チョコレートクッキーとしましまおパンティーちゃん
先輩にチョコレートを贈ろうと決めた私は、親戚のおばさんのもとを訪ねた。このおばは郊外に住んでいて、私たちと一緒に暮らしていた時期もある。面倒見のいい、ちょっとおせっかいなひとだ。
「チョコレートをプレゼントするのかい?」
「はい」
「それで、自分で作ってみたいってことかい」
「そうなんです」
「うーん」
おばは思案顔になり、宙を眺め、なぜだかニヤリと笑っている。
――チョコレートを作るのって、そんなに難しいのだろうか。
と私は不安になった。普段の生活では、兄の雇った家政婦さんが食事を用意してくれている。自分で料理をすることはない。やっておけば良かったと後悔しても、あとの祭りだ。
「ただのチョコレートだと、ちょっと物足りないかもねえ」
「あっ、そうですか? そう言われるとそうかもしれないですね……」
どうやらプレゼントするものについて考えてくれていたらしい。
「チョコレートクッキーを作ってみたらどうだい?」
「確かにその方が良さそう……。それって難しいですか?」
「あはは、簡単だよ」
ということで、プレゼントには、チョコレートクッキーを作ることになった。
「とりあえず、小麦粉をふるいにかけておくれ」
「はい」
おばの家のキッチンで、おばと並んで調理に取り掛かる。こうして並ぶと先生と助手といった雰囲気だ。私は料理はほとんどできないから、一緒に調理をしてもらえるのは心強い。
言われたとおり、ストレーナーで小麦粉をふるいにかける。粉がきめ細やかに、サラサラになって落ちていく。どこまでやればいいのかわからないので、繰り返し、小麦粉をふるいにかける。
「もうそれくらいでいいよ。あとはこれを混ぜて……」
おばがボウルにバター、卵黄、チョコレートを入れ、さらに小麦粉を入れてヘラでかき混ぜる。これがクッキーの生地になるようだ。私が見たときには、チョコレートはすでに出来上がっていた。結局チョコレートの作り方はわからないままだ。
「あの、私は何をすれば……」
「そうだね。アーモンドを砕いておくれ」
「はい」
袋に入れたアーモンドを棒で叩いて砕いていく。こちらもどれくらい砕けばいいのかわからない。おばが何も言わないので、ひたすらアーモンドを棒で叩く。そうしていると、不意に、おばが私に尋ねた。
「お兄さんには作るのかい?」
「えっと、兄には……」
――作らないほうがいいかもしれない。
と私は思った。
兄にいきなり手作りのクッキーを渡すと、ややこしいことになるかもしれない。兄はいつでも私に構おうとする。普段はちょっと鬱陶しいと思う程度の兄の言動だが、いまは相手をしていられない。ましてやクッキーを渡して、いつも以上にエスカレートしたら、とても手に負えそうにない。そんな兄の相手をする余裕は、いまはないのだ。フィリップ先輩のことに集中していたい。
私が首を振ると、おばは「そうかい」と頷いた。
そして、私にボウルを渡すと、
「あとはアーモンドを混ぜながら、形を作ってオーブンで焼くだけだよ。ここからはあんたがやってごらん」
と言った。
私の前にはクッキーの生地の入ったボウル。傍らには砕けたアーモンドの入った袋。
――さあ、やってみよう。
と手を伸ばしたと同時に、不安がよぎった。
――汚いって思われないだろうか。
もちろん手はキレイに洗ってある。かなり念を入れた。だが、料理人でもない、ただの平民の私が作った、私が手で触った食べ物だ。フィリップ先輩に、汚いと思われないだろうか。
――どうしよう……。
見回しても、手袋のようなものはない。アーモンドの入っている袋越しに触ればいいだろうか。考えるうちに、私なんかが勝手に浮かれてクッキーを作って、喜んで貰えるはずがないのに、迷惑なだけなのに、という絶望感が心の中を埋め尽くしていく。暗い井戸の底に、取り残されてしまったようだ。涙が溢れてきそうになり、私は大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着けた。
――先輩はそんなひとじゃないから。大丈夫。
考えすぎてしまうのは、私の悪い癖だ。わかっていても考えすぎてしまう。こうして深呼吸をしてやり過ごす方法だけは身につけたが、根本的なところは、変えられそうにない。
――楽しいことだけ考えよう。
生地を捏ねて、形を作っていく。本の中で見た、可愛らしい動物――パンダの形にしてみると、上手くは作れなかったが愛嬌のある見た目になった。これでは食べるのをためらってしまいそうだ。そうして熱中しようとしたときに、また不安がよぎった。
――甘いものが嫌いだったらどうしよう……。
いままで気が付かなかった。先輩が甘いものを嫌いだったら、きっと食べてはもらえない。チョコレートをあげようと思うばかりで、私は先輩の好みのことを考えなかった。私は自分のことしか考えていなかったんだとうちのめされ、心が暗澹たる思いで覆われる。振り絞るようにして、おばに尋ねた。
「甘すぎて食べてもらえないかも……」
「あのね……あんたね……大丈夫だよ。もともとそんなにチョコレートをたくさん入れてないし、アーモンドも入れるから、甘いものが苦手でも食べられるからね。ああ、そうだ」
とおばは、背後の棚から小振りのツボを取り出し、私の目の前に置く。
「岩塩を砕いてちょっとだけ乗せてみようか。美味しくなるよ。味付けをいくつか用意しておけば、心配いらないだろう? 気に入ったものを食べて貰えばいい」
「がんえん」
「塩のことだよ。この塩を薄めにつければいいからね」
「しお、うすめ」
「はいはい。さっそくやってみようね」
言われるままに砕いた岩塩の欠片をほんの少し、クッキーに乗せていく。アーモンド入りと、塩薄めと、パンダクッキー。三種類のクッキーが私の前に並んでいく。
作業を続けるうちに気持ちが落ち着いてきて、「あんたは本当に心配性だねえ」というおばの呆れたような言葉にも笑顔を返すことができた。
クッキーをオーブンに入れれば、あとは焼きあがるのを待つだけだ。待つのは15分程度だが、キッチンの小さなテーブルにおばが紅茶とおやつを用意してくれて、ふたりでティーパーティーを開催することになった。おやつはちょうど近所のひとから貰ったというレーズンパンだ。クッキーはまだ焼けていないし、先輩のものだから、おやつにつまむなんてことはしない。
「そうそう、プレゼントをするなら、これに入れるといいよ」
「わあ、ありがとうございます」
おばが緑色のキラキラした袋を取り出す。いかにもプレゼントが入っていそうな、ちょっと特別な雰囲気の袋だ。やりすぎという感じでもないし、可愛すぎるということもない。プレゼントにちょうどいい袋だった。
先輩が、「へえ、なんだろう」とつぶやきながら、袋の口を開けて中をのぞく姿が目に浮かぶ。きっと喜んでくれるだろう。思わずにやけてしまう。
――おばに相談して良かった。
と私は思った。ひとりではクッキーは作れなかっただろうし、うまくいかずに悩むうちに不安に押し潰されて、パニックを起こしていたかもしれない。
――そういえば、おばとこうしてのんびり過ごすのは久しぶりな気がする。
子供のころに一緒に住んでいたからだろうか、おばのそばにいると穏やかな気持ちになれる。そうして安心して、私がゆっくりとティーカップを持ち上げ、紅茶をひとくち飲んだ瞬間、
「ところであんた、好きな男の子でもできたのかい?」
不意打ちのようなおばの質問に、私はむせてしまった。
***
ガチャリ。
ドアが開く。ここはアリス・ルーベンスの部屋だ。そして、いま、部屋の主は不在だ。ここには誰もいない。
「おお、妹よ! お兄ちゃんがやってきたよ。お兄ちゃん登場だよ!」
入ってきた男――サイモン・ルーベンスは大げさな身ぶりで自分の存在をアピールする。大きく手を広げ、視線はどこか遠くを見ている。その右手には、緑色のキラキラした包み紙に包まれた袋が握られていた。
「もしかして、僕が持っているこれに気づいてしまったのかい? 気になるかい? そう、これはプレゼントだ! 大好きな妹のために僕が用意した、プレゼントなんだよおおおお!」
くっきりとした鼻筋に、薄い唇。神経質そうな印象はあるが、サイモンの顔は整っている。普通にしていれば、多くのひとは、彼のことをハンサムだと感じるだろう。
いまは違う。
その目は異様な輝きを放っていた。ギラギラと、どこでもない場所を見つめている。天井の、さらに向こうだ。この姿を見れば、多くのひとが、異常者だと感じるだろう。その言動も普通ではない。
「お兄ちゃんがアリスのために何を用意したかわかるかい? そうだよおー、おパンティーちゃんだよおー。かわいいかわいい、しましまおパンティーちゃんだよおー。これがアリスへのプレゼントだよおー」
そう、サイモンはたしかにある種の異常者だった。妹への愛が行き過ぎた、重度のシスコンなのだった。
「はいはーい、おパンティーちゃんがきましたよー。ちいさなおパンティーちゃんだよ。アリスに似合うものを、お兄ちゃんが探してきたんだよ。アリスが履いている姿を想像しながら買ってきたんだよ。さっそく履いてほしいなー。お兄ちゃんの前で、履いたり脱いだり履いたり脱いだりしてほしいなー」
そのサイモンの言葉に、返事はなかった。
不思議そうに、部屋のなかを見まわす。
「ああ……まだ帰っていなかったのか。そうだったか」
冷静な口調で、そうつぶやいた。一瞬で落ち着きを取り戻したようだ。肩を落とし、ガッカリしている様子だった。うつむいた拍子に、前髪がひと房、はらりと落ちる。
ふと、サイモンが机のうえに目を向けた。
そこにはキラキラと輝く緑色の袋が置いてあった。サイモンが手に持つものと、そっくりだ。ほとんど見分けがつかない。
「これは……シンクロニシティ……」
そうつぶやき、目を見開く。
「そうだったんだね! お兄ちゃんがプレゼントを買ってきたとき、アリスもまたお兄ちゃんへのプレゼントを用意していたんだね。言葉を交わさなくても、心で通じ合う。愛し合う兄妹だからこそ、こんな偶然が起きるんだね。いや、これは偶然じゃない。必然……運命なんだね。ああ……アリスの用意したプレゼント! いったい何が入っているんだろう」
と袋を開き、中をのぞく。
「チョコレートクッキーかあ! そうそう、お兄ちゃんはチョコレートが大好きだからねー。嬉しいよー。さっそくこれを食べ……はああっ!? これは、違う!」
あまりの驚きに、からだを震わせる。
「これは、手作りクッキー! いいのかい!? こんなものを貰っていいのかい? 作るときにはきっと汗もかいただろう。手のひらからしみ出た汗の混ざった、アリスちゃんの体液入りチョコレートクッキー。それを、食べちゃってもいいのかい? アリスちゃんの体液を味わってもいいのかい? ああ、お兄ちゃんは幸せだよおおお!」
そして、サイモンは緑色の袋を抱きしめ、恍惚の表情を浮かべた。
「ハァ、幸せ過ぎておかしくなりそうだね。でも大丈夫。これは夢じゃないよね。現実だよね。アリスちゃんの体液入りクッキーをいっぱいペロペロするからね。はああ! レロレロレロレロ! お兄ちゃんからのプレゼントはここに置いておくよ」
そうして、サイモンは「この世にはヘブンがあった!」と言い残し、チョコレートクッキーの入った袋を掲げながら出ていってしまった。
残されたのは机の上の緑色の袋だけだった。
もとからあった、手作りチョコレートクッキーの入った袋と同じ場所に、いまは、しましまおパンティーちゃん入りの袋が置かれている。
事情を知らなければ、入れ替わったことには気づけないだろう。
それくらい、そのふたつの袋はそっくりだった。