると、ただほほ笑むだけが美しさや優しさではないなと感じました。


 ああ、魔法は今晩とけてしまいます。


 何とか伯爵様を守ることができました。随分と無様で格好よくお助けすることはできませんでしたが、私は猫のわりに頑張れたのではないかと思うのです。伯爵様の肩越し、通りの屋根の上で黒猫さんが私を見下ろしていました。ディアヴォロさんの言っていた通り、足掻けたと思うのです。

 達成感に溢れている私に未練はもうありません。小さな猫でも、ご主人を救えたのですから。ですが一つ、したいことがあります。

 それはもう時間がありません。人間として、シロとして生きている間に、言葉を持っている間にお伝えしたいことがあるのです。 

 これは我が儘です。彼を守れた時点で私が人間になった意義は終わりました。


 けれどいつか願ったことがありました。



 「私は、貴方に拾われて、幸せでした……、」



 もし人の言葉を話すことができたのなら、お伝えしたいことがありました。



 「シロ……?」



 ああどこで私の名前をお聞きになったのでしょう。

 不安げに私を覗き込む伯爵様。きっとアルディーロさんに聞いたのでしょう。必要以上に誰かと会話なさる方ではないから。いっそしつこいほどにクラウス様に話しかけるのはアルディーロさんくらいだと知っています。



 「少しでも、ご恩をお返ししたかったのです……、」



 寒い雪降る夜に、私を拾っていただきました。

 名前のない私に、ぱいにゃんという名前をくださいました。

 空腹であった私に、食べ物をくださいました。

 何も知らなかった私に、言葉を、文字を、物語を教えてくださいました。

 もっともたくさん、お伝えしたいことがあるのですが、身体が寒くていけません。時間がないのに、とても眠たくなってきたのです。

 だからせめて、これだけはお伝えしたいのです。



 「幸せな猫にしていただき、本当に、ありがとうございました。」



 この方に拾われた私は、きっと世界で一番幸せな猫なのでしょう。

 クラウス様が何か仰いましたが、もう私には聞き取れませんでした。


 喧騒は遠くなり、目の前も暗くなります。

 ああいつかにもこんな風に眠たくなったことがありました。

 けれどあの夜のような寂しさはもう感じていませんでした。

 大切な人の命を救えたのなら、これ以上に光栄なことが、幸せなことがあるでしょうか。






 「見たかいエーヴァ!彼女の勇敢な物語の結末を!愛する者のために、思いのままその身を投げうったその美しい生き様を!ああ、見ていた。見ていただろう?見ていなかったはずがない!この森から一歩も出ずとも、その魔法の水瓶で彼女の様子は見られるのだから!あの男が死ぬだろうと思っていた君が!見ていないはずがない!」



 魔女は水瓶の前にたたずんでいた。すぐ側に駆け寄って水瓶を覗き込むが、もうそこには何も映っていない。

 どうかこの哀れな魔女が、自ら選択し再び時計を動かす覚悟ができるように、まくしたてる。



 「かつて人間に恋をして人間になった人魚がいた!彼女は自害して泡になった!けれどあの愛らしい猫は違う!きっちり恩返しをしていったんた!その命を、身体を引き換えに!ああなんて健気で可哀想な子だろう!」



 いつもならこういう芝居がかった言葉に苛立ち、雷の一つでも落とすのに、今の彼女はうなだれたまま。

 知っていた。彼女がこんな反応をすることくらい。だからこそ一層語り掛ける。



 「……ああなんて可哀想な子だろう、君もそう思うだろうエーヴァ?」

 「……耳障りなことを言わないでくれる?本当に悪趣味ね。」

 「いい趣味してるだろう?……さあエーヴァ、君はどうする?」



 力なくうなだれていた魔女はゆっくりと足を進めた。もう何年も向けていてない、森の入り口の方へ。



 「……ああ美しく可哀想なエーヴァ。呪いの解ける時間だよ。」

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