出会いとチョコレート
実際に入学してみると、マ王学院の授業は難しくて、私にはついていくのがやっとだった。
生徒たちは真面目で、勉強以外のことには興味がないようだった。授業中におしゃべりをする生徒など、ひとりもいない。もっともこれには、おしゃべりをしていたら授業についていけなくなる、という切実な理由もある。それほどに、この学院の教師の話は難解だ。しかし授業が終わっても、教室の中は静かなままだった。
その静けさのせいもあり、入学以来、私はクラスメートにろくに話しかけることすらできなかった。おかげで友達はできなかった。だが、話しかけたとしても、同じことだったろう。たいした決意もなく、ふらふらと入学してしまった私と彼らとでは、そもそも話が合うはずもない。
学院の空気は息苦しく、そこでの生活は正直に言って、楽しいものではなかった。あるいはそれは、私がことあるごとに周りの生徒と自分を比べていたからなのかもしれない。なんの目的もなく、流されてここにきた私と、明確な意思を持って、この学院で学んでいる彼らとを。比べてみれば、自分の何もかもが、彼らよりも劣っているように感じられた。
教室での私は、誰とも喋らず、ただうつむいて過ごしていた。そうしていると、休み時間はとても長くて、誰かに見られているような、邪魔もの扱いをされているような風に思えてくるのだった。
――ここは私の居場所じゃないんだ……。
そうして、私は教室を出て、落ち着ける場所を探すことになった。どこも生徒たちがいて、数人で集まり、語り合っている。その声は、やけに私の耳についた。楽しそうな喋り声に追い立てられるようにして、私はほかの場所を探す。最後にたどり着いたのが、地下の古い図書室だった。私は暇さえあれば、この図書室に籠るようになっていった。
生徒のあまり訪れない、本ばかりの部屋。この場所にいれば、ほかの生徒がいなければ、居心地の悪い思いをしないですむ。比べなくてすむ。そんな消極的な理由で、私は逃げるように、ここへ通っていたのだった。
私はこの図書室で、運命のひとと出会った。
フィリップ・マグリット。
上流貴族の家柄でありながら、特別枠での入学をよしとせず、平民と同様に入学試験を受け、実力で合格してこの学院へ入学した秀才だ。
見た目も麗しい。キラキラと輝く金色の髪、どこか人形めいた、白く美しい顔。薄く赤い唇。遠くから、一度切りしか見たことはなかったが、その気品溢れる身のこなしに、思わず見とれてしまって、指先の僅かな動きまでも、この目に焼き付けておこうと必死になったことを覚えている。
ひとつ学年は上だけれど、すでに私の学年でもその名は知れ渡っている。フィリップ先輩の名前とともにヒソヒソと交わされる会話を至るところで耳にすることができる。悲鳴のような歓声の混じった会話だ。大した人気だと思う。そして、人気があるのも当然だと思う。女の子が夢中になる要素しかない。
その彼が、図書室で本を読んでいる私を見つけて、話しかけてきたのだった。ほかに生徒はいなかった。彼が話しかけてきたのは間違いなく私だった。信じられないことに。
私に向かってフィリップ先輩が歩み寄る。その薄い唇からこぼれ落ちたのは、「何を読んでいるの?」という他愛のない言葉だった。それだけで私はすっかり舞い上がってしまって、しかしそのあと彼が去ってから、落ち込んだ。
――なんでこんなことで、こんなに舞い上がっているのだろう。
気まぐれで声をかけられただけで。
気まぐれ以外の理由でフィリップ先輩が声をかける訳がないのだ。特別美人な訳でもない、性格もひねくれた、こんな私に。
――それなのに。
何を思い上がっているのだろう。何を期待しているのだろう。おまけにきちんとした返答もできなかった。せっかく先輩が話しかけてくれたのに、顔を赤くして、無言で本を掲げて見せただけだ。それは勘違いをした、みっともない身の程知らずな女の姿だった。
先輩は社交辞令のようににっこり笑ってみせて、去っていった。あれ以上かける言葉もなかったのだろう。呆れられても仕方がなかった。ただなんとなく話しかけられただけで、あんなにも無様に舞い上がってみせたのだから。
そのときのことを繰り返し思い出して、私は本当にひどく落ち込んでしまった。もっとほかの対応があったろうに、と頭のなかで何度もやり直した。想像のなかではもう少しうまくやれた。だが、いくら考えても、いまさら取り返しがつくものではなかった。
しばらくのあいだ、私は図書室へ行くことすらできなかった。
そうして、そんな忸怩たる気分のまま、久しぶりに図書室へ向かうと、そこにはまたフィリップ先輩がいたのだった。私を待ち構えていたように話しかけてくる。これはいったいどういうことなのだろうかと、私は戸惑った。
「やあ、また会ったね」
「あの、はい。読みかけの本があったので……」
「よくここに来るの?」
「はい。あの、本が好きなので……」
「ふうん、そうか」
散々妄想したせいか、このときは、いくらかは受け応えをすることができた。少なくとも前回よりはマシだ。私のたどたどしい言葉に、先輩は優しく笑ってくれた。白い肌と金髪が、光り輝いて見えた。
次の日も、その次の日も、図書室へ行くと、フィリップ先輩が私に話しかけてきた。
この信じられないような状況も、繰り返されると、次第にそれが楽しみになっていった。堅苦しくて、息がつまると思っていた学院での生活が、鮮やかに縁取られたキラキラ輝くものになった。図書室に入ると私は、まずフィリップ先輩の姿を探すようになった。
――もしかしたら。これってもしかしたら。
自分の思い上がりだと、何度も言い聞かせた。実際そうなのだろう。だが会うたびに期待は膨れ上がっていく。考えるだけで、ドクンと心臓が音をたてる。私のことを好きだとまではいかなくとも、気に入ってくれていると、そう思ってもいいのではないだろうか。そんな甘い妄想が、頭の中を駆けめぐる。
図書室にひとりでいるとき、本をひざの上に置き、妄想に浸ることが多くなっていった。ドアを開けて、フィリップ先輩が私のもとへ歩いてくる。優しく微笑みながら、ゆっくりと。そして私の手を取り、立ち上がらせると、いきなり抱きしめてくる。
それだけで私の頭は真っ白になり、そこからどうすればいいのかよくわからないから、この妄想はここで終わりだった。
ため息をつけば、一気に現実に引き戻される。ため息ひとつでかき消えてしまうほどに、薄っぺらな現実味のない妄想なのだ。いきなり抱きしめる意味がわからないし、そんなことをするようなそぶりもない。そもそもそんなことをするようなひとではないのだ。妄想には何の根拠もなかった。
結局妄想をするたびに、私は自分の勘違いを思い知らされることとなった。
しかしこれが勘違いだとしても、もちろん実際そうなのだろうが、そんなことはすでに関係なくなっていた。私の気持ちは抑えきれないほどにたかまっていた。もうフィリップ先輩なしの生活は考えられなかった。この頃には、図書室へ行って、フィリップ先輩と話をするためだけに私は生きていた。
一方で、私の中には焦りも生まれていた。
フィリップ先輩は貴族だ。本来なら私など、会話をすることも許されない。それほどに身分の差がある。いまは同じマ王学院の生徒だから、特例として、気軽に話しかけてもらえている。かろうじて許されているだけだ。
先輩が卒業したら、それも終わりだ。あと数年。それで、この夢のような時間は終わってしまう。
夢から覚めたあとに始まるのは現実だ。どうあがいても、変えられない現実。生まれついての身分の差が縮まることはない。
――それなら、せめて、私の気持ちだけでも……。
自分の気持ちを伝えたとして、それで何が変わるという訳でもないことくらい、わかっている。だが、卒業してしまえば、気持ちを伝えることすらできないのだ。
そんなことを毎日、ひとりで悶々と考え続けた。
一番の問題は、想いを伝える勇気がないということだった。
フィリップ先輩との時間は、学院での生活の唯一の楽しみだった。それはもはや私の生きる希望だったと言ってもいい。だからこそ、それが壊れてしまったらと思うと、身がすくんでしまう。
――本当に好意を持たれているのかもしれない。もしかしたら。
そう言い聞かせて、都合のいい妄想を事実だと思いこもうとしても、不安のほうが勝ってしまうのだ。
何もかもが上手くいく保証なんて、どこにもない。マ王学院へ入学して、フィリップ先輩に話しかけられるようになって、幸運が続いている私の身に、今度こそ、不幸が訪れるのかもしれない。そんな予感が頭から離れなかった。
そんなとき、私は図書室で一冊の本を見つけた。
ここから遠く離れた、東部の地方に伝わる風習について書かれた本だ。青い表紙に異国の風景が描かれた、古くて分厚い本だった。
風習といっても、生まれる前の胎児を引きずり出して食べてしまうとか、美容のために人間の血を貯めた浴槽に浸るだとか、そんな野蛮で怪しげなものについての記述は見当たらなかった。遥か東の地方の人々も、それなりに文化的な暮らしをしているらしい。
ただ、やはり変わった風習も少しは残っているようだった。魚の頭を庭に飾るだとか、決まった日に、みんなで集まって地面に豆を撒くだとか。その光景を想像してみると、この人たちは何をやっているのだろうと笑ってしまうような風習について書かれている。
しかし彼らには彼らなりの理屈があるらしく、読んでいくとそれなりに納得させられた。そのうちに、私はこの本に熱中していった。
遥か遠くに住む、見知らぬ人々。文化も価値観も違う、彼らの生活を想像するのは、ファンタジー小説を読むときに似た楽しさがある。ここではないどこかについて書かれているという点では、両者に大きな違いはない。
本のなかにはこんな風習も書かれていた。東部のある地域では、女性から男性へ、チョコレートを贈るのだという。それは好意を伝えるためのものらしい。直接言葉で伝えられない女性が、そうして物に想いを託すことで、恋を成就させるのだという。
それなりに素敵な話だとは思う。
チョコレートとというチョイスが、やはりよくわからない部分はあるけれど。
その本を読んでからしばらくたったあるとき、私は天啓を受けた。
――チョコレートだ。チョコレートの風習だ。
そう、これならできるかもしれない。
想いを直接伝えるだけの勇気は、私にはまだない。だからこそ、これならできるかもしれない。
先輩に、チョコレートを贈るのだ。
想いはたぶん、伝わらない。遥か東の地方の風習だ。先輩がそれを知っているはずはない。だが、それでいいと思う。伝えようと思えば不安で動けなくなる。伝わることがないとわかっているなら、ただチョコレートを贈るだけなら、私でもきっとできる。
想いを込めたことを、自分がわかっているだけでもいい。それだけでも、たいした進歩だ。「今回」は、それでいい。いつかきちんと想いを伝えることができれば。
――よし、チョコレートを、贈ろう!
ほんの少しだが、私は一歩踏み出してみようと、決意した。