本棚に怒鳴る男
「その薄さで900円(税別)は高いんだぞ!自覚があるのかちくま文庫!」
と私は丸善の本棚に向かって怒鳴りつけた。
近くにいる客は何事かとこちらを振り向く者や「うるさいなぁ」と怪訝そうにこちらを伺う者が四、五人程度いた。
恐らく彼らはこのちくま文庫の恐ろしさに気がついていないに違いない。
そう思った私は、なるべく周りの者達に声が届くように意識しながら続きを述べた。
「光文社古典新訳文庫のうちの一つ、ニーチェの『善悪の彼岸』を見てみろ!
この本とのページ数の差は227ページであるにも関わらず、『善悪の彼岸』は1000円(税別)だぞ!
どれだけ光文社が勉強していると思っているのだ!
この本の厚さで900円だというのなら『善悪の彼岸』は約1500円もするのだぞ!
光文社がどれだけ頑張っているかわかっているのか!」
先程まで周りにいた四、五人は遠の昔に面倒事はごめんだと姿を消し、今度は二、三人の店員がこちらの様子を伺っている。
一方私は清々しい気持ちで弁を続ける。舌がよく回り、こころなしか体が軽くなったような気さえする。
そして私は捲し立てるように続けた。
「こっちがオルテガの『大衆の反逆』をどうしても読みたいけど、ほかのレーベルからは出ていないという弱みに漬け込みやがって………………」
私は一度深呼吸をした、勿論この邪智暴虐のちくま文庫の言い値でオルテガを買うのは意に反する、しかし私はどうしてもこの『大衆の反逆』が読みたいのだ。
怒りに任せてマンガコーナーに走り、まんがタイムきららで連載していたマンガの単行本を買うことは容易だ。
しかし私にはこの丸善に来たそれなりの目的があり、その目的こそがこの『大衆の反逆』なのである。
ここは少しの間大人になろう、そう決意して最後にこう締めくくった。
「まぁでも、そっちにもそれなりの事情があるのだろう。
『善悪の彼岸』が発表された年と、『大衆の反逆』が発表された年とでは時代が随分違う、きっと著作権関係でいろいろ大変なのだろう。
私もAmazonやBOOK・OFFでもっと安く買えるものをわざわざ丸善に買いに来ているのだ、私の方の我が儘で値段がどうなるわけでもなし…………仕方ない買うか」
私は疲れきったように肩をだらりと下げながら『オルテガ著 大衆の反逆』を棚から取ると、左に向き直して歩き出した。
左を向いた瞬間店員がビクッとなるのが目に入ったが気にも止めずにマンガコーナーに直行し、『幸腹グラフィティ』の5巻を取って列に並んだ。
以後その丸善及び周辺の本屋において、私は変な行動をとるアンチちくまの演説家として名が通るというのはまた別の話である。
この作品はフィクションであり、実在の人物・団体・作品とは一切関係ありません。ましてや『ちくま文庫』が邪智暴虐であるなどという事実は一切ございません。
唯一正しいのは、私の例の出版社への印象ぐらいです。