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S.I.U.~傭兵特殊部隊~ シーズン1  作者: 穀潰之熊
キリル・ドラゴビッチ・チェルノフ
18/25

幕間

ゴーストリコンやってて遅くなりました

 夜勤の待機状態。その間、SIU隊員は非常に暇だ。

 待機室からの外出も限定され、出動要請を聞き逃さぬように音楽を聴く事さえ許されない。

 そのため、彼らは暇つぶしにメンバーで自身の経験を披露しあうのだ。もちろん、色々と問題にならない範囲で。

おしゃべりな奴がいれば暇つぶしとして大いに役立つ。もっとも、話好きの癖につまらない話をする輩がいれば最悪だ。

「まあ、俺がBOPEに制式入隊するのはまた別の話だ」

 アルトゥールが、自分がなぜBOPEに入隊したのか。そんな昔話を終えた。

「おいおい、ホラ話ならもうちょっとマシな嘘つけよ」

 呆れかえった表情でポーターがぼやく。確かに、彼の話は少々脚色が過ぎるというのが一同の認識だった。

「ひでえこと言いやがって。まあいいさ、好きに判断しろよ。じゃ、次誰だ?」

 ジョンをはじめとする寡黙な面々はそもそも話に興味がなく、聞いてすらいない。おしゃべり勢が一通り話し終えた後なので、誰一人挙手しなかった。

「しょうがねえ、俺がエロい話してやる」

「またソープ体験談か? 勘弁してくれよ」

 ポーターの話はワンパターンだ。どこそこでいい風俗店を見つけた。SNSでいいセフレを見つけた。そんな話ばかり。猥談なぞ月に一回聞けば十分というものだ。

「待てって、今回はソープじゃねえよ。ツリッターで知り合った日本人の超エロ可愛い女の子なんだよ」

「ポーター、犯罪だけはやめろ」

 非常に危険な響きを持つ言葉に、無言だったジョンが睨んだ。

「僕も感心しないな」

 チーム最大の良心長谷川も不満げな声を漏らす。

「待てって、単なるエロい話じゃねえって。その子純粋にエッチが好きらしくて金をとる事もなく……」

「ひっこめ全身下半身!」

 遂にブーイングの嵐が巻き起こると、ふてくされたポーターは黙った。では、代わりに誰が話すか。長谷川が挙手しようとしたが、独身勢が妨害した。

「ノロケ禁止」

 では仕方ないとばかりにため息をつく。

 しばらく耳鳴りが響くような沈黙が待機室に充満した。この静寂が耐えられないアルトゥールは無茶ぶりを敢行することにした。

「おいチェルノフ、お前そういえば昔話したことなかったよな?」

 言われてみればそうだった。ジョン以上に寡黙なチェルノフは誰かからの指摘で存在に気付く事があるほどに存在感が希薄だ。

 ロシア人の癖してミラージュにいる変わり者。隊員たちに好奇心がわいてきた。

「僕も気になるな、チェルノフ」

 詮索はあまりしない長谷川ですらそう言うレベルだ。

 チェルノフは寡黙で、他人との会話が非常に苦手だ。しかし、期待を裏切るのも気が引けた。

「そうだな、じゃあこうしよう。これは嘘だ。真実はないし、しかも面白味もない」

 このように前置きする者は少なくない。とんだホラ話をする者もいれば、真実味のある歴史の裏を語る者も。期待感はさらに高まった。

「一〇年ぐらい前、俺は故郷に戻っていた。色々あってな」


◇ ◇ ◇


二〇〇九年一一月一八日

ロシア ハバロフスク地方


 戦争で用いられる主力武器の中で、最も小さな武器はライフルだ。

 直径七・六二ミリ、僅か十グラム程度の弾頭は音よりも早く飛翔し、肉を切り裂き、骨を砕き、臓器を破壊する。人間が一撃喰らえば、たちまち動けなくなる。

 しかしそんな威力を持つ物体でも、広大な世界からすればシベリアに転がる雪の結晶と変わらない。素人が撃ちまくったところで、当たらない弾はさしたる脅威じゃない。百発ばらまいて、一発か二発当たってくれれば御の字だ。

 だが俺たちのような人種がこれを持つと、弾をばらまく道具は本物の殺人道具に変貌する。

 スコープに浮かぶ十字の中心を的に合わせ、距離・風速・湿度を考慮して調整する。

 今回の的は距離七百メートル、方角は東。コリオリ力を考慮する必要なし。

 奴は賢く、銃の本質を理解しているという話だった。銃を持っていると確信すれば、一目散に逃げ出していたそうだ。

 だが、奴は銃の射程を知らない。肉眼で直接目視出来る距離でなければ当たらないと思っている。その思い込みを正してやろう。

 あとは、引き金を引くだけ。

 引き金を引き絞ると、奴は頭を上げた。関係ない、貫くのは背骨だ。

 ギュッと指に力を込める。

 その時、横からの圧力によって照準がズレた。弾は奴の右側を掠め、地面に小さな穴を穿つ。

 気付かないほど愚かではない。銃撃に気付くと、奴は一目散に駆け出した。

 俺は左隣で伏せる人物を睨む。

「どういうつもりだ?」

「ヒグマは希少生物よ。汚らわしい趣味や金儲けの為に殺させたりはしない」

 なるほど、人間以外の生き物大好き同盟の方だったか。歴史あるヒグマ狩りの取材をしたいと言って聞かないから連れてやったら、このザマか。

 別に彼らの活動を軽蔑するわけではない。

 森の自然と生き物を守る。実に正当だ。支援してやりたいほどだ。

 だが、少なくとも今回ばかりは譲れない。譲ってはいけない。

「あー、あー、チェルノフ? そっちから銃声が聞こえた。仕留めたのか? 送れ」

 猟師の友人が無線機越しに語り掛けてくる。彼の隣にはこの女と同じく、取材と抜かしてついて来た男がいる。

「すまん、そっちに逃げた。見たところ気が立ってる、気を付けろ。送れ」

「了解。送れ」

「隣の奴に気を付けろ。保護団体のメンバーだ。おわり」

「それマジか? ……あー、わかった。気をつける。おわり」

 さて、この気に食わない女を帰さなければならないが、あの熊も放置するわけにもいかない。

「で、邪魔をするなら帰ってくれないか?」

「嫌よ。こんな残虐な行為を見過ごせません」

「事情も知らずに聖人を気取っても、マヌケなだけだぞ」

「確かに、貧困は悲しい事です。でも、森で生きている罪のない命を奪っていい理由にはなりません」

 なるほど。俺たちは貧しいから仕方なく熊を虐殺し、熊はただ生きているだけと来たか。

 実に面白い。きっと、彼女は道化の化身として生まれたに違いない。

「確かに罪のない命かもしれない。だが、奴は既に人を喰っている」

「ですが、それでも……」

「まさか、テリトリーに入った奴が悪いと言うつもりか?」

「そうじゃありません。確かに人が襲われるのは悲しい事ですが、自然の摂理です」

「ようするに、そういう事だろう? だが、一人二人なら悲しい事件で処理する。おたくらが来たら、やめることも考えるだろう。だが今回だけは例外だ」

「どうして?」

 苛立った様子で彼女は尋ねる。

「奴が人の味を覚えたからだ。……正確には、人間の手軽さに気付いた」

「手軽さ?」

「奴は既に九人食い殺している。最初はハイキングで迷い込んだ少女、最近は村に現れ、堂々と民家に乗り込んで一家全員を食った」

「人間の方に非があるとは考えないのですか?」

「だとしても、進んで人間を襲うような奴は見逃せない。絶対に殺す」

 俺の顔馴染みのうち二人が奴の胃に収まり、五人が家族を失って辛い思いをしている。

 どんな妨害があろうと、あの動物を殺さずにはいられなかった。


 さてこの偽善者、これ以上邪魔する気ならどうしてくれよう。

 まあ、どうせこんなひと気のない森の中だ。くたばっていたところで、誰も驚きはしまい。

 そんな事を考えていると、爆音が森に響き渡った。

 続いて二発、三発。この銃声は、友人が持っていたライフルのものだった。

「セルゲイ、見つけたのか? 答えろ! 送れ」

 無線機に呼びかけても応答はない。

 あの熊は友人の方に向かって行ったのだから、何か良くないことが起きたとしか思えない。

 この女に関わっている暇はない。

 脇を抜けようと歩みを進めると、女は俺の行く先に立ち塞がった。

「どこへ行くの?」

「……お前は何がしたいんだ?」

「成すべき事です」

「人が死んでるかもしれないんだぞ」

 馬鹿が。

 凄んでみせると女は少し怯んだが、それがかえってプライドを刺激してよくなかったのかもしれない。俺の凄みに対抗するかのように声を張り上げた。

「熊はね、賢くて臆病な生き物なんです。一度銃声なんて聞いたら逃げ出します」

「お前が熊好きなのはわかった。だが自分が銃弾を喰らうのはそうでもないだろう。そこをどけ」

 馬鹿につけられる薬は青酸カリぐらいなものだ。次ふざけた事を抜かしたら引き金を引くつもりで言い放つと、ようやく道を譲った。

 しかし、帰るという選択肢が奴の脳内には存在しないらしい。体力をキープして走る俺の後を、女は都会っ子らしく息を切らして続いていた。

 友人がいた正確な位置はわからない。だが、何かがあったのは確かだ。

 さっきまで熊がいたところに着くと、現場に残された僅かな足跡を見つけた。

 特徴的で大きく、深い足跡。辿るのは難しくない。姿勢を低く、殺気を殺しつつ深い森を歩く。

 この先に、俺の知る顔が転がっていない事を祈りながら。


 森を歩いて一五分ほど、俺の願いは早々に裏切られた。

 血と硝煙の匂い。チェチェンで嫌という程嗅いだ臭いだが、今回はそこに獣のものが混じっていた。

 倒木の幹からそっと顔を出すと、オレンジのジャケットを着た人間が仰向けに倒れていた。その上に覆い被さる体毛の塊。

 風下だったのは本当に幸運だった。俺は隣には現れた気配の口を覆い、響かないように細心の注意を払いながら囁いた。

「手は離すが、絶対に声を出すなよ」

 女が頷くのがわかる。

 手を放すとスコープを覗いて照準を調整。今度は邪魔させない。

 丸まった背に一発、跳ね上がりついでに後頭部に一発。血しぶきがあがり、熊は脱力して仰向けに倒れた。

「……殺したの?」

 呟く女は無視し、倒れた熊のもとへ。銃口で顎を突いてみても反応はない。

 脇を持ち上げ、仰向けに。五〇キロ近い巨体が森に横たわった。同時に、こいつの下敷きとなっていた友人の姿も現れた。

「そっちは……」

 女は俺の肩越しに友人の姿を見たらしく、背後で液体が滴る気配がした。

 彼の首は半分千切れた状態にあり、腹部は食い荒らされていた。恐らく頭部に強烈な一撃を喰らって即死し、その後柔らかい腹部に牙を突きたてられたのだろう。

 畜生どもめ。

「うぇっ、えっ、えっ……」

 これに関して、俺は特にコメントする気はない。凄惨な現場を見て気分を悪くするのは人間として当然だ。むしろ、冷静に思考を巡らせる俺の方が本来は異常だ。

「……ねえ、アレクセイはどこ?」

「知るか。逃げ出したんだろう」

 アレクセイとは多分この女の相方の事だろう。

 すぐそこに人が寝転がっていたような跡と僅かに暴れたような痕跡がある。間抜けめ、熊の前で死んだふりをしたな。よほど運が良くなけば、巣でゆっくりと貪られるというのに。

「助けを呼びましょう。警察を呼びましょう」

「警察は森歩きの専門家じゃないぞ。対応も遅くなるだろう」

「でも、行かないよりましだわ」

 そう言い放つと、女はずんずんと森を進んでいく。まあ、いいだろう。

 こんな辺鄙な場所で放置されるのは忍びない。亡骸を村に持ち帰ってやりたかったが、現状一人では困難だ。ならせめて、この場で弔ってやるために瞼を閉ざしておこうと思いもしたが、残念ながら損壊の酷い彼の顔面から瞼は失われていた。死後の瞑目すら許されないというのか。

 なら、愛銃だけでも回収していこうと考えて、傍らに転がっていたサイガ散弾銃を拾い上げた。幸いにも、弾倉は空でも本体に損傷はない。ジャケットのポケットに押し込まれた予備の弾倉二つを引き抜くと、あの女が向かって行った方向へ歩く。


 いた。さほど遠くない場所に無防備な背中を発見した。森歩きには向いていない様子だったから当然だろう。

 周囲を確認すると、サイガを地面に置いて木の陰に腰掛け、ライフルを構える。

 そこからは、よいしょよいしょと斜面を登る姿がはっきり捉えられた。

 もし俺が捕食者なら、この絶好のタイミングを逃しはしない。

 呼吸を整え、世界と同化する。

 俺はここにはいない。俺は森の一部。俺が俺となるのは、引き金を引くその瞬間だけ。

 間もなく斜面を登り終わり、稜線に消える。狙い目はこの瞬間。

 そう思った直後、殺気を感じた。稜線の向こうを見ればドタドタと走る熊の姿、距離は五メートル以内。

 迷う時間はない。狙いをつけ、頭部に向けて引き金を引いた。

 独特な金属音を含む銃声。熊は崩れるように倒れたが、念のためもう一発撃ち込む。

 今度は反応がなかった。

 女の方を見たら、銃声に驚いたのか、腰を抜かしていた。

 あの距離で突進を始めるのが威嚇突進とは考え難い。まさか、威嚇もなしに襲い掛かるとは。

 ここの熊は、よほど人間を殺すなり食うなりしたいらしい。

 不意の奇襲に警戒しつつ熊の死を改めて確認すると、

「さっき、殺したはずじゃない」

 と女は言う。

「いや。さっきのは奴に比べて明らかに小さかった。こいつも違うな」

「じゃあこいつらは……子供って事?」

「確証はないが、そう見るべきだな」

 あの現場には友人以外の血痕と複数の足跡が残されていた。もちろん、人ではなく熊のものだ。

 恐らく、友人を殺したのはあの大熊だ。弾を当てはしたが、戦闘能力を奪うまでには至らなかったのだろう。

「現場には最低四匹分の足跡があった」

「と言うことは……まさかあなた、まだ熊がうろついていると知ってたのね!」

「そうだ、お陰で一匹仕留められた」

 手短に言うと、女は絶句した。

 さて、残るは二匹。うち一匹はあの大熊だ。この様子だと、連中は完全に人間を獲物と捉えている。全力で狩りに来るだろう。

「お前は狩りやすい獲物と見られているみたいだな」

 不意打ちとはいえ、あれでは獲物を甘く見ているようにしか見えなかった。

 熊が本気の不意打ちを仕掛けていたら、助けられない。女は間違いなく死んでいた。

「ど、どうしよう」

 別に死んでくれて構わないが、後の面倒を避けるためにも証人が必要だ。

「持て。使い方はわかるな」

 友人の愛銃を名も知らない他人に渡すのは気が引けたが、銃口は一つより二つの方がいい。

「私に銃を握れというの」

「いやならいい」

 スリングで肩に掛けようとすると、女の手がそれを拒んだ。態度は気に食わないがよかろう。

「いいか、何があっても銃口を俺に向けるな。安全装置を解除するなとは言わないが、もし向けたら俺が殺して撒餌にしてやる」

 女は無言で頷く。

 素人が不用意に人へ銃口を向け、ふとした拍子に暴発する。暴発事故の典型的事例だ。俺はその不幸な犠牲者になりたくはない。こいつがそこまで信用できるかはさておいて。

 森を出て人里に向かうのが現状、最大の目標だ。

 そこで肝心となるのは、あの熊が子殺しの犯人、あるいは目前の獲物を逃がすかどうかだ。今までの事態を鑑みれば、希望的推測には無理があるというものだ。

「ねぇ、野生動物は火を恐れるわ。松明を使ってみたらどうかしら」

 ふと、女が言う。確かに動物は火を恐れる。触れれば熱いことしかわからない、未知であり制御不能の存在であるが故だ。

 だが、動物は本能だけで動いているわけじゃない。人間よりも本能を制御出来ないだけで、思考する能力は確実に有している。

「熱くない程度であれば、灯りはかえって好奇心を煽る。なにより、今の時間帯を考えろ」

 現在時刻は昼過ぎ。早朝から始めた狩りだが予定以上に時間が過ぎ、もう森はすっかり明るくなっていた。

 どこかの誰かさんが邪魔をしなければ、今頃はカーシャとビールで軽い朝食を摂っていただろう。

 ともかく、この明るさでは火は警戒させるに足る要素になるかは怪しい。

 それにあの熊が放っていた憎悪と殺気は、松明の小さな火でかき消せるものではないように思えた。

 背後から気配を感じた。あの女のものではなく、殺された気配だった。考えるまでもなく、向こうは奇襲を企んでいる。

 しかし、奇襲というものは諸刃の剣だ。ギリギリまで敵に察知されてはいけない作戦の性質上、戦力は最小限でなくてはならない。

 それが攻撃開始前、あるいは事前に察知されていれば最悪だ。最低限の戦力で勝つ作戦は、ただ犠牲を増やすだけの無謀と化す。

 奴の性質上、振り返って威嚇しても恐らく効果は薄い。逃げられて次の機会をうかがうか、さらに別の罠を仕掛けているのだろう。

 なら、返り討ちにするしかない。

「黙って聞け」少しだけ歩くペースを落とし、女と並んで歩く。「多分後ろを尾けられてる。合図で振り向いて、熊に向けて撃て。わかったら軽く頷け」

 首を振る気配。縦だろうが横だろうが、関係ない。

「撃て!」

 振り向きざまに一発。隣では悲鳴と爆音が連続して響いた。とはいえ、サイガの弾倉には五発しか入らない。沈黙はすぐに帰ってきた。

 女の吐息、弾切れでも引かれ続ける引き金。合図を聞いて何も見ずに撃ったに違いない。そこには何もいなかった。

 人じゃなくて安心したと言うべきか、弾を無駄にしたと落ち込むべきか。

「やったの? ねえやったの?」

「いや。逃げられた」

 俺の気のせい? そんなことはない。あの気配は確かにあそこにいた。なら、向こうが早々に逃げ出したと考えるべきだ。

 弾を浪費させるため? 動物がそこまで銃についての見識があるとは思えない。

 なら……

「装填しろ!」

 女に向けて叫ぶのと、背後から熊が飛び掛かるのはほぼ同時だった。

 あの巨体に組み付かれたら人間の力でどうにかするのは不可能だ。とにかく、間合いに入られる前に仕留めるしかない。

 スコープも覗かず、腰だめで熊のシルエット向けて引き金を引く。

 五発のライフル弾のうち、何発が当たったのかはわからないが、熊の眉間は割れた。だが頭蓋骨によって弾かれ、殺害するまでには至らなかった。

 ライフルは弾切れ。SVDを投げ捨て、懐のRSH-12リボルバーを抜いた。ボディアーマーをぶち抜くために作られた弾と拳銃。急所に当てれば一撃だ。

 とにかく頭部に向けて発砲。分厚い毛皮が弾け飛び、血潮が迸る。

 熊が立ち上がり、右手を振りかぶった。

 人間が一撃を喰らうだけでもやばい。咄嗟に後ろに倒れて凶悪なパンチを躱すと、追い打ちを掛けるように覆いかぶさった。

 パンチは当然、噛まれるのも致命傷になりえるが、撃退するうえで最後かつ最大のチャンスが来る。俺は大きく開かれた口に拳を突っ込み、喉仏を握り締め、強く引いた。

 どんな生物でも当然の話ではあるが、熊はこうされるのを嫌って、逃げていく可能性が高い。

 そのはずなのに、奴は全く怯まない。怯むどころか、口を閉ざして俺の腕に食らいつき、頭を振り回そうとした。

 鈍い痛みが腕に広がる。だが、放せばもっと痛い。奴の抵抗に屈したらもっと酷い。

 こうなったら引きちぎってやる。そんな勢いでさらに強く握り、踏ん張り、引っ張る。

 そんなに歯を食いこませても、絶対に放さない。俺の腕を食いちぎるか、それともお前の喉仏を引きちぎるか。勝負だ。

 目で怒鳴り散らしてやると、怯んだのか僅かに噛む力が弱まった気がした。その頭に、銃口が押し当てられた。

 ライフル弾によって亀裂の入った頭蓋骨が、この至近距離で放たれたスラグ弾によって砕け散ったに違いない。俺の顔面には血と脳漿、そして脳そのものがへばりついた。

 頭部を三分の一ほど失った熊は崩れ落ちる。百キロの体重が圧し掛かってくるが、殴られたり噛まれたりするよりはマシだった。

 喉から腕を引き抜いてから、痺れるような痛みで気付いた。砕け散った頭蓋骨が手の甲に食い込んでいる。

「やだ大変」

そっと引き抜くと、女が喚いた。

「気にするな。爪や牙でどうこうされるより遥かにマシだ。助かった」

 まだ生きているのはもちろん、五体満足だ。破片を喰らった手も痛むだけで問題なく動く。それが一番大事な事だ。

 感謝を述べても、女の表情は晴れない。当然だ、自分が守る守るとほざいていた熊を、よりにもよって自分の手で殺したのだから。

 多分、俺が拳銃を携行していることに気付けないほど取り乱しているんだろう。

「それに、まだ終わってない」

 この大きさからして、今さっき始末したのはまだ子熊だ。親はまだ生きている。

「早くいきましょう」

 女はさらに顔を青くして言った。一番遅いのはこの女なのだが、意見そのものに異論はない。

 ハンカチを使って腕の止血をすると、足早に森を歩き始めた。


 不思議な事に、もう森から殺気を感じなかった。


「あんたは頑丈以前に幸運だ」俺の傷を診た医者は言う。「普通の人間なら腕を食いちぎられていただろうよ」

 いくら喉仏を掴まれて閉じにくかったとはいえ、熊の顎は強力だ。頭を振り回していれば人間の腕ぐらい食いちぎれたはずだ。


 さて、あの女と共にやって来たアレクセイ……だったか。

 あの男の遺体は森を捜索していた警察によって発見されていた。

 俺の推測通り死んだふりをしていたらしく、ところどころを食われた上で、その辺の地面に転がされていたらしい。


 友人の遺体は無事回収され、家族のもとに送り返された。

 結局、人を積極的かつ効率的に襲う熊は一匹ではなかった。

 だから俺があの時大熊を仕留めていても、彼は死んでいたかもしれない。

 あまりにも気に病んでいた様子の女にそう告げても、表情が晴れることはなかった。

 あの女の話をしよう。名前も知らない女だが、一度だけテレビの画面にあの女の顔が映ったのを覚えている。

 別に動物愛護の精神が悪いものではないはずだが懲りたらしく、アフリカにいた。奴隷同然の扱いを受けている難民キャンプ関係のNGOに所属しているらしい。

 動物愛護の次は、貧しい人間たちの救済。よほど物事を知らないか、知ろうとしないのか。

 彼女は動物以上に虐げられている哀れなモノを救済しようとしていた。

 どうあがこうが、今の世界が存在する限り、報われない活動だ。

 これほどのビョーキ持ちだ、一生こうしているつもりなんだろう。


 最後に。一番肝心な、俺が仕留められなかった大熊についてだ。

 あの後、俺が仕留めていない大きな熊の死体が倒木の傍らで発見された。

 胸部には無数の弾が食い込み、動脈が傷ついていた。死因は失血死と判断された。

 胃からは人間の臓器や衣服、体毛が見つかった。ならこいつが一連の人食い熊の犯熊なんだろう。そう判断されて、事件は解決と相成った。


 奴……あの熊とその子供たちが人を殺して回った理由については、真相は闇のままだ。死んでいるし、そもそも人の言葉を話せないからな。

 しかし、推測は出来る。

 大熊の体には友人の銃撃によって生じた傷以外にも、無数の古傷が確認できたらしい。主に、銃創や刺創だ。


 少し話を変えるが、地元の猟師達には熊を利用した大きな収入源がある。

 世界にはとにかく熊を撃ち殺してみたいという変わり者の金持ちが少なからずいる。他の国の法律には詳しくないが、少なくともロシアで熊殺しは合法だ。

 近くの村では、四日間の熊狩りツアーが行われている。変わり者の金持ち共はこれに参加して、一度に五頭ぐらいの熊を狩る。オプションとして、狩った熊の剥製や絨毯を作り、家まで配達する数万ルーブルのサービスもある。ツアーは一回につき一五〇万ルーブル、結構な額だ。

 俺には熊狩りにそこまで金を出す価値を見出せないが、少なくとも彼らにとってはその価値があるらしい。

 猟師達も同意見らしいが、これが村の大きな収入になっているから、止める理由はない。ガンガン呼んでガンガン狩っている。

 手段は少し特殊で、巣穴を槍で突いたり、発煙筒を放り込んだり、とにかく慌てて出てきたところを仕留めるというものだ。

 果たして、安全圏からリンチするかのようなつまらん手段で楽しいのかどうか知らんが、少なくない利用者がその答えを示しているように思える。


 じゃあ、あの大熊の話に戻ろう。

 少し前の話になるが、件のツアー参加者が一人残らず失踪したという話がある。遭難したとも、熊に襲われて返り討ちにあったとも囁かれていたが、俺は後者と考えている。

 証拠としては弱いかもしれないが、熊の刺創は主に背中だった。自然界で熊の体に刺創を与える存在はかなり限られるから、猟師達が槍で刺した傷である可能性は高い。

 つまり、あの熊はツアー参加者を皆殺しにして生き延びた熊だ。

 自分で考えておいて実にバカバカしい話に思えるが、人間たちから受けた仕打ちを忘れず、子供たちに人間への恨みを伝え、殺し続けた。という結論だ。

 科学的根拠はまったくない。愛護団体から金をもらった三流脚本家の書くストーリーみたいなもの。恐らく、ただの妄想だ。

 現実にドラマティックな事実はない。

 きっと、本当の真相は単なる縄張り意識、ただ気が立っていただけ、偶然腹が減っていただけ。

 そんなところだろう。


 俺の経験上、現実は不条理でつまらないことだらけだ。


「言ったよな、面白くないと」

「そういうわけじゃないんだけどよ、ちょっと違ったな」

 ロシア人の言う嘘なのだから、チェチェン共和国での越境秘密作戦や、クリミア周辺での黒い仕事。その他国内での非正規戦などを期待していたところ、熊の家族との激戦を語られるとは、様々な意味で期待を裏切られた。

「マジな話、どこまでマジなんだ? 別に国の秘密とかじゃねえだろ?」

 ポーターが顔を寄せて尋ねる。祖国の秘密でなければなんでも話していいものではないだろうに、空気を読まない彼は平然と気にしてしまったのだ。

「だから言ったろ、真実はない。全部ウソだ」

「マジで? マジでホラ話? マジかよ」

「ああ、マジだ」

 そういうチェルノフの視線はスマートフォンに釘づけだった。隣に腰掛けていた長谷川は偶然彼の見ている画面を見てしまった。

 液晶に映し出されていたのはニュースサイトで、内容を伺う前に視線を逸らしたが、画像ではスラブ系の女性が黒人の少年少女たちと触れ合っていた。

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