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上.官渡の戦い

 196年、屯田制は軍事利用のため、棗祇と韓浩の提言で導入された。土地の無い流民を募集して行われ、元の黄巾賊が屯田の農耕に携わった。

 彼ら黄巾賊は元々は土地を求めた小作人たちで、大土地所有の豪族支配下に置かれて漢帝国の役人と豪族たちから二重に搾取を受けていた。黄巾の乱の原因も、地方を実質的に支配する豪族たちが執り行う田地借用代の苛烈さがその理由の一つだ。そんな彼らを呼び込むために屯田では豪族の搾取から免れることを認めていた。

 彼らのうち精強な者が青州兵として曹操の私兵に取り立てられたというが、史実では掠奪をしたり呂布の軍勢に粉砕されたりと良い所が全くない。

 結局、青州兵たちは220年に曹操が死ぬと勝手に何処かへいなくなってしまった。

さしあたって彼らは重要ではない。


 屯田が導入されたのはここ最近の不作による兵糧の枯渇が原因だった。後漢書献帝伝には194年・195年と旱が続いたことが書かれている。またその結果起きた飢餓のため、三国志には人肉ネタが結構有る。そして旱は他にも霊帝末年の183年・184年に記載があり、黄巾反乱の最も重要な動因になったことが伺える。

 屯田による農地再生は196年の豊作によって幸先のよいスタートを切った。

 しかし行き場をなくした小作人を引きとめて反乱を防いだ上、それをそのまま兵糧と兵力に換えるなどという美味い話がそうそうあるわけではない。前述のとおり兵力としては信頼が置けなかったし、文帝伝によれば枯れた土地を宛がわれて飢える者もいた。

 何より屯田は住み慣れたところを離れて行わせられるソフホーズである。収穫を屯田民で共有し、そこから物品税が支払われた。それを嫌って農民が一斉に逃げ出したという話もあった。


 屯田には農耕の指導が必要だった。

 小作人に鉄製農具が買えるわけもないし牛などもってのほかだから、国家が提供しなくてはならない。種籾をばら撒くしか能のない連中だから苗代の作付けも教えなくてはならない。

 灌漑は重要な設備で、当時は陂と呼ばれた。川を堰き止めて池を作り、そこから田地に水を注ぎ込む。これは水を入れることで雑草を絶やす方策である。あるときは夏侯惇が知識面では耕作法を教え、そして労働面でも将兵や民と共に灌漑に携わった。耕作法の知識は農書によって得られる。夏侯惇はインテリだから問題ないだろう。

 さらに税制が戸毎だから家族を作らせる必要があり、掠奪してきた娘を宛がったという。

 農民を管理するために典農中郎将と典農校尉、そして各屯田ごとに田官が設置され、最前線のほかに都市周縁における田地の復興に活用された。

 最初に典農中郎将となったのは任峻で、魏書に伝が残されている。彼が官渡の戦いで補給を担当し、後方から曹操を支えた。


 曹操が官渡に布陣したのは199年。それまで4年のうちに百万石が蓄積されたという。徴税は牛が国から提供される場合六公四民、そうでないとき五公五民だったから、少なくとも年間50万石が屯田で生産された。勿論、他の軍事作戦で浪費したこともあっただろう。例えば呂布との戦いや張繍の離反あたりが挙げられる。しかし幾ら割り増ししても仕方ないので置いておく。

 屯田の有る許から官渡の陣営まで直線距離で80km。河川が無いため莫大な量の兵糧は車によって運ばれた。このため実際には車を利用できる道路の有る道を使ったはずだから、輸送車は街道を通る必要があり、距離はもう少し長くなる。

 当時の輸送車というのは、任峻伝に引く魏武故事によれば牛車である。漢代の図を見ると一頭立ての馬車や牛車だが、形状はリヤカーに近いものや幌の付けられたものが有った。幌付きは元々女性が乗るものだったようだが、輸送における両者の区分は判らない。チャリオットと同じく二輪車で、牛馬を先導牽引したり後ろから輜重車を押すための人的資源も必要とした。

 武経総要によれば行軍中は10里で休憩、30里で食事、60里即ち1舍で一宿したという。一里415mというから一日で約25km。遅々としているように見えるが、これは中世ヨーロッパにおける旅と殆ど等しいので信用できる。輸送も同様で、適正な日数を掛けることで陣形を乱さずに済む。

 輸送隊には50人単位で隊長が配置され、輸送隊の護衛部隊が彼らの周囲を取り囲んでいた。


 曹操袁紹両者の戦いは当初、小競り合いから始まる。単純化すると、黄河沿いの白馬や延津辺りの緒戦で勝利しつつも北東部からゆるゆると後退していく曹操軍の様子が有る。

 特に曹操は白馬の住民を移住をさせているので、領地の放棄と見ていい。白馬から出した輜重も城に有る物資を全て積んだものだろう。

軍を支える輜重でないため重要さの割合が低いから荀攸はこれをオトリにする策を提示したのだ。

 于禁伝には袁紹の別陣営を幾つも降したとあるが、夷陵で陸遜がやったような決定的打撃は与えられなかったように見える。袁紹の長大な陣営群に加えて緩やかな進軍が功を奏したのだろうか。兵糧などは特定の陣営に置かれていたわけだから、数の割りに実際の戦果は著しく低かったのか。或いはまだ袁紹が官渡に来る前で、曹操の白馬放棄に合わせて黄河を渡河しようという素振りに見せかける陽動を于禁が行っていただけなのかもしれない。


 200年8月になると両軍は官渡で対峙する。そこで激しい戦いがあったのだが、ここでは省く。

 この頃、曹操は兵糧の不足を荀イクに訴えていた。任峻の保有する百万石が既に尽きたとでも言うのか。そこには袁紹による補給路への襲撃がある。


 まず袁紹は傘下に居る劉備を派遣して許周辺の襲撃をさせた。許周辺には屯田が有る。

 このとき汝南黄巾の劉辟、陰強の祝臂、東海の昌キが反乱を起こしていたが、劉辟と祝臂の反乱は袁紹の扇動したものだろう。汝南は袁家の故地だし、袁紹が豫州各地に書簡を送ったとある。

 昌キのは意図が判らないが、かなり抵抗が長期に渡ったようなので個人的な反逆というより東海郡県の反乱と見たい。曹操が徐州でアレをやったからだといえば簡単だが、結論は出さない。


 もうひとつには袁紹の将軍韓荀による西方の道路遮断があった。

 官渡の西方には故市、ケイ陽、そしてその先に長安がある。長安には司隷校尉の鍾ヨウ、そして彼の説得を受けてる最中の馬騰と韓遂が居た。鍾ヨウが支援のために送った馬2000匹は馬騰らの貢物だろうか。

 また地図を見ると許から長葛、新鄭を通り、故市から東進して官渡に行くルートがあるのが判る。任峻がこのルートを辿って輜重を運んだと見てもいい。

 補給路の回復のため曹仁、徐晃、史渙が派遣され、故市にて袁紹の輜重数千台を焼いた。袁紹の保有する輜重車は一万余りだから、文字通り受け止めるとかなりの損害に見える。

 そして任峻は今後の補給の安定化のために、任峻は輸送方法を転換した。任峻伝によれば、車千台を一隊として十列になって並んで進み、二重の陣構えで周囲を取り囲んで護衛したという。

 こうした徹底のために袁紹は輜重隊を攻撃することは無くなった。或いは、後述する事情のためにその必要が無くなっていた。


 対する袁紹軍の補給はその広大な領地からの徴税で成り立っていた。徴収から逃れるために山野に逃亡したため、戸籍に乗っていない人間が多数いたという話もある。

 輸送を担うのは淳于瓊。率いる輜重は元有った一万余りから相当減っている。

 このとき袁紹が淳于瓊ら五人の将軍に与えたのは1万の兵だった。しかし牛車一台一台を一人で運んだわけではないだろう。通典によれば、唐代には五人で一台を運ぶものがあったという。

 各地から集められて貯蔵される場所は官渡30里北の烏巣。つまり12km、行軍半日の距離。袁紹が多く連ねた陣営の一つで、恐らく官渡から最も近い陣営だろう。

 しかし袁紹の陣営は無数にあるようだから、兵糧の貯蔵がどこにあるのか曹操には判らない。


 10月。河北で収穫された粟が袁紹の補給拠点烏巣に運ばれた。

 対する曹操軍の兵糧は尽きかけていたという。それには劉備らが屯田を荒らした所為という話もあるし、曹操軍が官渡で包囲されていて補給が届かなかったという話も有る。

 袁紹による曹操包囲の話は荀イク伝と賈ク伝に有る。他の伝には両者が官渡で対峙していたと書かれているから、どちらとも取れる。包囲されていても居なくとも対峙していることには変わりない。

 そんな状況下で妻子が法を破ったために逮捕され、投げやりになった許攸が曹操陣営に投降してきて、

袁紹の補給拠点を攻めるよう提案した。


 曹操が夜間にこっそりと袁紹の補給拠点へ向けて進発したというから、個人的にはどうにも包囲されていたように見える。

 補給拠点は本営から相当近い。通常の行軍で半日だとして、馬で急行すればほんの一、二時間程度。包囲されていなくとも救援の駆けつけるのが早ければ簡単に失敗するから、目立たずに向かうのは道理だ。

 曹操の率いる手勢は歩兵と騎兵の混成で、その数は5000。曹操伝通りならば残存戦力の大半がこれに割かれた。


 曹操は夜明け頃に烏巣へと辿りついた。

 緊急を要することだから袁紹は馬か狼煙で連絡を受け取ったときに軽装の騎馬隊を派遣したが、主力は曹操陣営を攻撃させた。烏巣での火災は官渡からでも見ることが出来ただろう。燃え出してから気付いたのかもしれないが、どちらにしてももう遅い。

 それで一、二時間のタイムラグのために輜重は陣営ごと焼かれ、その後の戦いは全部無駄になった。

 袁紹が黄河を渡って撤退した後は、袁紹の子供二人との戦いになるが、そこからは物資輸送手段として船が用いられるようになる。

 しかし船と水運の話はまた今度。


 ここからは余談になるが、屯田は他の二国にもある。

 呉書呉主伝などには屯田が行われたと書かれている。

 華北の乾田と江南の水田では方式が異なる。稲作と粟作という違いも有るが、この頃の江南の水稲栽培技術はかなり低かったという。鉄器や牛はあっても苗さえ作らず、肝心の播種法が種籾を撒き散らすといったものである。また収穫期は華北とほぼ変わらず、8月頃だった。

 蜀地方の耕作はまた違う。江南より進んだ技術を持っていた可能性が出ているらしい。また諸葛亮が晩年に屯田を行っていたのだが、兵士を分けて農耕させたとあるから漢代の屯田の形式のように思う。


 264年、魏の屯田の小作人は民衆に戻った。彼らは定住し、自作農もしくは小作人となった。

 晋の新たな田制の下では、小作人の相当数が豪族の傘下で脱税することが出来たため、晋代の人口統計は後漢代より遥かに下回っていた。

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