兄弟、外行くぞ!
最終話はお決まりの後日談。
彼女が死んでから三度の夜を越えた。……ボクはいまだに泣き続けていた。
涙が枯れるものだと思ったけれど、そんなことは無く。一滴の水分も取っていないというのに、涙だけは止まる気配もない。ただひたすらにメソメソと泣き続けて、心が壊れないように無限に湧き出す悲しみを外に流し続けていた。
時計を見上げてみると、短針はすでに十一時を指していた。確か今日は会社があったはずだから、大遅刻だ。
彼女がいないと一人で起きることもできない。ご飯も作ることができない。会社に行くことだってできない。……本当に彼女がいなくなってしまったのだと自覚しては、また涙が零れた。
ボクには彼女が全てだった。
そう言うと彼女は怒ったものだけれど、実際にボクは彼女を軸に生活していた。
仕事をするのも。毎日家に帰るのも。休日に早起きするのも。全部。全部。全部、彼女のためで。彼女を愛していたからだった。
彼女がいれば他に何もいらないのに、なんで彼女を奪い取るんだよ!?
そう思わずにはいられない日々だった。
写真の中で笑う彼女は変わることのない笑顔でボクを見ている。
彼女には。彼女にだけは。今のボクを見てほしくなかった。けれど、例え写真だとしても、彼女の傍を離れたくなかったんだ。
「よっ、兄弟。死にそうじゃねえか」
声が聞こえた。
なぜだ? 誰もいないはずなのに。
綾香かと思ってそちらを見ると、知らない男だった。期待させるようなことするなよ、とボクはまた泣いた。
「ばっちゃーん、居たよ。あんがとな!」
「はいはい、帰るときは声かけてちょうだいね」
玄関に向かって彼が何か言うと、しゃがれた声が遠ざかっていく。ボクはいつまでも立ち去る気配のないその男の顔を見ようと芋虫のようにうねった。
「へぇい、兄弟。ひっさしぶりだな」
「……ぁれ」
『誰』と、口にしたはずだった。
三日間泣き声しか出さなかった喉は、言語機能を半ば失っていた
「ソウルブラザー│竹中広也、ただいま参上!! ってぇな。落ち込んでっかなと思って来てみりゃ、予想以上だな」
シャキーン、と戦隊ヒーローのように決めポーズをしながらソウルブラザー、と。彼はそう言った。
ソウルブラザーという単語で脳内検索をかけて、一人の人物がひっかかる。
それは確か、中学校の頃だったと思う。
やたらと喧嘩っ早く暴力的だったせいで孤立しては、一人ぼっちで寂しそうにブランコに乗る少年が居た。
当時のボクは見てられなくなって彼を遊びに誘った。
……するとなぜか殴られて、カッとした勢いで殴り返して。そのまま殴り合いを続けて。お互いに立てなくなった頃には、ボクたちは兄弟になっていた。
獣を彷彿とさせるその笑みを見ていると、昔となにも変わらないものだと笑みが零れた。……笑ったのなんていつ以来だろう?
「お、おい大丈夫か兄弟? 顔が痙攣してんぞ……?」
どうやら今のボクは表情筋も死にかけているらしい。
立ち上がろうとして、全身の筋力も弱っているようで自分の体重さえも支えきれずに倒れる。
広也は溜め息一つ吐くと明後日の方向へと顔を向けた。
「まずは飯でもどうだい、兄弟」
ボクは声を出そうとして、掠れた息しか出なかったので頷くことで応えた。
それからは大変だった。……いや、それからも大変だったというべきか。
まずは広也に連れられて二日ぶりの居間へと足を踏み入れた。寝室に居すぎたせいか、まるで異世界に来たようだ、と口にしたら広也に頭を撫でられた。それだけでも涙が出そうになった。
とりあえず、と渡された水を口に入れると、その冷たさに驚く。同時に、自分にもまだ体温があったことに驚く。
こいつ食ってみ、と言われ千切れたパンを渡されるが、飲み込むことも容易にできず、一切れのパンで四苦八苦しているとまた涙が出た。
「お粥にしたぜ、兄弟。ゆっくり食べな」
ああ、懐かしいなぁ、お粥。それも卵粥だ。ボクか彼女か、どちらかが風邪をひくと作る。裏メニュー的な、ある意味特別メニューなんだ。
スプーンを手間取りながら持ち、一口目をくわえる。
──味付けが違う。
そう思ったときには、広也に背中を擦られていた。……吐き戻したのだと、遅れながらに気づいた。
「ごめ……ごめん……っ!」
「いいぜ兄弟、ゆっくり慣れさせていこうな。な?」
広也はこんなにも優しかっただろうか。ボクが周りに目を向けていなかっただけなのだろうか。ボクには彼女しか見えていなかったんだろうか。
胃が痙攣し続け、無いはずの中身を吐き出せと、全て吐き出せと命令してくる。……どうせなら、この気持ちも、記憶も全てを吐き出して忘れて楽になりたかった。
ボクが落ち着いた頃には広也は何も気にしてないふうに提案した。
「嫌なことを忘れるためには酒と女ってぇな! 兄弟、外行くぞ、外!」
そう言うやいなや広也はボクを風呂へとぶちこんだ。
外出するのにその臭いはねえよ、と言われてしまっては流石に傷つくものだけれど、こうも真っ直ぐなまま育った広也は本当に変わらないのだと苦笑した。
風呂では二度吐いた。
公道を八十キロで飛ばす彼の運転にヒヤヒヤして、さっきまでとは別の意味で吐きそうになりながら着いた先は、なんの変哲もない居酒屋だった。
「……ぁんで、ここ?」
「あん? たまたま目に付いたからだが」
広也に連れられ中に入る。まだ昼間だというのに、数人のおじさんだちが飲んだくれていた。
……酷いものだった。
ビール一杯目から始まる彼の話は、奥さんとのノロケ話が主だった。奥さんのいいところ、悪いところ、好きなところ、嫌いなところ。最近はどこにデートに行っただの。何をプレゼントしただの。
耐えられなかった。
殴ってやりたい気持ちを必死で抑え、肩身を狭くしながらビールを舐めるようにして飲んでいた。
「んでよぉ。耳元で『愛してる』って囁くとすーぐ赤くなるのなんのって! 可愛すぎかよ、もう世界一、誰だろうと穂歌に勝てる奴はいねえな!」
それは彼女を貶す言葉で、今のボクに言ってはいけない言葉だった。散々我慢していた感情が荒ぶり、広也に向かって声を荒げていた。
「何がしたいんだよお前は……ッ! 傷ついてるのが分からないのか!? バカにでもしたいのか!? もう、放っといてくれ……っ」
広也は、悪戯が成功した子供のような顔をしていた。怒鳴り散らしながら、どこか冷静な部分のボクは見事に広也の作戦に引っかかったのだと察した。
「俺は言いたいことを言ってるだけだぜ、兄弟。なに遠慮して虐められっ子みたいに縮こまってんだよ? 言いたいことがあるなら言え。俺を殴りたいなら殴れ。それで兄弟の気持ちが晴れるってんなら、いくらでも力を貸すぜ?」
「ボク、は……っ」
「言ってみろよ、時間ならたっぷりある。飲み明かそうや、兄弟。」
それはけして、上手いとは言えない慰めだった。
でも広也の真っ直ぐな気持ちがそのまま伝わってきて。頬を流れる涙が止められなくて。
手元に残っていたビールを一口飲むと、ボクの口からはつらつらと泣き言が漏れていた。
「ずっと一緒にいられると思ってた……沢山未来の話もした……まだ、恩返しだってしきれてない……! こんなに急に居なくなるなんて思っていなかった……! もっと、もっと一緒にいたかった……っ」
いまだに本調子ではない声でボクは叫ぶようにして泣いていた。広也は特に何を言うでもなく、とても優しい目でボクの愚痴を聞いてくれていた。
……今はそれが、本当にありがたかった。
「絢香がいたらそれだけで幸せなのに……! 怒りをぶつける先もどこにもない! 絢香の代わりなんてどこにもいない! ボクはこれからどうしたらいいんだよ……ッ」
「交通事故だったんだろ? ……絢香さん、どんな人だったんだ」
いつの間にか空になっていたボクのコップにビールを並々と注ぐと、スルメの足を口からはみ出させつつ、彼はそう聞いてきた。
なんて親身になってくれるんだろう。何も喋ることなどないと叫び散らして一人でちびちびと飲みたい気分では無かった。むしろ誰かに愚痴りたい気分だったけれど、支離滅裂で顔面ぐちゃぐちゃのボクの話を聞いてくれるのは広也くらいなものだった。感謝してもしきれない。
「絢香が、好きで、本当に好きで……嫌だと思うところが無かったと言えば嘘になるけれど……それさえ受け入れられるほどに大好きで……っ。絢香も同じように思ってくれていたんだって……!」
「疑う余地なく相思相愛だったんだな。……まあ、俺らも負けてねえんだぜ?」
「絢香よりいい女なんて、いるもんか──ッ!」
「あ、言ったなこのやろー。見てみろ俺の家内の穂歌だ!」
バックライトが煌々とついているスマホを向けられる。涙が滲んだ目じゃ、乱反射で何も見えないのだけれど何度か目を擦って画面を見る。
……絢香とは似ても似つかない女性と広也が写っている写真だった。
「……美人だ」
「ほら見ろ! ……あッ!? あげねえからな!? 俺ンだからな!?」
「でも絢香のほうが美人だ! 見てみてろ!」
こちらも負けじとスマホを突きつける。
画面に写っているのはいつぞや撮った絢香を着せ替え人形にした写真。
白魔女絢香の写真は破損してしまっていたけれど、ジーパンとTシャツというラフ絢香とおさげスタイルのお散歩絢香はきちんと残っていたのだった。今回は後者を見せびらかす。
「……美人じゃねえか」
「絢香ぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ!」
普段ならほろ酔い程度になるくらいの量しか飲んでいないのに、ボクはもうできあがっていた。
絢香を褒められたことで舞い上がり、絢香の写真を見たことで思いだし、条件反射のように泣いた。居酒屋で周囲の迷惑を考えずに泣き叫んでいた。
「っるせぇぞ!」
そしたら周りから苦情が飛んでくるのも仕方ないというもので。けれどできあがっているボクには注意されたところで止まれず、さらに涙の量が増えただけだった。
同じくできあがっている見知らぬおじさんに頭をぺしぺし叩かれるが、ボクの頭の中は絢香で一杯だ。
「あー……すまねえな、おっさん。そいつ事故で奥さんを亡くしたんだよ……」
「あァ!? そりゃ羨ましいなぁおい! 俺もうるせえ妻が死ねば楽になれるってのによォ」
その軽口に広也は苦笑いを浮かべた。完全にできあがってんなぁ……と小さく聞こえた気もするけれど、それだけでは済まさなかったのがボクだ。
ボクの前で妻が死んだほうがいい、なんて。死んでも言わせない──ッ!
「お前はッ! 奥さんと今まで一緒にやって来たんじゃないのかよッ!? 大切にしたいと思ったから結婚したんじゃないのかよッ!? 沢山支えてもらってるんじゃないのかよッ!? うるさく言うのだって心配してくれてるからだろ!? 死んだほうがいいなんて、死んでも言わせねェ──!」
この叫びの最初の一言目で、ボクの声は枯れた。たった三日とは言え、声を出さなかった喉は限界ギリギリだったが、ここにきて遂に限界を越えたのだった。
何度も声が裏返り、悲痛な叫びとなって空気を震わせた。
……おじさんは、泣いていた。
「……俺が、悪かった──ッ! 家内が死んだら……死んだら……うぉぉぉぉぉああぁぁぁぁ!! 死なないでくれぇ──!」
視界の端で広也が耳を押さえていた。言葉ではなく身体で『ウルサイ』と表現しているが、それを理解できる思考能力を、この場にいる誰も持ち合わせていなかった。
「奥さんも分かってくれます! 愚痴りたくなる日もあるんですよね……っ! 今日は飲みましょう! おじさんは、もっと幸せになっていいんです──ッ!」
「ありがどぉ……ありが、どぉ……っ! おめぇさんもつらいだろうに……こんな老いぼれのことを……!」
視界の端で広也が眉間によった皺を親指の腹で擦るようにして伸ばしていた。……何してんだろ?
こうして無事に家内死ねおじさんを更正おじさんへと進化させたボクは、更正おじさんと乾杯をした。それだけじゃなくジョッキ一気飲みを見せてもらった。そこへ酒豪を名乗る謎のおじさんが現れ一気飲み対決へと発展した。
広也は焼き鳥をもそもそと食べていた。
更正おじさんが煽る中、ボクと酒豪おじさんは『レタスとキャベツは共生できるのか』で語り合い、仕舞いにはLINEを交換する仲へと至った。いやぁ、紆余曲折あった。
──と一息吐く間もなく次のおじさんが現れた!
本来首につけるはずのネクタイを頭に着けて、手にはお寿司の入った箱を持つ、一昔前の酔っぱらいおじさんだ!
更正おじさんとLINEおじさんが先制攻撃とばかりに一昔前の酔っぱらいおじさんをタキシードおじさんへと進化させた──!
しかしタキシードおじさんは負けじとエクストリーム一発芸『流水滝下り』を披露してくれた。
それは涙あり、笑いあり。様々な伏線が絡み合い、謎が謎を呼ぶ。最後の大どんでん返しでは居酒屋にいた全員がスタンディングオベーションで感動の涙……。
まさに瞬きも許されぬ至高の一分間だった。
……まさかジョニーが光輝き、田中さんが概念になるなんて。ボクたちは宇宙始まりに立ち会えたんだ。
ちなみにタキシードおじさんがくれたお寿司はボクと広也で食べた。マグロ中トロの奪い合いにはもちろんボクが負けた。
日本酒をちびちびと飲んでいる広也が、そろそろ帰るか? と提案した頃にはボクは立てなくなっていた。半日前に逆戻りしたように寝そべって縮こまって。
けれど不思議と晴れやかな気分だった。広也が肩を貸してくれたのでそのまま寝た。
「お疲れさまでした~」
そう言って次々と部下たちが退社していく。
ボクはそれを見送りながら、報告書作りという最後の仕事をしていた。
絢香を事故で失ってから早いこと一ヶ月。
ボクが任されていたプロジェクトは何回か問題を発生させたものの無事成功。結果としてボクは出世し、他の部下たちも出世コースには乗ることができただろう。
「あの、海太さん……」
「ん?」
全員帰ったと思っていたけれど、まだ残っていた人がいたようだ。
パソコンのディスプレイによってしばしばする目を向けると、幾度と無くフォローしてくれた三つほど歳の離れた部下、良樹がいた。
凄く言いづらそうな顔をしているのが意外で意外で、ボクは頬を緩めつつ、まずはお礼から始めることにした。
「良樹か……今回はたくさん助けて貰っちゃったな。ありがとう、またよろしくね」
「いえ、それが仕事……って理由だけじゃなく、海太さんが見てられない感じだったので」
「そう、かな? ……うん。でも、もう大丈夫」
「──自殺、しないでくださいよ」
急に出てきたその言葉は、ここ二、三週間は考えることのなかった言葉で。今更その物騒な言葉が出てきたことに驚いた。
「……今の海太さんの顔、自殺しちまった友人の顔にそっくりだったので、つい。……お疲れさまでした!」
言いたいことを言えたからか、彼は小走りに出ていってしまった。改めて周りを見回してみても、残されたのは自殺しそうな顔をしているボクだけのようだ。
「自殺、か……」
椅子に深く寄りかかると、嫌がるかのような甲高い音が虚しく響いた。
確かに『仕事していれば余計なことを考えなくて済むから』と仕事に打ち込み必要以上のことをやってしまい、社長にも心配されてしまったのはやりすぎだと思うけれど、自殺する気持ちはどこにも無かった。
そもそも、こんなに持ち直せたのはあの晩に広也の前で泣き明かしたからだろう。
居酒屋で盛大に飲み明かしたあと、起きたら家で。代行運転の明細書を隠しながら
「ポリスメンにはバレてないぜ……?」
なんていう広也に笑った。あえて明細票を見えるように隠す広也は、本当に子供っぽかった。
そのまま彼を見送ることにした。広也は昨日今日と有休を取っていたらしく、明日には仕事があるので早めに帰るのだとか。
「色々とありがとう。受け入れることはまだできないけれど、なんとかやってみる」
「それでこそ兄弟だ。また一緒に飲もうや」
ボクの返事も聞かずに、言うだけ言って帰ってしまった。けれどそれはまた会えると確信しているようで、変に別れの言葉を言わないのも気遣いなのかな? と思ったりして……。
「……さて、遅刻だけど会社にでも行くか」
って感じで、そこから怒濤の仕事生活が始まったんだったっけ。……でも、もう仕事も山場を越えてしまった。これからはどうしようか。
「──まずは、お墓参りかな」
実は一度も行けていなかった。
絢香が死んだのだと見せつけられる気がして、また心が折れてしまいそうだから、避けていたけれど。いい加減に行かないと絢香が拗ねてしまいそうだ。
ボクは手短に荷物を纏める。
提出する報告書も完成させたし、今日はもう帰ろう。部屋をあとにする。
……胸元のロケットペンダントに触れてみる。
お揃いだったはずの片割れは絢香と共に焼かれ、今では世界唯一のペンダントになってしまったけれど、これが絢香との繋がりでもあった。
「絢香……」
口の中で悲しい言葉を転がす。
人生はよく、道で表現される。
人生は人と触れ合う旅路なのだ、と。
きっと今まではボクの歩む道と、絢香の歩む道が、絡み合って一つの道に見えていただけだったんだ。
そして今は分かれ道の先。
それぞれの道に、それぞれの旅路へと戻ってしまった。
ボクは生涯、絢香のことを忘れないだろう。
何度も絢香のことを思い出しては泣くだろう。
けれど前を向いて歩いていこうと思う。
それが生者の権利であり、絢香への恩返しになるはずだから。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
テンプレを言わせて貰うならば。
「感想やお気に入り、ポイント評価等、お待ちしております」
きっと話し出すと長引いてしまうと思うので一週間後に書くボクの活動報告の方もどうぞよろしくお願いします……。
6月14日19時。まーたゃん。