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輸送する水軍

 後漢の時代、マストが中国に出現した。西アジアではずっと昔から存在していて、地中海やアラビア海の交通に用いられた。発明したのではなく伝来したように見えるが、経路は判らない。

 三国志に引く魏略にはパルティアがローマとの仲介交易を受け持っていたとある。その領内からローマ帝国に到着するのに風の影響を受けるとあるから帆船があるのが判るし、史跡にも帆船の図画が残っている。アラビア半島南にはモンスーンと呼ばれる季節風が吹いていた。これは冬には東から西へ、夏には西から東に向けて吹く。

 ちくま訳には安谷城をシリアのアンティオキアとし、そこより出航したとあるが、アンティオキアはローマ領なのでこれは多分間違えている。ペルシア湾沿いの何処かだろう。

 wikiを見るとチグリス・ユーフラテス河口の都市Charax Spasinuは、セレウキアのアンティオキアと呼ばれていたことが有ったらしいので、ここに違いない。元はセレウコス朝シリアの領域で、後にパルティアに属した。トラヤヌスによるローマ最大版図に含まれていたが、ハドリアヌスによる領土返還によって再びパルティアの領内に組み込まれたという。


 或いは南海の交易ルートから伝わったのかもしれない。

 166年にローマ皇帝の使者が来たという話の残るルートだが、それ以前から取引が行われていたようだ。これを派遣したローマ皇帝の名が未定なのは、移動の間に代替わりしたというのが理由なのだろう。風向きが最悪の場合はパルティアからローマ(恐らく中東かエジプトの属州)への渡航ですら二年掛かったという。

 161年、マルクス・アウレリウスが即位してすぐのときにパルティアとの戦いが起こったので、彼が使者を送る理由があるように映る反面、渡航ルートが失われているようにも見える。戦乱の収束は166年だから、このときに漢へ使者を送っては間に合わない。とりあえず判断はしない。

 こちらの道も季節風に影響を受けるのだが、マレー半島からベンガル湾にかけてが逆風になる。エリトゥラー海案内記によればベンガル湾より先は厳しい航海になるとあるが、これはサイクロンの主要な通り道だからだろう。

 漢書地理志には南海ルートの行程日数が書かれている。何の国が何処にあるのかさっぱりだが、ベンガル湾北端にさえ辿り着ければローマへの交易路が伸びているし、蜀からインドへの交易路とも合流することが出来る。またそこまで行かなくとも当時のカンボジアはギリシア人が築いた国だという伝承もあるし、インドからの商船が少なくともインドシナ南端までは来ていた。

 交易品には珍奇な物品ばかりが挙げられるから、それが相手に持って来させる朝貢の形式を取っていたことが判る。仏教の伝来も前漢の末期で、釈老志によれば大月氏の使者がメジャーな方のシルクロードからやってきて初めて伝えたと言うから、南海での文化的な交遊は無い。

 交趾に来る船舶は異民族のもので、漢民族が外洋に出るのにはもう少し時間が掛かる。漢代には海南島に遠征するので精一杯だった。

 日本の稲作は江南から伝わったというが、そもそも百越は異民族だし問題ないか。


 では中国における帆の運用はというと、大型の船に限られる。大型であればあるほど多くの帆を用いるのに対して、速力を必要とする小型船には見えない。その点から当時の帆は補助動力としてみることが出来るし、それ故に帆の技術レベルはそれほど高くない。

 そのうちマストは何本も立てられるようになる。全ての帆が風を受けるよう斜めに並べて設置されていたという。関羽の話で書いたように主動力は櫂だが、順風ならば櫂より優位性があった。

 他には例えば、磁石は発見されていて指南車と呼ばれる方角指示器は漢代にはもう存在したのだが、これが船に積まれるのは宋代の頃で、あとは竜骨が無くて小回りが利く故に舵は早くに発明された。

太陽の昇り方は偉度によって異なるし北極星の位置は夜にしか見えないから、外洋に出るなら方位を知らなくてはならない。竜骨の無い船の波に対する弱さは関羽の話のときに書いた通りであるが、対照的に舵は水路での移動で重宝する。

 だから外洋進出よりも河川を使った国内流通を優先したところが当時の発明傾向に影響していたように見える。


 長江における船での交易は、三国時代の水軍の形成にかかわる。河北でも例えば官渡の戦いの後に、李典と程イクが軍糧の輸送に船を利用したとあるが、水軍の結成にまでは至らない。魏の水軍訓練は赤壁の後に人造湖を築いて行うことになる。その理由もあってか、孫権との戦いのときには長江に繋がる支流を持つ巣湖周辺を戦場にすることが多かった。

 荊州水軍は、南方経済の中心地である漢代の南陽つまり宛における通商を基にしていた。その重要性は漢再興の立役者たちの出身地であることからも影響があったようだ。

 この地に鉄は産しないのだが鉄官は置かれ、鉄鋼業の要地となった。後漢の時代になると荊州の開墾が進んだというから、鉄製農具の生産が影響したかもしれない。

 その南陽と荊州牧が置かれた襄陽を結ぶのは漢水支流の白水であり、漢水は長江へと流れる。


 荊州牧の劉表は大規模な水軍を組織した。自らが前線に行くことは殆どなかったが、張繍と黄祖が彼の手足となって戦った。

 張繍の拠点は宛、そして黄祖の拠点は夏口。どちらも漢水を利用した補給が可能である。劉表が船団を輜重隊として派遣したことは想像に難くない。

 張繍が劉表の補給を支えにして勝利を得ていたのに対して、黄祖は孫策や孫権相手に敗北を繰り返した。これには張繍と同郷で行動を共にしていた賈クの存在も大きいのだろうが、しかし黄祖の場合は水上戦が主だったから補給が生かせなかったというのもあるだろう。

 水上での戦いのとき、補給は陸地にある陣営に置かれる。

 黄祖の場合は夏口城で、夏口から少し内に入った辺りにあった。夏口城への漢水を利用した補給ルートは、長江下流から遡上してきた孫権の水軍に妨害されることになる。これを避けるには途中で陸路に切り替える必要があるのだが、そのためには輜重車や牛馬を船に乗せなくてはならない。

 似たような事例が陸抗伝にある。陸抗が防衛のために堤防を築いて江陵に洪水を起こさせたとき、魏の羊コがこの洪水を利用して物資の水上輸送をしようとしたが、これを察した陸抗が堤防を切って妨害したため、羊コは補給を陸路に切り替えさせられてしまい労力を費やしたという。

 水上輸送の妨害として他の例は李典伝にあり、袁尚は歩兵を川岸に駐屯させることで補給を遮断した。


 船の積載能力として史記淮南王列伝には車数十両分とある。

 しかし先ず車の積載量がわからないので、とりあえず輜重車について書いていく。

 周代の話だが牛車の大きさは横六尺縦八尺だったという。これは別の資料の図版における漢代の牛車のサイズと大きく違うようには見えないが、牽引用の装具は漢代に改良されたから輸送効率は異なっていただろう。

 車の技術向上は三国時代にもあり、資料によればこの頃に曳き革を取り付ける横木が発明されて牛に付けられる。この技術によって坂道でも車を用いることが出来るようになった。

 資料の図版、多分沂南画像石墓のものをみると袋を用いていないで、穀物は荷車の中へ直に入っている。穀物は食べる直前になって脱穀し、蒸して食べたという。

 袋はかつて嚢とか包と書いていて、袋の方は隋代の魚袋という札を初めとする。この札を入れたから袋が袋たる役割になったのだろうがどうでもいい。面倒なので拘らずに袋と書く。

 軍事用の袋について、魏書の曹操伝で潼関の戦いにて砂城を築くために絹袋を用いて水を運んでいるし、趙雲伝では軍用の米を袋に詰めて輸送をしている。米と書かれているのは稲から取れる米の可能性もあるが、かつては脱穀された禾を示していたという。

 また晋代には車輪に鉄の輪が巻かれるようになった。主として悪路対策のための技術発展が進んでいったようだが、三国時代は後の時代の積載量よりも相当に下回っていたように思う。


 船の技術も同様に向上していたのだろう。海洋への進出はこの時代に始まっていた。例えば魏は邪馬台国へ官吏を送ったし、呉は台湾へ人狩りをしにいっている。しかし遠洋航海の方は書かないで置こう。これを書こうとすれば邪馬台国の場所を推測する羽目になってしまう。


 海洋での輸送としては、230年代に遼西で独立した公孫淵の所へと派遣された呉の輸送船団がある。輸送を受け持ったのは周賀であり、彼のことはまあ検索すれば出てくるだろうから書かない。

 この航路は中国沿岸に沿って北上していくルートだ。公孫淵伝には難なく往来できる通路だとある。水軍を持たない公孫淵の方から使者を送ることも出来た。

 しかし呉の輸送船団はそれとは比較にならない。総勢百隻の船団が海の向こうの遼東へと派遣されたのだ。兵士1万を乗せていたのだから、一隻の乗員は水夫を含まず100名超となる。

 魏としては船団に対して直接攻撃することは出来ず、ただ上陸するのを待つしかなかった。


 公孫淵は鮮卑を味方にしたというが、当時の鮮卑は田豫に叩きのめされてから分裂が進んでいて衰退しつつあった。そして対照的に権力の集中が進み始めていて強い勢力を持ちつつあった高句麗とは敵対関係にある。

 彼ははるばる海を渡ってきた孫謙の使者から土産を受け取ると、使者を殺すことで魏から官位を授かった。実利的な判断としてみることも出来るし、目先のことしか見ていないともいえる。

 明帝伝によれば公孫淵の離反は高句麗討伐に際してのことで、毋丘倹が軍勢を率いてきたことを恐れたのだから、彼が短慮であるのは確かなようだ。


 公孫淵に裏切られた孫権の方は、めげずに再び外洋へ向けて使者を派遣する。今度のものは公孫淵のときと違って兵士は殆ど連れず、孫権伝に引く呉書によれば船には謝宏ら少数の使者たちのほかに馬80頭を乗せることが出来たという。小型だったから乗せることが出来なかったというより、船が少数だったから馬100頭は乗せきれなかったと見る。

 高句麗への同盟工作が失敗してから、孫権は外洋進出自体を止めてしまった。ただし呉の遺民の一部が日本に渡ったのだから技術自体は向上傾向にあったのだろう。


 明帝伝によれば公孫淵の反乱の最中、魏は海洋向けの船の製造を始めた。どのようなものかはまるで見当もつかないが、魏はこれを利用して高句麗を回避しつつ衛氏朝鮮へと攻め込んだという。

 それなりの船団は率いられた筈で、以降の交通もこういった船が用いられた。倭国に来たのはこの類の船だったということも出来るし、そうでないかもしれない。


 ところで蜀にも多くの川があるのだが、孫晧伝によれば小型の船しかなかったとある。川底が浅いため大型の船が入れなかったのだ。だから諸葛亮が入蜀したときも南征を行ったときも小型の船が用いられたと考える。特に南征では陸路を行くと歩いては渡河出来ない川とか板が無く竹綱を張っただけの橋?だとか人一人が何とか歩けるほどの断崖絶壁だとかが当たり前のようにあるから行軍には適さない。

 北伐のときは用いられなかった。これは単純な話で、漢中から涼州へ向かう水路が無いのだ。

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