お揃いのネックレス
すっかり暗くなってしまった帰り道。人気の無くなった街灯の照らす住宅街を、寄り添って歩く。
ボクたちの胸元にペンダントが光るのは、早くて明後日の夜になるという話だ。それを少し残念に思う気持ちはあるけれど十二分に仕事の早いのだろう。それに明日の、明後日の楽しみが増えたと思うと悪くはない買い物だった。
心なしか二人とも歩幅が小さく、家に着くのを忌避しているかのようだった。立ち止まることはないけれど、普段のボクらの半分も速度は出ていないだろう。
「……」
「……」
そして無言。
……意外に思うかもしれないが、これはボクたちのデートではいつもどおりだった。
感じるのはお互いの体温と、よっぽど意識してないと気づけないほど些細な感情表現。それを見逃さないようにしながら、今日のデートのことを思い出す。
そして、ひととおり思い出して、相手への想いを再確認すると、絢香はこう口を開く。
「『今日は、本当に楽しかった……』」
ボクたちは本当に変わらないんだな。
これはデートの終わりに毎回言っている恒例のかけ合いで、初デートの時のままの台詞を器用にやり直す。苦笑しつつも、思い出す必要もないほどに重ねた言葉を、紡ぐ。……最初に始めたのはどっちだっただろう?
家はもうすぐそこだ。
「『ボクも楽しかった。……また、デートしてくれる?』」
「『私なんかで良ければ』」
「『絢香がいい。……次はどこへ行きたい?』」
「──どこへでも。どこにでも。貴方と二人なら、きっとどこでも楽しむことができるから……っ」
いつもとは違う、絢香の台詞。
それに驚いたボクは立ち止まり、するりと手を離した絢香が一歩踏み出すのに追いつかない。
絢香は置いてけぼりのボクのほうへ振り替えることもなく、鍵を開ける動作もなく、躊躇無くドアノブを捻った。その突拍子もない行動にも驚くけれど、さらに驚く光景が広がった。
そこはボクの知っている家などではなかった。
一言で形容するならば、魔界。
アメジストのような紫がかった不気味な空に浮かぶのはペリドット色をした雲。ぷかぷかと浮かんだその雲が紅く紅く光輝く、ルビー色の月を隠した。
目線を下へと向けると、地面がある。ロウで固めたようなドロドロの白い固形は、確かに一本の道として奥へと続いていた。絢香はさらに一歩を進み…… ようやく振り返ってくれた。
「……『ありがとね。デート、楽しかったよ』」
その言葉は、いつものデートの最期の言葉で。
どうしようもない別れの言葉で。
彼女の頬には一筋の涙が流れていて。
手を伸ばしても無慈悲に、扉は閉まっていく。彼女をボクから奪い去っていく。
「ま、待って!」
「ごめんね。貴方には、見られたくないの」
「待てったら!? この──ッ!」
閉まりかけたドアへと手を伸ばして隙間に捻じ込む。
押しつぶされる手のひらを視認する。骨が折れたんじゃないかというほどの激痛がはしるが、歯が欠けるほどに食いシバって耐える。
奥で絢香が何をしているのかは分からない。けれど、指にかかる負荷が増した。それは彼女の拒絶の様に感じて…… 尚更引くに引けなくなった!!
さらに反対の手を、指を突っ込み、ドアの隙間を抉じ開ける。成人男性の筋力を舐めるな──ッ!
「……ばか」
「バカはどっちだ」
「なんで。なんで来ちゃうのよ……っ!」
「君を失いたくないから。それだけだよ」
ようやく、絢香は抵抗をやめてくれた。
ボクはその『魔界』へと足を踏み入れて、泣きじゃくる絢香を抱きしめる。泣きそうになるほどに痛む指先で、絢香ご自慢の黒髪を撫でる。
腕の中で泣いている絢香は、可哀想なほどに震えていてその震えを取り除いてやる方法はボクにはわからなくて。
「ついてきてほしくないのに」
「嫌だ。ずっと一緒だ」
「……見られたくないのに」
「今更だろ。……どうしたんだよ」
絢香はそっと、触れるだけのキスをして、ボクの唇を塞いできた。
それは言いたくないという、強い意思表示だった。
何も言われないこの理解不能な状況に、モヤモヤした気持ちだけが残る。でも、彼女の目はどうしようもなく真面目で、溜め息を吐く。
「この奥に行くんだよね?」
「……後悔しないでよ」
「君を失うほうが後悔しそうだ」
ボクたちは手を繋ぐ。指を絡め、手のひらを重ね、腕を組む。それがボクらのいつもどおり。
手を繋いでいるから、どんな困難にでも立ち向かえる。立ち向かう勇気を貰える。
……絢香の震えも、収まっていた。
無限にも思える道を進む。ドロドロに固まった、白いロウの道は意外なことに滑りにくい。滑って底の見えない奈落へと落ちることはなさそうだ。
「……」
「……」
今なにを話しても無駄になる気がして、無言を選んだ。そして絢香が選んだものも同じだった。でも手に伝わる体温はその無言でさえも、ボクがここにいることを肯定してくれているように思えた。
ふいに、ロウの道が途絶えた。
薄黄色な、半透明な。それこそ宝石のような壁に道を塞がれていた。
「……ここで、本当の本当にお別れ」
絢香はボクの手を離すと、正面に回り込んで……抱きしめてきた。
なんで? と聞きたかった。
行くな! と叫びたかった。
「なんで、こんなこと忘れてたんだろう……」
けれど、ソレを見たときに。不思議と全てを理解した。
壁が脈動した。
いや、ボクが壁だと思っていただけだ。
ソレは壁なんかではなかった。
壁に思えるほど大きいだけの生き物だった。
とても、とても大きい球体。大きいとしか頭が知覚することを認めないほどの存在。
惑星を超える大きさにも手のひらに乗る大きさにも高層ビルほどの大きさにも人間とほぼ同じ大きさにも、様々な大きさに思えた。認識不能こそが、頭がソレの存在を認めたくないと叫声を──狂声を上げている証明だった。
ソレの中身が流動する。
様々な中身が表面へ浮かんでは沈み、別の中身が浮かんでは沈む。
……不思議と、みんなが幸せそうな顔をしていた。幸せそうな、 人の顔。
そこには知っている人の顔もあった。知らない人の顔もあった。いつか会った人の顔も、いつか会うはずだった人の顔も。……様々な貌があった。
「最後までついてきてくれて、ありがと」
絢香は一歩後ずさった。
数センチしか無かったソレのと距離が縮まる。
いや、ソレの前では距離なんて関係なかったのかもしれない。
ボクは動けない。
爪先から頭の天辺まで、体の動かし方がわからない。
止める間もなく、絢香はさらに一歩、後ずさった。
とぷん、と絢香はソレに沈んだ。死ぬわけでもないのに、走馬灯のごとく絢香との思い出が蘇る。蘇る。蘇る。
「ばいばい。……『またね』」
記憶の中でも、今も、絢香は、笑っていた。
役目は終わったとばかりに、球体が消えていく。
空間に溶けた様に輪郭が滲む。存在が薄れていく。それと同時に、大切な人が、絢香が、遠ざかっていくのがわかった。
身体が軋む。頭がぼんやりする。目も光に慣れていないようで、瞼を薄く開けるので精一杯だった。
バタン、という扉の音で目を覚ます。
……ふいに、線香の匂いを思い出す。腕と擦れる白い布の感覚。
どうやら、眠ってしまっていたらしい。頬を擦ると泣いていたようで涙の冷たさを感じる。
寝る前と変わらず、ここは霊安室だった。
「……絢香」
絢香もまた、眠っていた。
眠っている、なんてやさしいものじゃなく、もう呼吸をしていないと知っていても、ただ眠っているようにしか思えなかった。……そうとしか、思いたくなかった。
チャリ……と、小さな金属音がして目を向ける。ボクの手元にはお揃いのネックレス。ペリドットの付いたロケットペンダントが握られていた。
はて? ボクはいつこれを買ったんだったか。時計を見てみると……二十四日の金曜日。今週の頭に「日曜日にデートしよう」と約束をしてやる気満タンに仕事を終えた金曜日。帰ってきてウキウキしてるボクに、警察からの電話はまさに天国から地獄へ叩き落とされた気持ちだった。
急いで向かっても事態は終わったあと。
曰く、買い物終わりの絢香は居眠り運転していた自動車と衝突。運転手も割れたフロントガラスが大量に刺さり、間もなく死亡。
結果として、ボクは怒りを向ける先を見失い、轢かれたにしては綺麗な絢香の死体に泣きつくことしかできなかった。……でも、運転手が生きていたらボクは復讐にはしっていただろうから、これでいいのかもしれない。
にしても、二時間ほど寝てたのか。……泣き疲れて寝落ちとか、いつ以来だろう?
「……似合ってるよ、絢香」
薄緑──強いていうならオリーブ色かな?──の宝石が輝くペンダントを、寝たままの絢香につけてあげる。
その拍子に開いたのか、ロケットが開かれる。そこにあるのは無機質な窪みではなく、ボクたちの結婚式の写真が飾られていた。
ペンダントの中で盛装の彼らは、何も知らない無垢な笑顔を浮かべていた……。
ペンダントも、絢香が好きそうなデザインだというのに、ボクが着けてあげたというのに、懐かしい結婚式の写真だというのに。お礼の一つも言ってはくれないなんて……。
そりゃそうか、死んでるんだから。
「あや、かぁ……っ」
泣くな。
……泣くな。そう何度言い聞かせても涙は止まらない。止める方法を、ボクは知らない。
次回で最終回です。
最終回の投稿は21日の22時です。
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