最後の龍
世界は狭かった。
いつの間にか大きくなった体で、流れていく世界を見る。二足歩行な生き物が生まれ、命を育み増えていく。文化を手に入れ、生活を発展させていく生き物たち。
私は見ていた。ほかの同族とともに。
増え、栄える地上の生き物たちを。
やがて私達とよく似た種族が生まれた。生き物により龍と名付けられた私達と発音が同じな竜という種族だ。私達とは異なり乱暴者で肉を食らう。私達に食事という概念はない、ただ世界に生かされるだけの存在なのだから。
竜は軈て人間の姿をとるようになった。大きく分厚い翼に硬い尻尾をくねらせて、強さを誇るドラゴニュートと名付けられたそれを私は見ていた。
世界はよく回る。
その時の中で最初に生まれた龍が息絶えた。飢えや病ではない。ただ役目が終わっただけなのだ。
地上では戦争が始まっていた。たくさんの生き物が武器を持ち、雄叫びをあげ、縄張り争いを始める。
ドオン…ドオン…と、世界が傷つく音がした。たくさんの血が溢れ、世界を赤で染めていく。
消える。
消える。
命が消えて、声が途切れて、憎しみが増えていく。
軈て二番目に生まれた龍が息絶えた。
世界の汚れを消す為にかの龍は息絶えたのだと、同胞たちはよく知っていた。
狭い世界では涙が絶えなくなった。悲しみが世界を包みこむ。
人という生き物は困った生き方をする存在だ。記憶力がなまじあるせいで、恨みを忘れず、悲しみを忘れず、その思いのままに行動してしまう。
縄張り争いはまだ終わらない。二番目の龍が息絶えても、血がどれだけ世界を染め上げても。憎しみと悲しみが世界に染み込んでも。
不意に魔法というものを使い始めた人がいた。金髪に緑の目に長い耳を持つその人は悲痛に顔を歪ませながらも人を殺していく。
また。争いが悪化する。まだ、争いは終わらない。終わる時が来ない。
三番目に生まれた龍が息絶えているのを見つけた。かの龍が死んだ場所では新しく川が生まれ、そこに生き物たちが群がった。
かの龍が死んだのは水に飢える世界を、癒すためだと知っていた。知っていたがどうすることも出来なかった。しようという考えもなかった。
それからは同じことの繰り返しだった。争いが起き、戦争に発展し、世界が汚れ、龍が死ぬ。
生き物が増え、変化し、発展していくと、食べ物がなくなった。食べ物が無くなるとまた争いが生まれ、龍が死ぬ。
幾度とそれを繰り返し。
気が付けば龍は私だけになっていた。
一匹になってしまった空で一つの疑問が生まれる。
私はなぜ死なぬのだろうか。いや、役目があるとはわかっている。ではその役目とはなんなのだろうか。
私よりもあとに生まれた龍も既に死んでしまい、次代の龍が生まれる気配もない。
ただ、地上で変化していく生き物たちを見下ろすこと以外のことはもう最近はない。
昔はこの空にはたくさんの龍が溢れかえっていた。そしてそれぞれが地上を見つめ、困っているものがいれば気まぐれに助けたものだ。
それももう、行われなくなった。地上では祈るものが増えてきた。
雨が降らぬせいだろう。
最後に死んだ龍の後、雨はよく降った。だがそれもしばらく経てば地上を焼こうとするかのように雨雲が姿を消した。
私はまだ死なぬ。ほかの龍がそうであったというのに、地上がどれだけ傷つき、世界がどれだけ悲しもうとも、死ねはしなかった。
不意に目に付いた少女がいた。
少女は一人であった。飢えに怯え争う者達に虐げられる少女はボロボロの身体で地面に横たわり、その地熱で小さな命を終わらせようとしていた。
私は地上に降りてみる。どうせ私を認識できる者など居らぬのだ。どこに居ようとも変わらぬ。
少女と同じように地面に横たわる。暑さは感じぬ。陽炎がゆらゆらと目前の景色を歪ませているのを見るだけで面白くもなんともない。
「……けて」
不意に声がし、伏せていた頭を擡げる。なんの声だと思い視線を向ければ、死にかけた少女が、私を見ていた。
「たす…けて…へび、さん」
蛇ではない。私は龍である。
はるか昔ならば龍を目視できる者はいた。そういった者が私達に龍と名づけたのだから 。
「おまえ、私が見えるというのか」
淡々と問いかければ少女はかわいた目を見開いて微笑んだ。
「見えない…よ」
なるほど。確かに少女は私の姿は見えていなかった。…いや、何も見えていなかったのだ。
少女は盲目であった。なにもかもを失ってしまっていた少女は何を感じたのか私に声をかけ、私の声を聞くことが出来る。
それこそ奇跡のようなものだった。
助けてと繰り返す少女。
だが、私に助けるすべは何も持ってはいない。いつか終わる、私はその日を待つだけなのだから。
けれど
けれども。本当に私は何も無いのだろうか。なにか出来るのではないだろうか。
かの龍のように土は掘れぬし、水を生み出すことも出来ぬ、食事を与えることも不可能だ。
そこで初めて自分を省みて何も無いのだと気付いた。私は龍である。世界に生かされ、世界のために生きる、ほかの何者ではなく。
他に何も無い。
「…私にお前を救うことは出来ぬ」
「…たすけて、欲しいの」
「そうしてやりたいが、出来ぬの…っ」
再度断りの言葉を口にしようとすると、少女は体を震わせながら起こし、私に向かって地を抱くように頭を下げた。小さな頭が地面に転がる石に傷ついたのか、血の匂いがかすかに香る。
「わた、しじゃない」
「…なにを」
「私じゃなくて…」
「お前はなにを」
どんどんと強くなる香りに頭の中が燃えるように熱い。そして気づいた。頭だけじゃない。少女の腹部は深く傷ついており、無理な体制にボタボタと血が落ちる。
「私の…妹を…たすけて」
私はこの少女がわからなかった。人とはこういうものだっただろうか? 繰り返し争い、何度も何度も無意味な戦いで命を落とす。時にはほかの種族を見下し奴隷のように扱うことさえあった。誰もが自分を優先し、優先するからこそ、この世界はこんなにも傷ついたというのに。
あんなにいた龍も、死んでしまったというのに。
そこで私は自分がずっと死んでしまった同胞たちに抱いていた感情の名前を知った。
そうだ。私は悲しかったのだ。くだらない争いで世界を傷つける生き物たちのために、何故かの龍達は死なねばならなかったのかと、怒りに近い悲しみをひたすら持っていたのだ。
気が付かなかっただけだった。
この少女のように人間の中にも、生き物の中にも、命をとして命を守る者もいたのかもしれない、私が知らぬだけで。
そう考えると、なんと世界は広いのだろうと思うた。たくさんの生き物が、それぞれの感情で生き、それぞれの世界がある。
私が生きていた世界は実に小さく、全てを知ったつもりで、全てに憂いて見せていただけで、結局私も私のことしか考えていなかったのだ。
かの龍とは異なり、生き残ってしまった最後の龍。
それが、この身勝手さが理由ならば。
この身勝手さ故に、役目を下ろされたのならば。
私は初めて自分の中の魔力へと語りかけた。
「ずっと共にあったものよ」
「目を背け、続けたもう一匹の私よ」
「共に世界を見てみよう、共に自分の役目を見つけ与え、目指そう」
呼応するように私の灰色の鱗がキラキラと光を帯びて、尾先から穢れが落ちるように白く染まっていく。
「へび…さん?」
「名も知らぬ少女よ。お前の願いは聞けぬ」
どこまでも安らぐ気持ちだ。ずっと、共にあったのだ。ほかの生き物のように、私にも。
私は龍である。最後の龍。私が死ねばこの世界に龍はいなくなるだろう。
「なんで…たすけてよ…っは…たすけて…っうう」
泣き崩れ痛みに身を震わせる少女に私はどうすればいいのかを知っていた。私の短い前足ではこの少女に触れることは出来ぬ。なれば。
「っえ?」
少女は驚いたように私を見上げる。少女の体に私の尾を宛てたのだ。そこからまた穢れが落ちるかのように白く染まっていく。全ての鱗が白く染まった私と異なるのは髪だけが白くなっているところだろう。
あとは傷が治ったこと。そして。
「ヘビさん…? 私なんで治って…目が見える…っヘビさん! ヘビさんどこ!?」
少女は私を探す。隣にある私に気付かず、光を取り戻したその目で私を探し、求める。
私は龍。ただそこにある、空気のようなもの。本来目に見えぬ存在なのだ。これが当たり前。
悲しさもある、寂しさもある。
けれど、嬉しさもあるのだ。
泣きじゃくりひたすら私を探す少女から離れ少女に聞こえぬだろうが言葉を残す。
「妹を守るのは、お前の役目だろう少女よ」
私は少女の妹とやらは救えぬ。救えぬし、救おうとも思わぬ。それは私の役目ではないのだから。
私の役目はなんであろうか。この身が朽ちる日はいつだろうか。だが、不思議とその日が遠ければいいとも思うた。
それまでは、この世界を見て回ろう。
広大な、傷つき、けれども生きるこの世界を。
ただ、龍の話が書きたかったのです。