しおうすめと新たな変態
「えっ、これを僕に?」
フィリップ先輩が、緑色の包みを掲げる。そう、私が用意したプレゼントだ。
ふわりと流れた金髪の下には形の良い眉が並んでいる。そのさらに下には透き通った青い瞳が、その白い肌と同様人形めいた雰囲気の宝石が、私をとらえている。先輩はいつもと変わらない態度で、プレゼントを嫌がる素振りなんて、欠片もない。にっこりと微笑んで、むしろ喜んでくれているようだ。
私は恥ずかしくて、正面からまっすぐにその顔を見つめることができなくて、うつむいてしまう。
「あの……はい。迷惑でなければ……」
「迷惑だなんて、そんなことはないさ。なんと言っても君からのプレゼントなんだからね。さあ、中身はなんだろう?」
そう言って、フィリップ先輩が包みの中をのぞく。袋は口の部分だけが開けられ、周囲からは何を渡されたのかわからない状態だ。中身を取り出すことはない。これはフィリップ先輩の気づかいだろう。
プレゼントを渡すまでに、私はさんざん躊躇して、時間をかけて、ようやく渡すことができた。先輩はそんな私の様子に配慮して、私がこれ以上動揺しないように、そっと中身を確認してくれているのだ。先輩はそういうひとだ。
もちろん、たとえ中のクッキーを取り出したとしても、周りには誰もいない。ここはいつもの人気のない図書室だ。誰もいないことをしっかりと確認して、私はプレゼントを渡した。渡してしまった。
「えっ、これは……?」
フィリップ先輩の目が見開かれ、私とプレゼントのあいだを行き来する。驚いているようだ。ちゃんと説明をしなければという思いが、私を焦らせる。
「これは……パン……」
「あ、はい、パンダです! パンダの形にしたつもりなんです」
「手作りのクッキーなんです」と言おうとしていたところに、先輩がいきなりパンダに注目した様子なので、さらに焦ってしまう。
だが、よく考えてみるとそうだ。クッキーは特別珍しいものではないが、パンダはこの国では珍しい。書物や絵画の中にしか見つけることができないし、存在を知らないひとも多い。パンダの形のクッキーがあれば、真っ先に目に入ってくるだろう。
――でも、先輩もパンダを知っているんだ。
さすが先輩だと思った。誰でも知っている動物ではない。そして、自分と先輩との間に共通した知識を見つけ、ただそれだけで嬉しくなってしまう。にやけてしまう。
「え……? パンダの形なんてことが……あるんだ……?」
「はい、そうなんです。それにこれ、私の手作りなんですよ」
「えっ!?」
フィリップ先輩は私の顔を見つめ、「唖然」と表現したくなるほどの驚きを浮かべる。そして、
「手作りなんてことが……あるんだ……?」
と袋の中を見つめる。
先輩の驚きぶりに、頭の中がふわふわして熱くなっているような、浮かれた気分になってしまう。この様子なら、プレゼントは成功だ。いや、大成功だと言っていいだろう。
「本当は私のおばから作り方を教えて貰ったんですけどね」
「おばさん……器用なんだね……」
心から驚いているらしく、先輩の口から「器用」という、お菓子作りにはちょっとピントのズレた単語が出てきて、思わず「うふふ」と笑い声をあげてしまう。先輩は貴族だから、自分たちでお菓子を作るなどということは、思いもよらないことだったのかもしれない。
「でもどうしてこれを僕に?」
「風習なんです」
「風習?」
「はい、風習です」
「そうか……。そんな風習もあるのか……世界は広いな……」
「はい。あっ、そうだ!」
思わず声が弾んでしまう。先程までは緊張で震えていたのに、私はなんて単純なんだろう。それが自分でわかっても、抑えられない。今度は浮かれた気分で、うまく口が回っていない。
「先輩って甘いものは好きですか?」
「うん? 甘いものか……あんまり甘すぎるのは苦手かなあ……」
「あっ、そうなんですね」
だがここで不安になる必要はない。
おばも大丈夫だと言ってくれた。
――いろんな味を用意して良かった。
胸を撫でおろして、怪訝な顔の先輩に、慌てて説明をする。
「見た目は甘そうですけど、ちゃんと甘さは控えていますからね」
「見た目が甘そう……? いや、甘そうといえば……そうなるのか」
「はい。だから味は、パンダとアーモンド入りと――」
あとはなんだっただろうと記憶を探る。おばが「これをちょっとだけかけるといいよ」とツボを取り出して――。
「しおうすめです!」
慌てていたのでうまく口が回らない。料理をほとんどしたことがない私には、「塩薄め」というのは馴染みのない単語だ。そもそも薄めという言い方で合っているのだろうか。塩少々だろうか、と余計なことが頭の中を駆け巡る。
「パンダでアーモンド入りの使用済みなんだ……。そうなんだ……」
先輩は袋の中を見つめたまま、立ち尽くした。
――おかしなことは言ってないよね……。
不意に訪れた無言の時間に、ちゃんと説明できていなかったのだろうか、と不安になる。自分の言ったことを思い返してみる。変なことは言っていないはずだ。だが、浮かれてまともに判断ができなくなっているのかもしれない。
「あの……」
「いや、ちょっと待って。これってもしかして僕が食べるってことかな……?」
「当たり前ですよ。そのためにプレゼントしたんですから。あはは」
そうか、食べて欲しいということを言っていなかったんだと納得する。同時に、一番考えたくなかった不安が、胸の奥から膨れあがってくる。ごまかすように、わざとらしく、大きな声で笑ってしまった。
先輩は「そういう風習なのか……」と、まだ袋を見つめている。
「えっと、これって、使用済みだったよね……?」
「はい、しおうすめです!」
元気よく答えて、しかしこれ以上会話を続けたくないという気持ちが、私の心の中に芽生えている。先輩に喜んでもらえたから、もうこれでいいんだ。十分だ。このまま会話を続けたら、聞きたくない言葉を聞いてしまう。そんな予感がしていた。
「えっと、でも……使用済みってことは、洗濯、してないんだよね……」
「洗濯」という言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。声が出なかった。それは私が予想した、聞きたくないと思ったどんな言葉よりも残酷なものだった。
先輩はお菓子作りについての知識がまったくないのだろう。だからおばのことを「器用だ」と言った。「洗濯」と言ったのもそれと同じで、本当は「綺麗に洗った手で作ったの?」とか「清潔な環境で作ったものなの?」とか、そういうことを聞きたかったのだろうと思う。
でも、食べ物に「洗濯」という言葉はあんまりだ。
それほどに私の手は不潔なのだろうか。洗濯をしなければ食べられないほどのものなのだろうか。
私はうつむいて、震えて、ほんのちょっとしたきっかけで大声を出して泣きだしてしまいそうで、ただじっとしていた。ゆっくりと呼吸をして、なんとか喋ることが出来そうになり、ようやく顔を上げた。
「ごめんなさい……」
必死に堪えていたはずなのに、口を開いた瞬間、ボロボロと、涙がこぼれ落ちてきた。
「ごめんなさい……。汚いですよね……迷惑ですよね……」
涙は止められない。みっともない顔をして、「ごめんなさい」と繰り返しながら、先輩から緑色の袋を受け取ろうとする。だが袋を受け取ることができない。先輩が、手を離そうとしない。
「違うんだ! 僕の方こそごめん!」
先輩が屈んで、私と視線の高さを合わせようとする。みっともない顔を見せたくなくて、顔を背けると、ハンカチを渡された。
「そうだよね。君の気持ちを考えていなかった。簡単な気持ちで、こんなプレゼントを渡すわけがないよね」
ハンカチで涙を拭う。先輩は何かを思い詰めたような、真剣な表情をしていた。
「正直に言うよ。僕は、これを食べたいと思った。でもそれを言うのが恥ずかしくて、そんなことは言えないと思って、ごまかそうとした。君を傷つけてしまったね。本当にすまない」
そして、しっかりと私を見つめてこう言った。
「僕は、これを食べるよ」
――そうなんだ。恥ずかしかったんだ。
たしかに、男のひとがクッキーを貰っても、恥ずかしくて大喜びで食べるとは言えないかもしれない。相手のことを考えていなかったのは、私の方だ。
そして私の不安は、いつものように、あとから考えてみればそんなに大げさに落ち込むことのない、なんてことのない勘違いだったのだ。
手作りのチョコレートクッキーを食べるだけにしてはあまりにも大げさなフィリップ先輩の真剣な表情に、
「はい、召し上がれ」
と答えて、なんだかちょっとピントのズレた返事をしてしまった自分に笑ってしまった。
***
フィリップは自分の部屋のベッドに腰掛け、緑色の袋を抱えていた。アリス・ルーベンスから貰った、思いもよらないプレゼントだ。
自分が将来マグリット家の当主になるのだということは、幼い頃からわかっていた。そのために厳しく教育されたし、自分もそれに応えようとした。
学業においても、日頃の行いにおいても、何ひとつ恥じることのない、立派な人間になろうと努力をした。当主になるということは、マグリット家の領地の人間の命を預かるということだ。領民に信頼され、認められなければならない。ならば努力をするのは当然だ。常に道を外れないように、努力し続けなければならない。
マ王学院に入学しても、父親が自分を認める様子はなかった。これでもまだ足りないということだろう。
当主になるのだから、当たり前だ。期待に応えて、そしてそれを越えていかなければならない。
だが、そのことに息苦しさを覚えるようになったのはいつからだろうか。
本当の自分を押し殺して、見た目だけを取り繕って、そんなふうに生きるのには疲れてしまった。
フィリップは緑色の袋からそれを――しましまおパンティーちゃんを取り出した。
女性がこんなものをプレゼントするなんて、生半可な覚悟ではできないだろう。それも使用済みだ。アリスは必死の想いで、これをプレゼントしてくれた。ならばそれに応えなければならない。
これを食べるのは、次期当主としてどうなのか、というか、ひととしてどうなのか。頭ではそう考えても、心の中は違う。
――しましまおパンティーちゃんを食べたい。
それが本当の気持ちだ。アリスの涙を見て、もう自分の気持ちに嘘をつくのは嫌になってしまった。だから――
――僕は道を踏み外そう。
しましまおパンティーちゃんを握りしめ、フィリップ・マグリットはそう決意した。