苦難の北伐行軍
蜀の輸送技術として木牛・流馬はよく知られていて、ネット上の色んな所にその概要が説明されている。しかし諸葛亮の死後は作れる人が居なくなって有耶無耶になってしまい、その見た目は主に当時用いられていた農耕効率化のための木製機械が参考にされている。昔の電子劇では明らかに木造の牛が歩いていたりするが、諸葛亮集の記述はあくまで例えだ。
演技には木牛・流馬の安全装置のために、これを模造した司馬懿が手玉に取られるという話があるのだが、勿論正史には模造の話は無いし、そもそも安全装置も無い。
諸葛亮集における木牛・流馬の構造面の記述は掴み所が無くてさっぱりだが、運用面の記述は十分参考になる。
まず木牛・流馬と呼ばれるだけあって、北伐では牛馬ではなく人力で輸送していたことが判る。蜀で牛耕が行われていたのは証明されているが、山岳地帯の輸送に牛や馬は適切ではないから徴発はされなかったのだろう。或いは農耕に必要なことをよく認識していたからだ。そして山道に強いのは驢馬なのだが、どうしてか使われなかった。
数人の手で一年分の糧を運ぶことが出来た。一人が一月に食す量は一石なので、一人分の糧だとすれば十二石つまり穀物360kgを積載することになる。果たして積載するのが一人分と見ていいのか判らないが、重量的には妥当な線だろう。
一日二十里≒8kmほどを踏破したというから、通常の行軍の半分ほどの速さである。他にも小回りが利かないとか、長距離運用はできないとか色々書かれているが、別にこの器具の構造を考察するわけではないのでここまでにする。
通典によれば輜重を運んでいたのは老人と子供たち。そして輜重護衛の指揮していたのが武将たちの子弟である。それは特別なことではなく、何処でも力の弱い者が後方の労働を任されていた。ただ女は従軍せずに夫の出征中も家で織物をしているのが魏や呉では普通だったという。
主要な織物は絹と麻である。インドではすでにありふれていた綿は、まだ中国には無い。
先に曹操が水を入れる袋として絹を使っていると書いたが、金銭代わりにもなる絹をこのように用いるのは通例として見ていいのだろうか。確かに絹の価値というのは、これを染色して錦にすることで金に等しいほどに高騰する。染色技術というのは古代から商品価値を高めるのに役立っていて、西洋でも東洋でも重用されていた。
魏における輜重護衛の陣形は四方からの襲撃を想定して輜重車を方形に包囲する形だったが、蜀の険阻な細道でそれは可能だっただろうか。
蜀において輜重を担う役職は督農で、北伐のときにこの役職に就いていたのは呂乂である。彼は漢中の太守を兼ねて諸葛亮の後方支援に努めたというが、多分李厳の後任だろう。
また別に成都にて諸郡の物資を集める役も有り、これは蒋エンに任された。諸郡の中にはこの徴集を嫌って反乱する者があり、また物資の供出を迫られた異民族も反乱を起こしている。
北伐のとき南蛮の民衆に対して賦(軍事目的の税・物品で支払う)が施行されていた。これは諸葛亮の南征のときに定めたもので、南蛮は金銀から牛馬まで供出させられたという。
華陽国志によれば孟獲など南蛮の有力者たちには名目的に高い官位が与えられている。だから各地域は直接的には南征以前同様酋長に支配されていたが、実質的には蜀に従属することになる。
蜀漢成立前、漢中の戦いでは諸葛亮が兵糧の輸送を請け負っている。しかし彼は成都に留まっていたから、実際のところ輸送を指揮したのは誰だか判らない。楊洪伝によればこのときは散々徴発して男を戦わせ、女に物資の輸送を担わせたという。
さらに遡ると蜀取りの戦いがある。ここで劉備軍が兵糧をどうやって補給したのかも判らない。法正伝には遠方より来た劉備軍の補給が続くはずが無いとあるにもかかわらず、数年かけて蜀は攻め落とされた。これについては諸葛亮の妙案によって蜀の食糧を供給する巴東を抑えることで、劉備軍は長期戦を行うことが出来るようになり、ラク城を一年がかりで攻め落とすことで勝利が決したと推測する。
そんな瑣末な話は置いといて北伐に移ろう。
資料によれば北伐は蜀漢の官僚たちの安定を揺るがす危険なもので、望まれてはいなかった。確かに他所の出身者に比べて蜀の豪族たちは消極的だったのだが、それでも決行された理由については書いてない。
華陽国志を見て判るとおり蜀豪族の要求する領土は漢中までであり、彼らは生命線たる中原への流通路を確保したかったように見える。だから劉璋は漢中の張魯に対しては特に熱心だったし、漢中を曹操に譲ったときに彼は見限られたのだ。蜀が滅亡すれば彼ら豪族は魏晋の傘下に置かれ、地域での勢力を残したとしても官僚としての地位は大きく落とされる。
諸葛亮の北伐は主として農閑期に行われた。専任の兵士のほか徴発された兵士たちは漢中から330km程続く長い渓谷を行軍してキ山に向かう。基点は何処に置くべきか判らないので、南鄭としておこう。
魏の張コウからも十分な兵糧は輸送出来ないと見られていて実際その通りだった。街亭まで60kmの道を先行した馬謖が敗れ、また高祥が敗退して列柳城が陥落すると、退路が脅かされたために撤退を余儀なくされる。
北伐戦の推移は検索すれば幾らでも出てくるので省く。ついつい馬謖叩きをしたくなってしまうから話が逸れてしまうし、地図があった方が多分判りやすい。
冬の戦いは、蜀書には兵糧が尽きて撤退したとあるが、魏書には張コウが陳倉の救援に来たために撤退したとある。撤退中に魏軍に追撃を受けたことから張コウが救援に来た方が正しいように見えるので、兵糧の話は出来ない。戦いは20日ほどで終わり、たかだか1000余りの兵で守られていた陳倉すら落とせなかった。失敗の責任を取る者もいなかったわけだし、このときは大軍勢を率いてはいなかったのかもしれない。
木牛は231年の北伐のときに初めて用いられる。長距離行軍のために予め楊儀の計画によって諸郡から軍糧が用意され、李厳がその輸送を監督した。
動員した蜀の兵士の数は10万人で、魏は30万であるが、郭沖の弁護論の記述だから頼りにならないともいえる。とりあえず正しいとしてその分軍糧が必要なのだが、蜀も魏もそれぞれに問題を抱えていた。
蜀の問題は木牛の欠陥である。
その特性には前述した通り、運用可能距離の短さがある。漢中からの長い道のりには不向きだというのに、日速8kmとすれば往路に約一ヶ月かけて輸送することになる。往復する2ヶ月間に兵士10万を支える兵糧が必要となると、輸送するのは20万石分。必要なのは1万6千台超の木牛である。
最初の一ヶ月でキ山を落とすと、3月には魏から討伐軍が派遣されたため諸葛亮はキ山で守勢を取る。蜀の輸送ルートは王平率いる別軍によって守られており、欠陥を無視したまま長期戦の姿勢が整えられていた。
戦うこと五ヶ月。夏になると、長雨が続いて輸送が滞った。
前年に行われた魏の蜀侵攻では、このときと同じように長雨によって道が寸断されて曹真が撤退したので、危うく蜀は滅亡を免れた。
漢中への道は何処も渓谷で、すぐ傍に河が流れている。大河というより渓流で船の使用には適さない。そして雨が降って川が増水すれば輸送は出来なくなる。
敵の失敗に学べなかったために諸葛亮は撤退することになった上、この戦いが長期戦になったために播種の時期を逃してしまった。
麦は春3月に植えて秋8月に実る。これまでの北伐では上手く時期を避けてきたのだが、キ山での戦いが長引いたために蜀へと帰還したのは6月になってからだった。
最終的には色々と胡散臭い過程を経て李厳が責任を取らされ平民に落とされる。
諸葛亮の北伐に応じて出陣したのは司馬懿と数人の将軍と30万の兵士だったが、隴右には彼らを支える兵糧が無かった。明帝伝には上邽つまり天水の麦を頼りにしたとあるが、この戦いの時期にはまだ収穫できないから信用しない。
収穫前だから穀物が無いというだけでなく、倉慈伝に引く魏略によれば関右の土地は漢末の動乱の後も放置されていて、再開発が進んでいなかった。そして晋書によればこの年の戦いの後になって漸く手を加えることになったのだが、これには顔斐と共に司馬懿も関与した。
それはともかく、郭淮伝によればこの戦いのときには羌族から物資を供出させ、その輸送も担わせた。30万人の兵士を食わせるだけの量にも関わらず、羌族は魏ではなく蜀に対して反乱を起こしたというから強引な徴収ではなかったのだろう。
羌族は半農半牧の民族で、高地に適したチンクー麦を作り、農繁期が過ぎると馬を調教して山羊を育てる。その居住地は漢民族の土地と重なり合って交雑したり対立をした。部族が幾つもあり、漢代には150種類が数えられる。そのうちある部族は魏に降り、また別の部族は蜀に降っていた。部族の区分は所在地から付けられていて、みな同じような言語を話して、同じような冠婚葬祭をする。華陽国志によれば冬には出稼ぎのために蜀入りしたというが、これはテイ族だろう。羌とテイはしばしば混同されたという。
諸葛亮が撤退すると、長安への入植が進められる。それまで何度も行われては失敗していたそれ以降の政策が功を奏したのか、晋書地理志にある戸籍数を見るとこの辺だけは戸数が確保されているように見える。
1年間の休養を経て、233年には北伐の準備が始められる。蜀における物資供出の際には馬忠が南蛮反乱を鎮圧し、漢中では李厳に代わって呂乂が補給輸送担当となる。また謎の新作流馬を導入したが、その用法と特性は書かれていない。
さらに南鄭から少し北東に行った斜谷口には軍需物資倉庫を築いた。漢代の資料にある倉庫は、瓦屋根に漆喰の使われた立派なものである。漢中の黄沙を開墾して得られた脱穀済みの穀物が牛車によって運ばれてくると、升で計量した後に麻の袋に詰められてから仕舞われた。
234年に諸葛亮は北伐を開始する。斜谷口から200km山道を歩けば五丈原に辿り着くのだが、諸葛亮はそれより東にある郿を目指した。然る後に東に移って陣営を築く。ここが五丈原である。
諸葛亮の軍勢は10万余りで、出陣の季節は春の2月。これまでと大差ない。必要な物資も同程度。今までの北伐の中では距離も短いし、たまたま天候不順の災厄を蒙ることも無く順調に事は進んだ。
しかしまだ万全でないと考えたのか、諸葛亮は屯田を開始する。農耕の時期から考えて、陣に到着してすぐに取り掛かっている筈だから、長期に渡る対陣のために流馬では不足になったというわけではないだろう。
武経総要巻六には幾つか陣地の構築法が記されている。基本的には空堀と木柵で囲って、布のテントや木造の建物を営所とする。各々の営所の門の前に近衛兵が置かれていて、出入りは監視された。陣営内では巡回が欠かさず行われ、傷病兵の看護や違反者への処罰もここで行われる。また夜間には大きな篝火が焚かれて、陣営の外の要道へと騎兵の斥候が派遣された。
流馬によって運ばれる輜重はこの陣営に集積されたのだろう。屯田については収穫期が来る前に撤退してしまったので成果は判らない。
諸葛亮が死ぬと、輸送機械の技術は失われてしまった。それは多分姜維に問題がある。曹芳伝によれば253年の北伐で彼は魏の麦を頼りにしていたというし、王基伝によれば256年の北伐では輜重を置いて先行したために大敗北を喫している。
262年には姜維も沓中で屯田を始めたとあるが、曹奐伝によるとその時期は冬になるし、明くる263年の夏にはトウガイに攻め込まれて放棄することになるから無視する。
以上から彼が補給を軽視していたのは明らかである。
最後に輜重によって輸送したものについて書いてみよう。まず穀物が一番に有る。武経総要によれば一人1升が一日分だが、この頃とは升の大きさが異なる。晋書元帝伝によれば死期の近い諸葛亮が食したのは3-4升だったとあるし、魏書管寧伝には5升では一日の食事量に不足するとある。
次に武具類。張繍伝に、輜重が重いので兵士を武装させたいと曹操に許可を求めたという話がある。馬の武装は未だ無い。既に西アジアでは重装騎兵が現れだしていて、晋代の異民族進出の後に中国でも一般化した。
今一つは絹織物。これは調税として支払われたものだから、通貨代わりだった。貨幣導入の記録は呉と蜀で見られるが最終的にはインフレを起こして破綻したようで、晋以降唐代になるまでは何処も絹を通貨代わりに使う。
そして馬。さらに牛馬の輜重である。武経総要によれば牛馬には一日五十人分の、驢馬には三十人分の飼料が必要だという。その飼料は豆や粟、飼い葉らしいがよく判らない。
馬は羌やテイ族の育てたものが買い入れられるほか、中央アジア産の大型馬も輸入された。鐙は発明されたかどうか微妙な所だから、騎乗には十分な訓練が必要だった。また牛の方は田地で利用されているのが徴発されたから馬よりもずっと安上がりだった。