マ王学院への入学
マルカ王立学院があるのは、住宅街の外れだ。商店が建ち並ぶ王都の中心の一番大きな通りからは、かなり歩くことになる。
まずは大通りを北に曲がり、少し離れた場所にある住宅街を横切っていく。
王都とはいえ、中心部から離れると、次第に建物は少なくなる。もうここは住宅街だから、通行人もほとんどいない。かといって、寂れているという印象でもない。落ち着いた雰囲気の街並みだ。幅の広い石畳の道路を歩いていると、時間がゆっくりと流れているようにも感じられる。
住宅街に入ってからも、目的地であるマルカ王立学院にたどり着くには、まだ時間がかかる。このことには驚くものも多いだろう。建物はすでに見えている。なのに、近づくことはなかなかできない。
それというのも、建物が見えているのは、その大きさのせいなのだ。周りとはかけ離れた大きさに距離感が狂い、すぐに着くはずという勘違いもしてしまうが、実際の距離は見た目よりも遠い。だから時間がかかる。
目的地が見えるため、迷うことはない。だが、建物が見えてからも、もうしばらく歩き続けなければならない。コツコツと、石畳に響く自分の足音を聞き続けることになる。
こうして時間をかけてマルカ王立学院を訪れたものは、まず最初に入場門をくぐり抜けることになる。これも巨大なものだ。三十人ほどがここを横に並んで歩いても、肩をぶつけることすらないだろう。
これをくぐり抜けた先、敷地に入るとすぐに、視界を覆うようにそびえ建っているのが本館だ。ここでは生徒たちの日常の授業が行われている。耳を澄ましても、騒ぐ声は聞こえず、緊張感のある静けさが漂っている。本当にここに子供たちがいるのか、疑ってしまうほどだ。
周囲の建物と比べるとひとまわり大きな、ランドマークともなっているその建物を眺めて、ひときわ目につくのは一点の歪みもない、なめらかな白い壁だろう。これだけでも大変な技術だ。それが鏡のように磨き上げられている。
そして、随所に施された、繊細で優美な装飾。僅かに使われている金色が、嫌味にならない高級感を与えている。
建物のシルエットは曲線が強調され、巨大でありながら、どこかあたたかな印象だ。日射しの遮られた暗い空間は見当たらず、常に太陽の光を感じることができるように造られている。
屋根はドーム状となっており、なだらかな曲線をたどって見上げれば、そこには王家の鷲の紋章が掲げられている。
どの装飾よりも力を注いで作られたであろうそれは、いまにも勢いよく飛び立ちそうなほどにリアルだ。じっと見ていると、かすかに身震いをしたような気さえしてくる。その精巧さに対する驚きとともに、堂々とした姿は、見るものに威厳を感じさせている。
中央にある巨大な本館から目をそらせば、ゆったりと敷地をつかい、いくつかの建物が左右に連なっている。鳥の羽根を広げた姿がモチーフなのだろうか。わずかにカーブを描くように配置されている。
それぞれに特徴があり、しかし共通して、あたたかで威厳のある印象の建物だ。宗教的な建物に見られるような、穏やかな静けさも感じられる。
「さすがに立派ですね」
「ああ……一度来てみたかったんだ。思っていたよりも、はるかに広いな」
「広すぎて、全部は見渡せませんね」
そんなささやきを交わし、ここを訪れたものが、ため息とともに建物を眺めて立ち尽くしている。
こうした光景は珍しいものではなかった。むしろ、ありふれていた。ぽつりぽつりと立ち尽くす人々の姿までを含めたものが、マルカ王立学院の日常風景だといえるだろう。
まさに、王立の名にふさわしい建造物。
そして、ここが、私の通う学校だ。
15歳になる私、アリス・ルーベンスは、このマルカ王立学院の生徒だ。
世間ではマ王学院という略称で親しまれ、観光名所ともなっているこの場所も、いざ生徒として入学しようとすると、途端に遥か遠い存在になってしまう。
ある程度以上の家柄の貴族か、特別に優秀な成績を納めた子供。限られたそのどちらかの人間しか、この学院への入学を認められないのだ。
そして、平民の出身である私が選べたのは、当然後者のみだった。
もちろん、私は生まれつき特別に賢い子だったわけではない。かといって、大変な努力の末に入学を勝ち取ったというわけでもなかった。
なんとなく勉強をするようになって、流されるままあれよあれよというまに、マ王学院に入学してしまったのだ。
私と同じく、私より先に、優秀な成績を納めてマ王学院へ入学した兄、サイモン・ルーベンス。その兄を手本に、見よう見まねで勉強を始めたのが、そもそものきっかけだった。
幼いころの私は、いつも兄について回っていた。歳の離れた兄は、何でもできて、私の憧れで、もしかすると初恋の相手だったのかもしれない。
「お兄ちゃん、遊んで?」
「ああ、いいよ。何をして遊ぶ? お医者さんごっこかな?」
「うん。やる!」
「あはは、アリスは本当にお医者さんごっこが好きだなあ」
こうしてたいていの場合、兄は私の相手をしてくれていた。だがときおり、「ちょっと待っていてね」と私のことを後まわしにすることがあった。そういうときの兄は決まって、机に向かい、難しい顔をしているのだった。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん。それ、私もやる」
と私は呼びかけたことがある。兄が熱心にしている作業を、私もやってみたくなったのだ。兄は満面の笑みで、子供向けの勉強道具を用意してくれた。兄が勉強をしているということも、それがかなり難しいものだということも、私にはよく分かっていなかった。
ノートを開き、教科書を読み、暗唱する。はっきりとした記憶はないが、当初の私は遊びの一種だと考えていたのかもしれない。少なくとも、自分がやっているこれが何なのか、深く考えることはなかった。ただ真似をしていただけだ。
私のすることならなんでも喜んでくれる兄は、自分の真似をする私の姿を見て、やはり喜んでくれた。少々大げさな程に、抱き上げ、撫でまわし、褒めてくれた。満足した私はさらに勉強を続けることにした。
このように、たいした理由もなく始めたことだったが、その成果はすぐに私の前に表れた。テストの答案用紙という形をとって。
「えー? なんかすごい!?」
教師から手渡されたそれは、マルばかりが並んだ答案用紙だった。私は自分の目を丸くした。こんなに簡単に問題が解けるようになるというのは、予想外の出来事だった。もちろんそれは、問題が簡単だったからでもある。
そうして、私は学校で一番の成績をとるようになっていった。
とはいえ、私が当時通っていたのはちいさな学校で、まだ幼かったからきちんと勉強をしている子供も少なく、ここで一番をとるのはそう難しいことではなかったように思う。きっと誰にでもできたのだろう。周りの子供は大人しく座っているだけで精いっぱいだった。
テストでいい点数をとるようになると、授業が面白くなってきて、教師の言葉に自然と耳を傾けるようになった。するとさらに勉強ができるようになり、努力をしたという意識はないまま、不思議なくらいすんなりと、私の学力はぐんぐん上がっていった。
成績優秀で、授業に真剣に取り組む生徒だ。教師たちからは、私のことがそのように見えていたのだろう。だが、実際の私には熱意などなかった。始めたときと変わらず、なんとなく勉強をしていただけなのだった。
「もっといい学校を目指してみる気はないか?」
「マ王学院はいいぞー」
「入りたくても入れない子も、たくさんいるんだ」
「普通の学校へ行くのはもったいない!」
こんな風に、教師たちからは、マ王学院の入学試験を受けるように何度も勧められた。私が成長するにつれ、それは熱心なものになっていった。これには私をマ王学院へ入学させ、そのことを自分たちの実績にしよう、という思惑もあったのだろう。だが彼らは、真剣に私のことを考えて勧めてくれているようでもあった。
そして私は、受けるだけならいいか、と軽い気持ちで、言われるままに受験をすることを決めた。どうせ受かるはずもない、と思っていたのだ。
マルカ王立学院への入学試験の結果は、まとめて学校へ送られる。
この試験で合格する人数は少ない。だが、受験者は非常に多い。それだけ人気のある学校なのだ。
それもそのはずで、ここでは国内最高峰の授業を受けられ、卒業後の成功まで約束される。おまけに国からの補助で、授業料もほとんどかからないのだ。
受験の手続きは子供たちが通う各学校を通したものしか受け付けてもらえないから、その結果が学校を通して告げられるのも、受験者の人数とそれに関わる手続きの煩雑さを含めて考えれば、特に不思議なことではなかった。
試験が終わり、ひと月ほどが経ち、特に期待もしていなかったがゆえに自分が受験したことすら忘れていた私に結果を告げたのは、一番熱心にマ王学院の入学試験を受けることを勧めていた教師だった。顔を赤くして、興奮している様子だった。普段は落ち着いた物腰のひとで、この教師が取り乱した姿を見たのは、あとにも先にもこの一回だけだった。
「え? 合格?」
「ああ、合格だ! おめでとう!」
「えっ、私がですか?」
「そうだ! よくやったな!」
そう、試験の結果は合格だった。
これは実力というよりも、運が良かったからだろう。試験の手応えは、それほどのものではなかった。たまたま選んだ選択肢が正解だったというようなことが重なって、ギリギリ合格点に届いたのだと思う。そもそもマ王学院に合格できるほど優秀ではないということは、自分が一番よくわかっていた。
合格の知らせを聞いたときは、もちろん嬉しいという気持ちもあった。けれど、それほど実感はなく、どうしたらいいのかという戸惑いのほうが大きかった。
私はもともと兄をお手本に勉強していただけなのだ。周りに喜んで貰えるから続けたほうがいいのかな、なんとなくこうしたほうがいいのかな、ということを繰り返していたら、こうなってしまった。
大変な苦痛に耐え忍んだというわけでもないし、大きな目標へ向かって真剣に努力を積み重ねたというわけでもない。だから、達成感は少ない。おまけに実力でもない。しかし、喜ばなければならないのだろうということはわかった。これは当然だ。王都では誰もが知る、エリート学校に合格したのだから。辞退することなど、許されるものではない。
「おめでとう!」
「よく頑張ったね」
「受かると思ってたんだよ」
「兄妹揃って、さすがだな!」
などと自分のことのように騒ぎたてる周囲のひとたちに、なんだか申し訳なくなり、私もいちおうはしゃいでみせた。いまになって思えば、あのときの私の態度はひどくぎこちないものだっただろう。
主体性のない、なんとなくで流されるだけのこんな私がマ王学院へ入学できたのは、やはり兄の力が大きいと思う。わからないところはすぐに教えてくれたし、学習法について、具体的なアドバイスもくれた。兄がいなければ、試験を受けることすらなかっただろうし、こんな幸運を手にすることもなかった。
妹である私に対して、過保護で異常に執着する一面もあるが、兄はとても尊敬できるひとだ。