緑色の袋とお兄ちゃん部屋
――よし、今日こそは渡そう。一歩踏み出そう。
私は机の上の緑色の袋を見つめて、大きく深呼吸をした。
学院へ登校する準備はすでに整っていた。
制服も着た。一種のブランドのようなものとして、道を歩けば通りすがりの人々に憧れの視線を投げかけられるマ王学院の制服は、学院へ通ううちにすっかり私の身体に馴染んでいた。
胸に手を当てればツルリとしたブラウスの手触り。自分の体温と心臓の鼓動を、生地ごしに確認することができる。鼓動はいつもよりも速い。これは仕方がないだろう。手を当てたまま、落ち着くようにと自分に言い聞かせる。
短すぎて恥ずかしいと悩みの種になっていたチェックのスカートも、いまでは気になることはない。可愛い制服を着ることができると、ちょっと誇らしくなるほどだ。短いスカートを履いたときの注意すべき身のこなしは、何も考えずともからだが動くほどに、自然なものとなっている。
カバンも持った。ちょっとくせっ毛で、油断すると広がってしまう私の髪の毛も、今日は上手くまとまってくれている。
あとはこの袋を持っていくだけだ。
キラキラと輝く緑色の包み紙に包まれた袋。この中にはチョコレートクッキーが入っている。フィリップ先輩へのプレゼント。しかも、私の手作りだ。
自分で作った方が想いがこもるような気がして、思いきって作ってみたのだ。だが、いざ渡そうと考えると、頭の中が真っ白になってしまう。喉がギュッと狭くなってしまったように息苦しくなり、手が震える。そうして、結局昨日は学院へ持っていくことすらできなかった。
――落ち着いて、大丈夫。チョコレートクッキーをあげるだけなんだから。私にだってそれくらいはできるはず。
そう、なにもフィリップ先輩に告白するというわけではない。ただプレゼントをするだけなのだ。
何度も自分に言い聞かせれば、次第に動悸も治まっていく。こんなことで果たして実際に渡せるのか、とも思うが、フィリップ先輩を目の前にすれば、案外あっさり渡せそうな気もする。
いずれにせよ、プレゼントを抱えて会ってしまえば、もう後戻りはできない。何の袋なのか聞かれるだろうし、それを無視するわけにもいかないだろう。
――ようし、持っていこう!
と手を伸ばす。
途端に動悸が激しくなった。
――ああ……ちょっと待って。一回落ち着こう。
と深呼吸。袋は机に置かれたまま。これでまた、最初からやり直しだ。
そうして机の前で、手を伸ばしたり引っ込めたり、同じようなことを何度も繰り返していると、遠くで声がした。
ウワオーン!
家の地下から聞こえている。動物の遠吠えのような声だ。だが、これは動物の鳴き声ではない。これが何の声なのか、私は知っている。兄の鳴き声だ。
兄がなぜこんな声を出しているのかはよくわからない。きっと暇なのだろう。
幸運に恵まれてマ王学院に入学することができた私と違い、兄の入学は実力だった。しかも、トップクラスの成績で合格したと聞いている。
入学してからもそれは変わらず、試験では常に一番をとっていたそうだ。それだけではない。授業で兄がレポートを発表する機会があったとき、その内容のあまりの難しさに、生徒たちは誰も、何を喋っているのかすら理解できなかったらしい。困惑が広がる教室の中で、教師だけがなんとか質問を投げかけ、それにも兄はスラスラと答えていたという。
学院の歴史のなかでも稀に見る天才だ。そんな風に言われているのを聞いたこともある。
卒業したあとは、学院から請われて、史上最年少の研究員として働いている。あまりにも若すぎるために研究員という形で迎えられたというだけで、本来なら教授になっていてもおかしくはないだけの実績を、すでにあげているらしい。
学院の周りでは、こうした兄についての噂をよく耳にする。ただ勉強ができるだけのその他大勢の生徒たちとは違う、本物の天才なのだろうと、家族である私も思う。
行き過ぎた天才は、常人には理解できない行動をとる。そんな話は偉人の伝記でよく見かける。そして、私の兄もその例にあてはまり、理解不能な行動をとることが多かった。特にひどいときは、話が通じなくなってしまう。
それは例えば、私がお風呂から上がったとき、私が制服のまま寝転んでいたとき、私が私の洗濯物を干しているとき――普段は理知的で、妹である私への過保護な態度と異常な執着以外は物静かな兄は、ときおり会話が成立しないほどにおかしくなってしまうのだった。
兄がおかしな言動を見せるのは、いつも私に関わるときだ。もともとスキンシップが多く、ふとしたときに、私を熱のこもった目で見つめていることもある。そうしたことが何を意味するのか、私にもわかっていた。
兄は――両親の代わりになろうとしているのだ。
私の両親は、私が幼いうちに亡くなってしまった。おかげでその姿はあまり記憶には残っていない。親を亡くした私たちはしばらくのあいだ、おばの家族のお世話になり、兄がマ王学院の研究員になると、ふたりで暮らすようになった。そのままおばのお世話になっていてもよかったのだが、兄がどうしてもふたりで住むと主張したらしい。
マ王学院の研究員だから、ふたりで暮らすだけの収入は十分にあった。それからは、ずっとふたりだ。
歳の離れた兄が幼くして両親を亡くした私のために、両親の代わりを務めようとしている。そう考えると、兄の行動には説明がつく。
過度のスキンシップも私を見つめるまなざしも、愛情表現がやけに直接的だけれど、父親と母親ふたり分の役割りを果たそうと、不器用な兄なりに必死になってくれている。そう思うと微笑ましくなる。三人分の愛情を、私に与えようとしてくれているのだ。
だが、それが行き過ぎておかしくなり、話が通じなくなってしまうのには困ってしまう。
そうしたとき、やむなく使っているのが地下室だった。通称、お兄ちゃん部屋――といっても、私がそう呼んでいるだけだ。
地下にあるお兄ちゃん部屋には窓はなく、廊下に面した部分以外は、石壁で覆われている。廊下と部屋の中とを区切っているのは鉄格子だ。私の手では、握っても指と指の先がつかないほどに太い鉄柱が立ち並ぶ、頑丈な造りの部屋になっている。ドアも鉄格子で、外から鍵をかけることができる。
私の手に負えなくなったとき、兄にはいつもここに入ってもらっていた。
数日前、ちょうど私がチョコレートクッキーを作ってフィリップ先輩へプレゼントする用意をした頃から、兄の様子がおかしくなった。何がきっかけなのかはわからない。これは考えても無駄だろう。兄の行動は、私には理解できないことが多い。こうしたとき、無理に理解しようとする努力は、すでに諦めている。
兄がおかしくなったと気づくとすぐに、私はいつものように、兄の瞳を見つめて言った。
「お兄ちゃん。お願いがあるの」
「聞くよおおお! お兄ちゃんはアリスちゃんのお願いならなんでも聞くからね! ああ……どんなお願いだろうなあ……。どんなことをお願いされちゃうんだろうなあ。楽しみだなあ。ハアア……気持ち良くなってきたナア……」
「あのね」
「うんうん」
「お兄ちゃん部屋に入って欲しいの」
「嫌だー!」
「お願い」
「入るよおおお!」
こうして、兄が自分で部屋の中に入ったあと、私は外から鍵をかけた。兄のことだから何らかの方法で鍵を開けてしまうかもしれない。だが、何もしないよりはましだ。少なくともしばらくの間は、大人しくしてくれるはずだ。
部屋の中の兄がふと顔を上げ、私に言った。
「とりあえず、お水をください。アリスちゃんが入ったあとのお風呂の水でいいので、たくさんください。お風呂のお水がいいです」
「もう、何を言ってるのよ……そんなお水じゃなくて、綺麗なお水をあげるのに……。本当に訳のわからないことばっかり……」
――2、3日放置した方がいいかな。
と考えながら、私はお兄ちゃん部屋を後にした。
兄のことを思い出したおかげで、動悸は少し治まっていた。
――ちょっと予行練習をしておこうか。
と考える余裕もできた。うまく先輩にプレゼントを渡せたとしても、その後の会話は、準備をしておかなければすぐに途切れてしまうだろう。
まずはプレゼントを渡す。
先輩が袋を開ける。袋の中には、パンダ、アーモンド、塩のチョコレートクッキーが入っている。
ここで一番目を引くのはパンダのクッキーだろう。
先輩はパンダを知っているだろうか。
いや、その前にプレゼントだということを伝えなければならない。それに――手作りだということも伝えておきたい。
先輩はきっとびっくりするだろう。
先輩が甘いものを好きなのかも、聞いておきたい。兄は甘いものがすきだが、これは少数派だろう。普通の男のひとは、甘いものが苦手な印象がある。
もし、甘いものが苦手でも、アーモンドや塩薄めのクッキーを用意してある。そちらを食べてもらえばいい。このことはきちんと伝えたほうがいい。
「どうしてプレゼントを?」と聞かれるかもしれない。これはそういう風習があると言えばいいだろう。風習の内容まで伝える必要はない。
あとは、汚いと思わないかは……聞く必要はないだろう。
袋を突き返し、先輩が言う。
「こんなもの、汚くて食べられないよ。迷惑だから、返すね。二度とこんなことしないでくれるかな」
いつもと変わらぬ表情で、当たり前のようにそう言うのだ。
考えるだけで私の視界が狭くなり、動悸が激しくなり、息をするのも苦しくなった。
先輩はそんなことを思わない。
先輩はそんなことを言わない。
それでも、不安で苦しくなる。
あとは、あとは――。
――楽しいことを考えよう。
プレゼントを渡した次の日、先輩が私を呼び止める。
「クッキー食べたよ。美味しかった。料理上手いんだね。また作ったら、僕にも食べさせてね」
そう言って優しく笑う。
想像の中で、先輩の笑顔を思い浮かべるだけで、不安で強張っていた私のからだの奥に、じわりとあたたかなものが広がっていくのを感じた。