壱
[1]
「私たち、不老不死に成りたいんです。仙人さまみたいに…。」
襖を取っ払った広い和室の中央。少女は畳みへ手を付いて、目の前の女性に希った。
少女の身体の重みに、そして、気持ちの重みに耐えかねたのだろう。彼女の手元では、ミシミシッと軋みを上げ、畳が沈み込んでいく。その有り様を見つめ…『仙人さま』と呼ばわれた女性が、短い吐息を漏らす。
「貴女…梅芳さんと言いましたね。つまり梅芳さんたちは、不老長寿の秘術を求め、わざわざ大陸から…。」
仙人さまより問い掛けられた梅芳は、意気込んで頷く。
「はい。」
その燃え上がる火の玉の様な情熱を受けて…流石に、少なからずうんざりした様子で…仙人さまはまた、短く息を吐いた。
開け放たれた縁側から、麗らかな春の日差しが薄絹を伸ばす。耳を楽しませるのは、鶯の囀り、そして…パンッ、パンッと、庭先の物干しで布団を叩く、小気味の良い音。
こんなにも穏やかで、こんなにものんびりとした日和に、何故…。仙人さまがそう思うのも、無理からぬ事かも知れない。しかしながら…全部をうっちゃっておいて、この場でバタンッキュー…そう言う訳にもいかないのだ。
仙人さまのお召しに成っている水色のワンピース。何となく、『仙人』と言われる人物が纏うには、ラフ過ぎる気もするが…。とにかく、ワンピースのスカートまで伸びた陽光を拒む様に、仙人さまは正座した足を正した。
「アナタも、そうなんですか。」
問い掛けられた梅芳の隣に座る男は…アナタは、正座した両脚の膝を固く掴み、そして首を縦に振る。
「はい。」
アナタと梅芳…。横に並んだ二人の答えは同じでも、その熱量には彼我の距離が感じられる。
まるで、対岸の火事。正面に居並ぶ二人の様子が、仙人さまにはそんな風に映った様だ。
「あっ、あの…。」
ぼんやりと自分たちを眺める顔付きに、芳しくないものを覚えたか。堪らず、梅芳が口を開いた。
「私、向こうで仙人さまのお噂を聞いたんです。不老不死の…。死ぬ事のない、不滅の身体を手に入れた仙人さまが、海を渡った島国に居る…いらっしゃるって…。それに、その方は元々、私たちと同じ大陸の生まれで…なら、もしかしたら私たちにもって…私、そう思ったんです。」
ひしひしと伝わって来るのは必死さばかり。話の内容に関しては、何とも要領を得ない。
いいや、本当に要領を得ないのは、彼女の言動ではなかろう。対称的とも言える二人は、一体、どのような関係にあるのか…むしろ、そちらの方が随分と要領を得ていない。
その為に仙人さまも、この珍客をどう取り成して良いものか、説得する上でどちらから切り崩せば良いのか、決めかねているのだ。
十数秒ほど思索に耽っていた様だが、まだ、梅芳の話は続いているらしい。そこで仙人様も思い直して、一先ず、自分の言葉に耳を傾けさせる事にした様だ。
「長い船旅の後の、更に長い、長い、歩き旅に成りました。だけど、私は少しも辛いとは思いませんでした。だって、仙人さまにお会いすれば不老不死に成れる。もう、いつ死んでしまうのかと、怯えなくても良いんですから…。それに、隣の…この人が一緒に居てくれたので、やっぱり、少しの不安だって感じませんでしたよ。」
「それは、さぞ心強かった事でしょう。生国を遥かに離れたこの土地で、隠居同然の暮らしをしている私には羨ましい話です。」
と、谷川の清水の如く凛とした声音が、梅芳の苦労話を遮る。それに対して、梅芳は…、
「は、はぁ…。」
生返事をしたところ見ると、まだまだ、喋り足りなかった様だな。しかしながら、穏やかで、柔らかい仙人さまの声が、有無を言わさず会話の主導権を奪取した。
「それにしても、私を訪ねて来て下さったとは、本当に嬉しい事です。それも、同郷のお客様とあれば尚更に…。お二人とも長旅でお疲れでしょう。こんなあばら家で良ければ、どうぞ、骨を休めていって下さい。」
そう言って、ニッコリと微笑む、仙人さま。そんな彼女の心遣いに対して、梅芳は…当然、食って掛かる。
「仙人さまっ。私たちは、のんびり骨休めしに来た訳じゃありません。私たちは不老不死に成りに…。」
大声を上げた梅芳の舌鋒を、仙人さまはやんわりと、軽く手を上げて制した。
梅芳もそれで、自分の醜態に思い至ったのであろう。身体を引っ込めて、居住まいを直すと、
「すいません、失礼な事を言ってしまって…。」
言葉だけは殊勝。だがその口振りは、『申し訳ない』と言うより、『歯痒い』と言った様子に見えた。…やれやれ。
恰も、彼女の若さを微笑ましく思ったかの様に…恰も、彼女の若さを羨ましく感じたかの様に…仙人さまは、ちょっと冷やかす様な苦笑を漏らす。
「いいえ、気にしないで下さい。はぐらかす様な言葉を弄した、私もいけなかったんですから…。そうそう、それはそれとして…その、『仙人さま』と言うのは勘弁してもらえませんか。私は馬齢を重ねているだけの、崇高な境地に達する事の出来ずに居る者。仙人と呼ばれるまでには、とてもとても…。ですから、私の事は名前で、霍青娥と呼んで下さい。私も、貴女の事は梅芳さんと呼ばせてもらいます。」
「はい。えっと、それじゃあ、青娥さま…。」
「はい、梅芳さん。」
名前を呼び合う事が目的ではない。そう梅芳の苦り切った顔に書いてある。隣で事の成り行きを見守っていたアナタも、二人に聞こえぬ様に溜息を吐き出した。
青娥の呑気さが、梅芳にはもどかしくて、もどかしくて…。遂に、梅芳が核心に触れる質問を投げかける。
「青娥さま…。青娥さまは、私たちに…不老不死になる為の方法を、教えて下さらないんですか。」
項垂れた拍子に、白い紙紐で束ねられた梅芳の黒髪が、肩から滑り落ちた。…ここへ辿り着くまでは、彼女にとって苦難の道程だったに違いない。海風に傷んだ長い髪。山道に日焼けした浅黒い肌。それら全てが、彼女を苛んだ労苦の大きさを、ありありと示している…。
今度ばかりは、腑に落ちない気持ちを吐息に変えられなかった様だ。
「どうして…。」
青娥は小さく唸ると、梅芳たちに問い掛けた。
それに対して梅芳は、待っていましたとばかりに、
「はいっ。私たち、不老不死に成って、ずっと一緒に居たいんです。今日までの、何倍も、何十倍も、何百倍も…。その為にはどうしても、死に負けない身体が…。」
更に言葉を続けようとした梅芳を、青娥は首を横に振り、制した。
「そう言う事ではありません。私の訊きたかったのは、術を学ぶのに私を選んだ、その理由です。」
「…ですから、それは、青娥さまのご高名を…。」
「私でなくても、不老長寿の術を実践している方は居られる。それこそ、大陸ならば幾人も…。その方々を避け、あえてこの島国へ渡った。何故でしょう。」
「それは…。」
答えに窮した梅芳は、項垂れ、黙り込んでしまう。その様子を見つめながら、青娥は小さな溜息を噛み締める。…その溜息は、梅芳へ向けられたものではなかった。
(詮無いことを…。思っても、私には叶わないと言うのに…。)
梅芳を見つめる自分の瞳に差した、険の様な、邪念の様な、陰り。それに気付かぬ、彼女ではない。
瞬き、一度、二度。青娥は邪な感情を拭うと、また、穏やかな視線を正面へ向ける。
(あら…やはり、そうなのね。)
曇りの取れた瞳に、ふと移り込んだアナタの眼差し。その自分の瞳と同じ穏やかさから、青娥はアナタの真意を悟ったと見える。微笑みを浮かべ、小さく頷くと、二人に向け青娥が話をしかけて…しかし…。
梅芳の口元から垂れ落ちた赤い滴。畳に染み込むその赤が、青娥の声を掻き消した。
「梅芳っ。」
頭から倒れそうになる彼女を、身体ごと抱き抱え、アナタが支える。その腕の中で梅芳は、口を手で押さえ、何度も、何度も、咳き込み続けた。
「芳香、奥の間にお布団を…。」
アナタが顔を見上げるより一瞬早く、立ち上がった青娥は庭先へ声を放つ。すると、干された布団を叩く音が止み、その後ろからヒョコヒョコと人影が現れる。
強い日差しの下より抜けだした人影は…少女は、膝をほとんど動かさず、腕を前方に突き出し、馬鹿にぎこちない歩み方をしていた。…いや、少女の妙な点を上げるなら、むしろ…浅く被ったハンチング帽の下に覗く、額に張られたお札であろう…。
おっと、こんな事を、のんびりと眺めている場合ではなかった。
芳香と呼ばれた少女も、不格好な歩みを急がせ縁側の方へ。しかし、布団を取り込み忘れていたのに気付いて、慌ててUターン。まっ、とにかく、右往左往しながら、頑張っている。
青娥は畳に膝を突き、服が、そして、腕が垂れ落ちた血に塗れるのも構わず、梅芳の胸へ手を宛がう。アナタは、梅芳を背中から抱き抱えながら、彼女の成すに任せる様子。そこには、ある種の信頼すら感じられた。
掌から何かを読み取ろうとする様に、瞼を落とし自分の呼吸を止める。苦しむ梅芳の息に呼応して、青娥はその病み患っている部分を探ろうと言うのだ。
程なくして、固く結ばれた彼女の唇の奥から、小さな音が漏れた。
「これは…。いえ、とにかく今は、梅芳さんから悪いものを追い出してしまいましょう。」
と、そう言って、梅芳の胸へ押し付ける手を強くする、青娥。
アナタはその様子に、慌てて口出しする。
「ま、待って下さい。ここで『浄血』しては、お宅を汚してしまう。せめて、梅芳をお庭に移してから…。」
ギロリッと、開いた青娥の睨み目。その有無を言わさぬ迫力が、アナタに言葉を引っ込めさせた。
「そんな事は気にしないで良いんです。アナタはただ、しっかり、彼女を支えて上げなさい。」
断固として叱り付け、冷静に申し付ける。こんな緊急事態では、それこそが寛容の精神と成り、当事者たちに伝わるのだ。アナタも、揺ぎ無い心を持った青娥の態度に、どれほど救われたであろう。
涙ぐみそうに成るのを、歯を食い縛り堪えて…アナタは固く頷いた。
青娥はすでに瞳を閉じて、アナタのその姿を見てはいない。しかし、そこにある意志を受けたかの様に、また一層、グイッと、梅芳の胸に指の長い手を押し込んだ。
梅芳がか細い呻き漏らす。それを耳にした青娥は、手に今までとは異なる力を込め始める。
眩い光を放つ、青娥の手元であり、梅芳の胸元。アナタはその光景を、目を細め、瞼を震わせながらも、見つめ続ける。
光は紫がかった水晶の様に、妖しく、清廉な白。それが程なくして消えると、梅芳の胸から手を離し、青娥は瞳を開いた。
「少し、抱き締める力を緩めて上げて下さい。それだと、彼女が窮屈すぎます。」
そういう彼女の言葉に従い、アナタは少しだけ梅芳から身を放した。…その途端。
俯いた梅芳が大きく息を吸い込み、そして…どす黒い血の塊を吐き出す。
血の塊は、ベシャッと畳の上で弾けて、三人の着衣に血飛沫を跳ね上げた。
ガハッ、ガハッ、辛そうに喘ぎ、口では赤く染まった唾液が糸を引く。しかしながら、梅芳がそうして居たのも十秒足らず。それからは、まるで憑き物が落ちたかの様に、安息を取り戻している。
大きな溜息。青娥の驚く程、大きな、大きな溜息を吐き出したのは、アナタだった。
アナタは、肩が、頭が抜け落ちそうに深い息を吐き終え、そして、梅芳の顔を見ようと彼女を抱き寄せ…、
「あぁ、ちょっと…少し待って上げて下さい。今…。」
アナタが梅芳の肩を引くや、青娥の物言いが入る。今度は何事かと、彼女のなさり様を見守る、アナタ。
その目の前で青娥は、やおらハンカチを取り出し、梅芳の口元を…アナタからは見えないが多分、『口紅で悪戯した子供の唇』みたいに成っている口元を、丁寧に拭った。…少しやっかむ様な気配を見せて居たものの…梅芳の思いは、ちゃんと、青娥に通じていたのであろう。
右手のハンカチは、血の跡を落とし、口の端の涎を拭いて、それから、左手で梅芳の頬を撫でる。まだまだ肌に赤みは戻らないが、それでも、梅芳の表情は安らかに、薄ら微笑んでさえ見えた。
「これで良し。いつもの、可愛らしい梅芳さんですよ。」
と、そう言うのもそこそこに、立ち上がって、青娥は背後の襖へ近付く。
梅芳の顔を見ていたアナタが、釣られて顔上げる。その目の前で、すぅっと、青娥の身体の半分が襖をすり抜けていくではないか。
「えっ。」
無意識に驚嘆を口から零す、アナタ。やや素っ頓狂にも聞こえる声を耳にして、怪訝な表情で青娥が振り返った。
「どうしましたか。」
「い、いいえ、申し訳ありません。」
狼狽しつつ詫びを入れるアナタを見て、益々不思議そうな面持ちで、青娥は首を傾げた。…が、一度は首を傾げてみたものの、彼女には程なく、彼の態度の理由が解かったようだ。
少し恥ずかしそうに、傾げた頭を戻すと、
「私の方こそ、すいません。つい、普段の癖が…ですから、何も、私は怒っては居ないんですからね。」
すり抜け掛けていた身体を、こちら側…つまりは、アナタたち側に引き返して、青娥は勢いよく襖を明け放った。…多少の、恥ずかし紛れも含め…。
「梅芳さんをこちらへ、お布団の用意が出来ているはずです。」
青娥は今度こそ、敷居を跨ぎ切った向こうからアナタを呼ぶ。アナタは信頼感の増した眼差しで頷くと、慎重に梅芳の身体を抱き上げ、その後へ続く。
今しがたの寸劇で解かったのは、『自分の驚きに対して、不思議そうな顔をした青娥』にアナタは謝った事。これは要するに、アナタが『青娥は自分の力を見くびられ、不快感を示した』と、そう思った事を示している。青娥の仙人としての力は、アナタの想像以上のものだったのだ。
そしてもう一つ。青娥も気付いった事がある。
畳を踏み締め背後を歩む気配に、チラリッと、視線を送り…。青娥は胸中で呟く。
(『浄血の術』の事を知っていた。彼には、仙術の心得がある様ね。そうすると…私の存在をあの娘に教えたのは、彼と言う事に成るのか…。でも、それにしては、消極的なのが気に成るけれど…。)
次の襖の前でしばしの瞑目。そして、今度は梅芳に障らぬよう静かに、青娥が目の前を開く。
[2]
春の日差しは障子に重なり、布団の隅に柔らかな影を落とす。
布団で眠る梅芳の安らいだ寝息。青娥はその様子に、さわさわと部屋を照らす日向に、口元を綻ばせた。
梅芳の事は一先ず、心配いらない。そう判断したのか、衣擦れの音に気を配りつつ、青娥は黙って立ち上がる。…不意に、梅芳を見下ろした瞳には…どこか寂しそうな、憐れむ様な色合い。
しかし、悩ましげな吐息を漏らしたきりで、縁側へと歩み出る。今後こそ遠慮なく、障子をすり抜けて…。
「芳香、どこに居るんです。…芳香。」
先程まで三人が会見していた広間、縁側を進んだ先にある客間、庭にポツンと建った使われていない茶室…。それらを逐一、覗き込み、通り過ぎ、しかしアナタと芳香の姿は見当たらない。そうして、青娥が最後に行き着いたのが、台所を兼ねた土間だった。
戸板の開かれた入り口の向こう、庭から近付いた彼女の目に、放り出された素足が映る。
「二人とも、ここに居たんですか。」
そう言って現れた青娥を迎えたのは、地面より一段高い床に寝転んだ芳香、そして、その奥の囲炉裏で茶釜を沸かすアナタの姿だった。
たたきの前で青娥は靴を脱いで…と言うより、靴をすり抜け、床へ上がる。そんな彼女の姿に、床の縁から脚を放り出した芳香は、少し身動ぎして、だがすぐに諦めたらしい。…どうして芳香がこんな状態にあるのか、誰の目にも明らかであろう…。
「すいません。囲炉裏と、鉄釜、勝手に使わせてもらっています。その…芳香さんが、湯を沸かすならここにしろと教えてくれて…。」
「芳香が…そうでしたか。」
驚いた表情を…いいや、どちらかと言えば感心した様な表情を浮かべた、青娥。しかし、それも数瞬、穏やかに微笑みアナタへ尋ねる。
「薬湯ですか。」
「ただの甜茶ですよ。まぁ、気休めと言うか…。医者に見放されて以来、あいつ、薬の類は一切口にしてくれなく成って…。だからせめて、こんなものでもと…思ってはいるんですがね。」
沸騰した湯を柄杓で汲み出す。茶釜の中で煮えたぎるその音か、あるいは、目を眩ます蒸気のせいか。アナタは茶壷へ湯を注ぎながら、饒舌に語る。…と、自分の無遠慮さに気付いたのであろう。謝罪するかの様にアナタは、頭を垂れて、
「お喋りが過ぎました…。どうですか、仙人さま…じゃなく、青娥さまも、一杯。」
と、おどけた様に喋りはすれど、笑顔はない。まぁ、仕方のない事であろう。
青娥は頷く代わりに、ススッと、アナタの横を通り過ぎて、立派な水屋箪笥へ歩み寄る。
「今、湯呑みを出しますね。それと、何かお菓子も。」
そう言うと彼女は、水屋箪笥の奥から、鶯の浮き彫りされた楕円形の盆を取り出した。
それから、湯呑みを四つ、白い紙に包まれた丸い物を六つ、その木製の盆に載せ囲炉裏の傍へ引き返す。…が、振り返った青娥を、呆気にとられた顔で見るアナタは…多分、何から何まで箪笥の戸を『すり抜け』て取り出す彼女に、驚いたからだろうな。
「私の顔、何か付いていますか。」
まじまじと自分を見つめるアナタの視線に、モデル顔負けの歩きを披露しながら、青娥は涼しい笑みを浮かべる。逆にアナタの方が赤面して、顔を伏せつつ、
「いや、そう言う訳じゃ…えっと、穿岩の術ですよね、それは…。さっきも見せてもらいましたけど、やっぱり、青娥さまはすごい力をお持ちだ。」
と、隣の丸座布団に座る彼女から、盆を受け取った。
アナタは頬に赤味を残しながら、盆の上から蓋付きの湯呑みを一つ取り上げる。青白地のそれは模様もなく、しかし、シンプルであるが故、温かみと冷たさの同居する様な深みを宿していた。
「美濃焼ですか。…随分と趣味の好い湯呑みだ。」
どこかうっとりと口走るアナタに、青娥も可笑しさを堪え切れなかった様だ。口元に手を当て、さも楽しそうに笑う。
「ありがとうございます。お詳しいんですね、焼き物。」
ころころ、耳の中を転がる様な彼女の笑い声。アナタはどうにか小っ恥ずかしさを抑え、湯呑みを盆の上へ戻した。
「俺はどうも、思った事がすぐ口を衝いてしまって…度々、申し訳ありません。焼き物は、その、仕事柄よく扱うんで…。あっ、湯呑み、お借りします。」
と、湯呑みの蓋を開ける手を止めずに、何度も頭を下げた。
多少の薬臭さと言うか、漢方独特の甘い香りさせて茶色の液体が湯呑みに注がれていく。茶壷から四つの湯呑みに回し注ぎをし終えて、それから、ふと気付いた様に、
「あぁ、そうだ。これ、少しでも濃く淹れようと思って、洗茶をしていませんけど…大丈夫ですか。管理はしっかりやっている積りなんで、埃のついている心配はありませんが…。」
そう言いつつも、慣れた手つきで湯呑みに蓋をする、アナタ。…『焼き物をよく扱う仕事』をしていたとのこと…何となく、その仕事とやらの察しは付いたかな。
青娥は、湯呑みの一つを木の茶托ごと取り上げて、
「頂きますね。」
カタリッと、小さな音をさせ蓋を外す。
香りを愉しむ様も一幅の絵の如き乱れの無さ。そのまま彼女が、甜茶を一啜り。
「あぁ、美味しい。こちらに来てから、本格的な大陸のお茶を頂くのは久し振りなんですよ。だから、一入に、そう感じます。それに…。」
と、青娥は湯呑みを置くと、崩した細い脚を撫でる。アナタは…ちょっと、目のやり場に困っているようだった。
艶っぽい微笑みを浮かべ、青娥が言葉を続ける。
「こちらでは皆さん、こうして床に腰を下ろした時は正座でしょう。私、あれがどうも馴染めなくて…。その点、アナタは自然と胡坐をかいてくれますから、私も気兼ねなく脚を伸ばして居られます。」
そう言うと湯呑みを取り上げ、また、一口含む。そんな彼女に穏やかに笑い返してから、アナタが問い掛ける。
「あの、それで…。梅芳の具合は…どうでしょうか。」
おそらく、相手が一息吐くまではと控えていたのであろう。しかしながら、もう、彼女の方から切り出すのを待っては居られなかった。
それを、青娥はちゃんと心得ている。小さく頷くと、湯呑みを茶托に返した。
「よく眠っています。呼吸も落ち着いて、顔色に随分と血の気が戻りました。ですが…。」
やや瞼を落とした表情には、強い緊張が表れている。アナタは何かを悟り、彼女が話しきる前に、
「そうですか…。」
「はい…。」
アナタの藪から棒な落胆に対して、青娥は微塵の不愉快さもみせず、ただただ同情的に接した。
春の午後を、沈黙と、囲炉裏の熱気が肌に焼き付ける。黙ったままでアナタは、火かき棒を器用に使い、火の燻る炭を灰の中へと埋めた。
きっとそうしながら、ここまでの長旅で見た光景を、行きつ戻りつして思い出しているのであろう。
そんなアナタの様子に青娥は、瞳を閉じ、また脚を摩る。
「もし良ければ、お二人の事を聞かせてもらえませんか。えぇ、確かに、梅芳さんからは聞きました。アナタたちが、どうして不老長寿の術を欲しているのかを…。ですが今度は、アナタの口から、アナタの言葉で話して頂きたいんです。アナタが不老長寿の術を欲する理由を…。それを聞いた上で、お二人の修行の手助けが出来るか、決めたいと思っています。」
「青娥さま…。聞いて…頂けますか。」
脚を摩っていた手を止め、丸座布団の上に正座する。それから青娥は、ゆっくり、大きく頷いて見せた。
「あぁ、ところで…。」
と、これからいよいよか…そう思った矢先に、彼女の方から話題を変える様な言い回し。
当然それには、アナタも訝しげな表情を作って…。その不安げな表情に、物問いたげな目付きに、青娥は…麗しく、少し面映ゆそうな笑顔で応える。
「何もアナタまで、『青娥さま』なんて呼ぶ必要はないんですよ。…いえ、出来るなら、もっと堅苦しくない呼び方にして頂けると…私としては、すごく助かるのですが…。何でしたらいっそ、呼び捨てでも構いませんし…。」
自分で『青娥さま』などと言ってみて、尚更、羞恥心を抑えられなくなったご様子。多分、『呼び捨てでも構わない』と言ったのも、恥ずかし紛れの一言であったのだろう。
アナタは訝しむ様だった表情を…青娥の愛らしさを笑って良いものやら…困った様な、可笑しさを堪える様な顔に変えて、
「それなら、青娥さんで…。」
彼女はその形の良い手を、微かに火照った頬から湯呑みへと移す。そして、湯呑みを抱えた両手を胸元まで持ち上げ、また、ゆっくり、大きく頷くのだった。
[3]
美濃焼の湯呑みには蓋がしてある。それでも自分たちの境遇を話すアナタの口調は、甜茶が冷めてしまうのを気にしたかの様に、足早だった。
梅芳は、大陸のとある名家のご令嬢。アナタは、孤児同然であった子供この頃、『一芸』を買われ彼女の父親に拾われた。
「まぁ、そうは言っても、『一芸』だけやっていれば許される…なんて事は、当然なくて…。拾われたその日から、とりあえず厨房へ放り込まれましたけどね。最初は、『話が違うぞ』と思う事もありました。しかし今と成ってみれば、旦那には…梅芳の父親には、心底から感謝しています。下働きなら他にもっと、子供だろうとその日から始めさせられる雑用が、幾らでもあったはず…。でも旦那は、物になるまで時間が掛かると知りながら、あえて俺に料理を仕込んでくれた。お陰で、これからどこへ行くにしても、食いっ逸れの心配はしなくて良い。梅芳の家の厨房でも、よく摘まみ食いしていましたからね。」
微笑ましげな青娥に、アナタは口の端を引っ張り上げて見せた。…しかし、そんな表情は長くは続かない。
「旦那はあの頃から、梅芳が長くはないと知っていた。だから、あいつの居なくなった後、俺が自分で身の振り方を決められる様にと…。そう言う積りだったんでしょうね。だけど…。」
「だけど、梅芳さんは今日まで、病に屈する事なく生きてこられた。傍に寄り添う、アナタの存在あればこそ…そうですよね。」
青娥はアナタの言葉を遮り…いいや、引き継いで、そう言った。
彼女の言った内容が是か非か、定かではない。ただアナタは、労わる様なその笑顔から視線を逸らし、短く首を振って応えるだけ…。
(私とした事が…。この人は梅芳さんの希望を受け入れ、ここまでの道程を彼女に付き合った。慰められたところで、頑なな態度をとるだけ…それは、目に見えて居たと言うのに…。)
そう心の中で呟くと、ばつの悪そうに、お茶を濁すかの様に、青娥は湯呑みを取り上げる。したらばその時、意外な所から声が上がった。
アナタと青娥は一緒に成って、その声の方を…いや、言葉に成らない言葉の方を、見つめる。声の主は、天井に両手を突き出し、床に寝っ転がったままで、何事か喋って…いいや、呻いている。
「あ…っう…あ…っう…あうっ…っうぁ。」
何を言っているのか判然としないが、訴えかけて居るのは間違いない。二人を見る芳香の眼差しからして、確かであろう。
そんな彼女のあられもない姿を、青娥はしっかりと目に焼き付けたはずが…。目線を、次いで首を囲炉裏の方へ戻すと、素知らぬ顔で甜茶を一啜り。完全に、芳香の訴えを黙殺しようという姿勢である。
電話のベルの如く、取り上げられるまで鳴り止みそうもない、呻き声。知らぬ存ぜぬを極め込んだ青娥に代わり、その呼び出しに応じたのは…誰あろう、アナタだった。
「んっ、あぁ、そうか…。お前も、茶を飲みたいんだよな。よし、ちょっと、待っていろ。」
と、アナタは青娥へ引き継ぐ事もなく、盆の上から湯呑みを一つ取り上げる。それに合わせ、恰も受話器を取ったかの様に、芳香が鳴き止んだ事からして…彼女が甜茶を飲みたがっているのは、本当の話らしい。そして…土間の場所を芳香から『教えてもらった』と、アナタが言った事も…。
額に張られた札の陰から、大きな、真ん丸の瞳を覗かせる、芳香。両手で持った湯呑みを膝の上に、横目で見据える、青娥。二人から注視の前で、湯呑みの蓋を開け、そして…アナタは着物の懐から、一枚のお札を取り出した。
お札は、長方形の黄色い紙に朱墨で達筆な文字が書かれており、見た目だけを言えば、芳香の額に張られたものとよく似ている。
アナタはそれを左手に持ち、右手では人差し指と中指を伸ばした印を作る。それからゴニョゴニョと、お札に向かって呪文らしき言葉を唱え始めた。
呪文のお題目は、ものの数秒で済むもだったらしい。…とは言えその数秒の間、青娥も、芳香も、まんじりともせずアナタを見つめ続けている。
これには、多少の気不味さを覚えるのも仕方なかろう。アナタは微かに手元を震わせながら、呪文を吹き込み終えたお札を…何と、湯呑みの中へ落とした。…よもや、手が滑った…いいや、どうもそうではない様だ。
湯呑みに半分ほど浸かった状態のお札。そこに甜茶が染み込んでいく。染み込み、染み込み…湯呑みに入っていた甜茶の最後の一滴まで、お札の中へ吸い込まれてしまった。
アナタはまた囲炉裏の灰に火かき棒を使い、まだ赤々としている炭を掘り返す。そうしてから、その炭の上へお札を投じるのだった。
手から滑り落とされたお札は、お茶一杯分の水気を含む割に、ひらひらと舞い折、そして、瞬く間に燃え尽きてしまう。
その様子を確認もせず、アナタは蓋に付いた滴を湯呑みへと帰して、
「味の方はどうだ。」
と、芳香の方へ顔を向けた。
その目の前で芳香は、ゴクリッ、ゴクリッと…驚くべき事だが、確かに…喉を鳴らし何かを飲んでいるのだ。
前を紐で結ぶ大陸風の赤い上着。襟元から覗く細い喉が、飲み干した事を示す様に静まる。それから芳香は、眉間に皺を寄せ、渋い顔を作った。
クスクスと、一足先に笑い始めた青娥の声。アナタも彼女の声に誘われて、口の端を柔らかくする。
「おっ、何か、口に合わなかったみたいだな。」
如何にも可笑しそうなアナタの口振りを、青娥は軽やかな笑気で拾い上げると、
「その娘は、生まれも、死んだのもこの島国だから…。大陸のお茶には、馴染みがないんですよ。それにしても…。」
青娥は、カチャッと音をさせ湯呑みの蓋を閉じると、言葉を続ける。
「思った通り、見事な仙術ですね。呪符も形式を踏まえ、しっかりと機能している…。さもなければ、私の作り上げたキョンシーに『お茶を飲ませる』なんて、出来っこありませんからね。」
そう言って青娥は、ちょっと得意そうな顔をして見せた。…で、そう懇切丁寧に褒められたアナタは、
「いや、俺の術なんかは…。青娥さんから、そんな風に言ってもらえる代物じゃ…。出しゃばった真似をして、恥じ入るばかりですよ。」
と、乾いた笑いを挟み応えながら、表情には羞恥の赤よりも、失意の陰りの方が色濃かった。
「いいえ…。」
アナタの返事をやんわりと払い退けた、青娥。それから急に、切り出す様な口調に成って、話し始める。
「梅芳さんにアナタが施した仙術、見せて頂きました。ですから、私には自信を持って言えます。アナタの仙術は見事なもの。私にもあれ以上は、手の施し様がないと…。」
彼女のその言葉を聞いたアナタは、大きく息を吸い込み、落とした肩を引き上げた。…しかし、その空っぽな姿勢も、気持ちも…また、深い溜息とともに沈んでいく。
「そうですか…青娥さんの術をもってしても…。もう、梅芳にしてやれる事はないのか…。」
肺の中身を吐き出し切ってしまえば、どんなに辛かろうと、どんなに悲しかろうと、生きている限り呼吸の放棄は許されない。自然と入り込む息吹を細く吐き出しながら、アナタは再び身の上話を語り出す。
「仙人に成れたなら、不老長寿も夢ではない。そう梅芳に教えたのは、俺なんです。随分昔の…拙い仙術の心得を買われ、あいつと出会ったばかりだった…まだガキの時分の事…。向こうは大家のお嬢さまでしょう。そんなあいつにどう接して良いものか、あの頃の俺には想像も付かなくて…。ついつい、励ます積りも手伝って、口を滑らせた。それを最後の希望と、あいつが心に秘めるだなんて…考えもせず…。」
床の端で、カクンッと、天井へ突き出されていた両腕が横倒しに成る。そちらに視線を向けた青娥の目に飛び込む、訴えかける様な芳香の瞳。先程の呻き声とはまた違う、真に迫る思いを窺わせる。
青娥はその眼差しに頷いて見せてから、アナタへ、
「それじゃあ、不老長寿…いいえ、『不老不死の肉体が欲しい』と、梅芳さんに請われた時には、さぞ驚いたのでしょうね。」
彼女の言葉が呼び水と成ったのであろう。アナタは何やら思い出したかの様に、二度、三度と、頷いた。
「えぇ、えぇ…。そりやぁもう…驚いたのなんのって…。だけど俺も、心のどこかでは思って居たんです。そう思っていた事に気付かされたんです。それ以外に…不老不死にでもしてやる以外、あいつを助ける術はない。…だったら、いっその事、あいつの思う通りにしてやろう。俺みたいな未熟者でなく、仙術に長けた本物の仙人にならば、あいつの病を取り除く術を知っているかも知れない。…そんな淡い期待だけが、俺にとっても最後の希望だったんです。」
「でも、私ではご期待に添えませんでした。遠々(とほどほ)しい旅路を乗り越え、折角、こうして訪ねて頂いたと言うのに…。心苦しく思っています。」
そう言うと、床に平伏して、青娥は頭を下げた。
「い、いえ、滅相もありません。青娥さん、どうか顔を上げて…。貴女には何の非もない。それに青娥さんはさっき、浄血の術で、梅芳の命を救ってくれたじゃありませんか。」
アナタは、青娥を起こそうと手を差し伸べるものの…彼女の肩にすら触れる事が出来ないで、四苦八苦。それ程、仙人とは神聖不可侵な存在なのだろうか。あるいは、梅芳の旅の供という大胆な行動に出た割に、女性への免疫がなかったのだろうか。まっ、まだまだ幼さの抜けない梅芳と、妙齢の青娥。二人を比較すること自体、無粋だったかも知れないな。
いつまで待っても、空を撫で回すばかりで、自分に触れようとしないアナタの手。青娥は…アナタが赤面するのも解かる様な…優し笑い声を漏らして、上体を起こした。
起き上がり様にしどけなく脚を崩す仕草が、直ちに、アナタの手を引っ込ませる。それにまた、青娥は優しい笑みを向け、
「私は何も、術と呼べる程の事はしていませんよ。ここに至るまでの間、梅芳さんの血脈と気が滞りなく循環するよう心を砕かれた…全ては、アナタの努力の賜物です。その下地がなかったなら、浄血はああも上手くは運ばなかったでしょうし、もっと、もっと、梅芳さんは苦しむ事になって居たはず…。『胸を張れ』と言われたところで、そんな心には成れないと思います。でも、梅芳さんの今があるのには、アナタの頑張りが大きい。それは事実ですよ。ですから、せめて、もう少しだけ呼吸を楽に…アナタ自身と、梅芳さんの為に、胸を撫で下ろしても良いんじゃないでしょうか。」
そう諭されたアナタは、項垂れたまま、しばらく応え返せずに居た。
肩肘の強張った姿を急かす訳でもなく、青娥はまだ十分に熱い甜茶で、一服。耳朶の辺りに深く息を吸い込む感触を覚えてから、そつなく、アナタへ瞳を向け直す。
「そう、それで良いんです。どんな理由があるにせよ、例え彼女に請われた事だとしても…アナタが梅芳さんをここへ連れてきた。それは紛れもない事実。だから、アナタは諦めてはいけません。梅芳さんから全ての希望が奪われる日が来るとしても、アナタだけは諦めてはいけないんです。もしもそうする事が出来ないのであれば…アナタは今すぐに、梅芳さんをお父さま、お母さまの元へ、身命を賭して送り届けなさい。…アナタにもそれは、解かっているはずですよ。」
「そうです…その通り…です。梅芳と一緒に旅に出る。そう決めた日に…そして旅の最中にも俺は、何度も自分の気持ちを確かめた。それでも俺は、引き返す事を選びませんでした。」
胡坐の膝を握り締めていた両手が、すっと、力を失う。『それでも』…それでもアナタは、話し続ける。
「二人で邸を飛び出した日から、夜が来る度に思ったんです。寝静まったあいつの傍らで、火の番をしている、俺。そこに旦那の差し向けた追手が現れて…それで、この逃避行が終わってしまうんじゃないかって…。自分一人だけで梅芳の死を看取る事に成るかも知れない。野宿同然の旅の空、目的地に着く事なくあいつを死なせてしまうかも知れない。…追手に見つかりさえすれば、そんな恐怖から解放される。夜が来る度にそんな事ばかりを思っていました。」
「でも…それでも…。アナタは、梅芳さんの望みを叶えて差し上げる為、引き返しはしなかった。そして遂には、彼女の望んだ通り、私の元へと梅芳さんを導いて来られた…。アナタのそんな気持ちを無駄にしないよう、私も出来る限りの事はさせて頂く積りです。だから、さぁ、自分の成した事にもっと自信を持って。私には…それから芳香にも、胸を張って良いんですよ。」
叱り付けては、慰め、青娥は悩める若者に対して、甲斐甲斐しく年長者の務めを果たす。そんな深い情けを受けたアナタは…遺憾なく妙齢の女性の魅力を発揮した彼女へ、切なげな眼差しを向けた。
青娥はアナタに見つめられながら、しかし、気付かれぬ様さりげなく、湯呑みから離した右手でワンピースの胸元を握る。そうでもしなければ、微かな指先の震えを隠せそうになかったから…。そうでもしなければ、今しも頬に広がりそうな血の気を、どうしようもなかったから…。
アナタはそんな、青娥の葛藤には気付かなかった様だ。目を閉じると、切なげな顔の口の端だけ笑みを浮かべて、首を横に振った。
「胸を張るだなんて、とても…。俺がここまで辿りつけたのは、引き返す切っ掛けがなかったからに過ぎないんです。『仙人を訪ね、不老不死と成る修行をしたい』…そう詰め寄ってみても、梅芳の説得は旦那に通じなかった。当然だ。あいつは、いつ死んでも不思議でない身体。それを、自分の手元を離れ、仙人の修行だなんて、親として認められる訳がない。そもそも、あいつは乳母日傘のお嬢さま暮らししか知らなかった。だから、初めは…俺達が邸を抜け出してしばらくは、旦那も、俺と同じ様な考えから、追手を出さなかったんでしょう。三日と持たずに、梅芳は音を上げるって…それが…。」
「当てが外れた訳ですね。」
どうにか平静を取り戻し、にこやかな笑顔で問い掛ける、青娥。それなのに…。
さっきの辛そうな笑い顔とは違う。心からの微笑みに頷かれ、青娥は…胸元を手離す機会を逸してしまう。
瞼を細め可笑しさに浸り切りのアナタは、彼女の方へ目もくれず、
「えぇ、俺も、それに多分、旦那も、今度ばかりは読みが甘かった。そうして共倒れ、根負けで、梅芳の旅立ちに加担する羽目に成った訳です。梅芳が一度でも愚図ったら、それを理由に、俺はあいつを連れ帰る積りでした。いいや、正直なところ、俺が帰る様に促せば、あいつは従うだろうと信じて疑わなかったんです。だけど、恥ずかしい話、それこそ俺の読みが甘かった。甘すぎた。何せ、あいつは俺なんかよりずっと、疑う事を知らなかった。いつでも連れ帰れると俺が信じた様に…あいつは、俺が仙人の元へ導いてくれると、あいつの望み叶えるものと信じ切っていたんです。そんなあいつを見ている内、俺も…あいつが生きてさえ居てくれるなら、どんなに細い希望でも…縋らずには居られなかった。」
言い終えた時、朗らかな笑みは消え失せ、奥歯を噛み締めた悔しそうな表情だけが、アナタに残った。
青娥は未だ、胸元から手を離そうとしない。…そうだ。今はもう、自分の意志で…怖くて、離せない。
(この手を離して…それなのにまだ、こんな感覚が残っていたとしたら…。胸を締め付ける様な感触が、この手によるものでないと認めてしまったら…私は…。)
ワンピースの胸元から広がる皺が、深まり、広がっていく。そして、力み過ぎで彼女の手が震え始めた頃、アナタが唐突な声を上げる。
「青娥さん。」
「は、はい。…何でしょう。」
と、飛び跳ねんばかりに狼狽した反動が、いともあっさり、彼女の手を胸元から引き剥がす。ドクンッ、ドクンッと、心臓は高鳴っている…しかし…。じっくりと自分の心情を見定める時間はなさそうだ。
アナタは躊躇なく、半ば勢い任せに、彼女に問う。
「その、梅芳は…あいつは、不老長寿の術を会得できるのでしょうか。それまで、あいつの命は持ちますか。」
飾り気のない問い掛けが、乱れた呼吸を落ち着かせていく。青娥は静まっていく胸元に、そっと触れて、
(…思った様な事はなかった。気の迷い…えぇ、そうでしょうね。私の様な女に限って…そんな感情、あるはずない。)
自分に言い聞かせる様に、大息を吐く、青娥。その仕草はアナタの目に、『梅芳の事で胸を痛めている』としか映っていないのだろう。
(それが当然よね…。)
胸中でそう独りごちた後、払い落すかの様に胸元の手を離す。青娥はそうしてから、アナタの問いに頷いた。
「お察しの通りです。梅芳さんの体力は、行に耐えうるものではありません。そして、彼女の命は…行を修めるまで保ちはしないでしょう。」
青娥の返答を受けたアナタは、抜け落ちそうに成る肩を、ギュッと膝を握り締め堪えて、
「そうですか…残念だ…あいつもきっと、残念がるだろうな。それが解かっていたから、俺は…不老不死なんて、弱ったあいつの身体では無理だと知りながら…遂に、今日まで言い出せなかった。俺のした事は結局、あいつの命を無為に削っただけだ。それに、二度とは故郷へ帰れない場所へ、あいつを連れて来てしまった。どうしてあの時、もっと、俺は…どうして、大陸に留まろうと、強く言っていれば…。生まれ育った邸で、旦那に、見知った者たちに囲まれ過ごす。せめても、あいつにそんな余生を与えてやれたものを…俺がそれを、台無しにしてしまった。」
両手を震わせ、悔しそうに呟き続ける、アナタ。青娥は思わず、その小さく成った姿から目を逸らして、助けを求める様に芳香の方を見る。…が、しかし…寝転がった芳香は、いつの間にか二人にそっぽを向け、一声もない。
芳香の背中を見つめる瞳を、青娥は恨めしそうに尖らせた。…だが、そんな顔をアナタへ見せる訳にはいくまい。
力を抜き、瞳を閉じて、彼女は瞼の向こうへ語り掛ける。
「不老長寿の術を会得できない以上、彼女に残された時間は長くありません。ですが、悲観する程…梅芳さんを故郷に連れ帰れないと…そう決め付ける程には、短くないはずです。」
「ほ、本当に…。それは、本当ですか。」
「はい、それはもう。ただし、しばらくはこの家に留まり、養生して、帰路を歩むだけの体力を戻す。それが出来て、なおかつ、彼女が身体に負担をかけなければ…。大陸のお邸に帰り付き、彼女のお父さまへ謝る。それ位の事は十分に、存分に、させて上げられるでしょう。」
「まさか、梅芳の時間がそこまで保つだなんて…。やはり、青娥さんの施してくれた浄血の術のお陰ですか。」
青娥は瞳を閉じたままやんわりと微笑み、そして、首を横に振った。
「さっき言った通りですよ。全ては、アナタの頑張りあればこそ。アナタが万全の術を施していなければ、私の浄血にしろ、然程の効果もなかったでしょうから…。」
「いえ…いいえ、決してそんな事は…。俺は何をしても駄目で、何を選んでもしくじって…でも、梅芳は…青娥さんの元を訪れると、その気持ちを曲げなかったあいつは正しかった。俺の力じゃ、とても、とても…ああ見事にはいきませんよ。…そうかぁ、あいつ、まだ生きて居られる…旦那に頭を下げさせてやれるんだ。」
感極まったアナタの声。沸き立つ様な、奮い立つ様な、力強い言葉の先。青娥が瞼を開けば、確かに、失意とは違う表情を見られるのであろう。しかし、何故だか彼女は、どうしてもアナタへ瞳を向ける気になれない。
梅芳が生家に帰り付けると教えたのは、アナタを勇気づける為に他ならないはずだ。それだと言うのに…。自分の瞳が開いているかどうかなど、アナタの決意には関係ない…それは解かっているのに…。
「よしっ、そうと決まったら早速、梅芳を説得しないと…。いや、その前に甜茶を飲ませて…。同時にやるのは、あいつがむせるだろうから不味いよな。」
途端に浮足立つアナタの思惑へ、少し苛立たしげに、青娥は口を挟む。
「あの…一つ、言い忘れていた事があるんです。」
「あぁ、はい、俺も聞きたいとは思っていたんですよね。この紙に包まれた…お茶菓子かな…これは一体、どういう物なんですか。」
と、的外れも良いところな、アナタの返し…。青娥は眉間に皺を寄せながらも、一先ず、それに答える様だ。
「その包みは…そう、お菓子です。最中と言って、もち米を焼いた薄皮で餡を挟んだものです。餡の定番は小豆と水飴を練ったものですけど、その最中には砕いた胡桃を甘く煮たものが入っています。ですが…私の言いたいのはそう言う事ではありません。」
まるで固い胡桃を噛み潰す様に喋る、青娥。
彼女の尋常ならざる口振りで、ようやく、気もそぞろな我が身に気付いたのであろう。話の途中からはアナタも、畏まって拝聴している。
誰にともなく短い溜息を零して、青娥は続けた。
「梅芳さんに体力が戻るまで、彼女を大陸へ返して上げたい気持ちは、アナタの胸にしまって置いた方が良い。私はそう思っています。」
「えっ、何故ですか。」
彼のこの反応は予期していた。そして、一層、瞳を固く閉ざす…自分自身の事も…。
「ここが、彼女にとっての逃げ場だからですよ。梅芳さんはご自分に迫る死期を否定しようと、こんな遠くを訪れた。彼女はきっと、アナタを伴い、新天地を踏む事に最後の希望を託していたんじゃないでしょうか。本当のところ、師事するのには、見知らぬ土地に居る仙人なら誰でも良かった。…その気持ちは解かるんです。私も向こうで寄る辺を失って、逃げ出してきた身ですから…。」
『梅芳の気持ちが解かる』、そう言いながらも青娥は、どこか半信半疑な思いを捨てられずにいた。…加えて、余計な…自分の身の上を語る様な事までして…。
だが、心情を吐露し、誰かに弱みを打ち明けられた充足感は、確かに彼女の胸中を満たしている。さっきまでの胸苦しさ、眉間に篭る力が、嘘の様に和らいでいく。
「少し回りくどい言い方に成ってしまいましたね。私の言いたいのは、向こうへ帰るよう勧める事で、ここを立ち去る期限を押し付け、逃げ場を失った梅芳さんを追い詰めてしまう。それでは、故郷の地を踏ませるどころか、身体の回復すら望めない。少なくとも彼女自身が、気力、体力を充実させようとは、望まなくなるのじゃありませんか。」
「それは…そうかも知れませんが…。しかし…。」
「梅芳さんを偽る様で気が引けますか。でしたら私から、『まずは、何を置いても体力を戻しなさい』と、話しても構いませんよ。実際、衰弱した身体では行に取り組めませんからね。」
青娥の口を突いた『梅芳を偽る』という言葉。それに対して、否定も、肯定も、アナタの素振りには表れなかった。
アナタはただ、盆の上の最中を手に取り、それをすぐに鶯の足元へ帰して、
「お気遣い、ありがとうございます。…いいや、何から何まで世話して頂き、本当にありがとうございます。しかし、これだけは…。これだけは、俺が言わなくちゃならない。俺があいつに伝えます。」
瞼の向こうに聞こえた、ガサッと、最中の包装紙が擦れ合う音。あるいは、その物音が癇に障ったのだろうか。青娥はどこか不服そうに、まつ毛を揺らした。
「…でも、良いんですか。梅芳さんに体力が戻って、いよいよ帰郷を促した時…彼女は自分が偽られていた事に気付くでしょう。恨まれますよ、きっと…。」
薄らと冷笑を浮かべた、青娥の唇。仙人とまで呼ばれる彼女が、そんな市井の女子供の様な振る舞いをするとは、意外の一言に尽きる。
皮肉な、だが確実に的を射た彼女の言葉を、アナタはまた好意的に受け取ったのであろうか。生唾を飲み込み、それでも湯呑みには手を付けずに、応じる。
「恨まれたとして、それも覚悟の上です。第一、俺はもう既に、あいつの期待を裏切っている。不老不死をチラつかせ、その気にさせるだけさせておいて、結局…あいつの命を長らえさせる事は出来なかった。それに…もしかしたら、これが一番の裏切りかもな。俺自身は少しも、不老不死を欲していない。だから、恨まれるには遅すぎたくらいですよ。」
訴え掛ける様な声音を聞く青娥は、笑ってはいなかった。
だが、どこか薄っぺらい無表情でふらふらと首を動かして、左手の指で茶托を弄ぶ。アナタが見ていないから良い様なものの、少々、彼女らしからぬ態度だ。そう、アナタが見ていないから…良い様なものの…。
「アナタはそれで満足でしょうね。でも、梅芳さんにとってはどうでしょうか。私には、死期の迫った彼女が知る必要のない事に思えます。やっぱり、恨まれ役は私が担うべきだと…。」
「止めてもらえませんか、もう…それ以上は…。」
怒気を孕んだアナタの声に、湯呑みの蓋を掴んだ青娥の手が止まる。しかしアナタはまだ、とぼとぼと独り歩きする言葉を、止めてはいない。
「それ以上は、俺と、梅芳の問題ですから…俺たちの間には…。」
と、その先の一言が吐き出される寸前、青娥の手の中にあった湯呑みの蓋が、長い指を、掌を『すり抜け』、床へ転げ落ちた。
コツンッと、澄んだ音がアナタから、言葉の続きと、視線を奪う。それでようやく、自分の口にしようとしていた事、そして、彼女が両の瞼を閉じていた事を知り、
「俺、何て失礼な言い草を…。すいません。すいません。」
そう必死で謝りながら、何度も、何度も、アナタは頭を下げた。
青娥は、瞼に纏わり付く陰の向こう…そうして謝り続けるアナタを見つめながら、ポツリッと、聞きとれない程の小さな声で呟く。
「やっぱり、同じなんですね…。私が目を閉じて居ようと、居まいと、アナタには…。」
か細い声を掻き消す様な溜息。それから、青娥は瞳を開いた。
「謝ったりしないで下さい。失礼な言い草を弄したのは、まず、こちらなんですから。」
今は麗らかな春の午後。一瞬でそれを思い出させる、朗らかな青娥の美声。
顔を上げたアナタを待っていたのは、柔和な瞳と、優しく微笑む口元であった。
「とうの昔に女として枯れた私が、お二人を見ていると何だか、若やいだ気持ちさせられて…それでつい、試す様な事を言ったり、お節介を焼きたく成ってしまうんです。はしたないのは承知しながら…。まったく、どうしようもない老婆心ですね。」
「そんな老婆心だなんて、俺は…。」
アナタは言い出そうとした言葉を呑み込み、また、顔を伏せた。
実際、アナタは彼女の事を何程も知らない。『それを心得てなお、自分は気休め述べるのか』と、憚られたのであろう。
そんなアナタの姿を、瞳に…恐ろしく冷やかな瞳に映して、青娥は呟く。
「アナタは賢い人ですね。梅芳さんのお父さまの気持ち…私には解かる気がします。」
唐突な彼女の発言に、アナタは驚きとともに顔を上げる。その目に見出した表情は…相変わらず、柔和で、優しい…。
続けて、心苦しそうなアナタへ青娥が尋ねる。
「梅芳さんのお父さまは、お二人に追手を差し向けなかった。私はそう思うんですよ。…アナタは、どうお考えですか。」
仄暗い心境を両目に湛えて、アナタは俯きながら、頷きながら…。
「それは…俺も、旦那は追手を差し向けなかったと思います。でも、やっぱり、それは…旦那は愛娘のあいつを、殊の外、可愛がっていたから…。最後はあいつの望み通りにさせてやりたいと、多分、親心から見逃してくれたんでしょう。」
そう言いつつもアナタは、結局、喋っている間一度も青娥の方を見ようとしなかった。…もしも一瞥でもしていれば…彼女はそれ以上、何も言わなかったかも知れない。いいや、言っても詮ない事であろう。アナタと、青娥、二人の交わす会話がそうである様に…。
アナタの視線の戻るのを待たずに、青娥は言う。
「そう言う気持ちはきっと、お父さまにもあったでしょうね。ですが、それも、アナタへの信頼あればこそ…。アナタの様に道理を弁えている方が、梅芳の傍に付いて居る。だからお父さまも、追手を差し向けず、安心して、彼女の事をアナタに任せたんですよ。」
青娥の言い放ったのは、まさに『毒』であった。
小刻みに震えていたアナタの手先が、今は、死んだように凍り付いている。
彼女の言葉は確かに、『梅芳の父親は、信頼するお前に娘の行く末を託したのだ』と受け取れなくもない。しかしながら、そんな風に…呑気に、額面通り受け取れる者が居るだろうか。
特にアナタは、青娥の一言一言を厚意としか考えていない。その素直さが一層、梅芳の父親の、青娥の、そしてアナタの底意を、鋭く突き付ける。…『お前は梅芳を連れ帰る。そう信じたからこそ、彼女の父親は追手を差し向けなかった。お前はその期待を裏切ったのだ』と…。
梅芳を帰郷させられると知った時の、アナタの喜びよう。あれを見れば、アナタがどの程度まで自覚的だったか、解かると言うものだろう。
それだから、アナタの沈み様は不思議ではない。だが…意図して毒を吐いた青娥まで、悲しそうに、申し訳なさそうに項垂れるのは何故だろうか。
囲炉裏から広がっていた汗ばむほどの熱気。それも今は土間の入り口から抜け出し、身体に纏わり付く冷たい感触だけ残された。
俯いたまま青娥は、床の上の陶器の蓋と、茶托の上の空に成った湯呑みを見比べる。
(何をやっているのだか、私は…。)
可笑しそうに、寂しそうに笑って、青娥は湯呑みを取り上げた。
「もうそろそろ、梅芳さんが起き出す頃かも知れませんね。」
夢から覚めたかの様に目を見開き、声の方へ向く、アナタ。青娥は両手で湯呑みを包み込んで、淡々と、どこか素っ気なく、続ける。
「行ってあげて下さい。起きた時、アナタが傍に居ないのでは、きっと、心細い思いをされるでしょうから…。最中はどうぞ、お二人で…。」
と、彼女が勧めるのに対して、静馬はすぐに腰を浮かせた。…しかしながら、不意に…尻込みするかの様にその動きが止まる。
「どうしました。」
そう問い掛ける声は早い。
青娥の反応の早さには、アナタも大いに焦りの色を浮かべて、
「いっ、いえ…。どうしたと言う訳じゃ。」
まず遠慮する様な、否定する様な言葉を返したところをみると、何かを決めあぐねているらしい。
さて、先程よりのご様子を窺うに、仙人と呼ばれる方の割には意地の悪い言動の目立つ、青娥。もしも彼女が、『そんな』を貫こうとお考えならば、こここそまさに好機。二言、三言軽口を放り込んでやれば、今のアナタなら簡単に押し潰す事が出来る。
だがしかし…いいや、彼女には初めから…アナタをとことんまで追い詰めようなどという気は、なかったのであろう。
掌中の珠を慈しむが如く、黙って湯呑みを摩りながら、青娥はアナタの次の言葉を待った。
それは喜ばしい事か、否か、程なくしてアナタが口を開く。
「あの、良ければ青娥さんも一緒に…。その方があいつも安心できると思うので…。」
少なからず甘えの窺えるアナタの口調から、青娥は明敏に底意をくみ取る。
(自分が嘘を吐く時に、隣で控えて居ろという事ですか。いずれは私も、彼の嘘の上塗りをすると思えば…強いて拒む理由もないけれど…。)
胸中で広がる波紋を、空の湯呑みの内に見つめて…。青娥はまた淡々と、アナタへ答え返す。
「いいえ、私はここでお待ちします。奥の間がどの部屋かは、解かりますね。」
それだけ言うと青娥は、湯呑みを口元に寄せる。
彼女のその様子を見ればアナタにも、議論の余地のない事は、そして彼女の言わんとする事が、容易に理解できた。
アナタは恥入った様な苦笑を漏らすと、盆を手に立ち上がる。その姿を横目で見つつ、青娥は口元の湯呑みを下ろせないらしい。背中を向けるアナタが、家の奥へ続く板戸に手を触れても、まだ…。
つと板戸を横へずらす音が響く、そして、
「一つ、訊いてもいいですか。」
てっきり廊下へ出たものと油断したところへ、不意打ちの声がかかる。
青娥は弾かれた様に背筋を伸ばすと、慌てて口元から手を下し、空っぽの湯呑みを隠した。
「はっ、はい、はい。何でしょうか。」
「…はぁ、その…俺たちみたいな厄介者に、何で、青娥さんはこんなにも良くしてくれるのかなって…。」
「もう、馬鹿を言わないで下さい。病人を放り出せるはずがありますか。」
心臓の動悸を気にするあまり、そう答えた彼女の言葉は、多少、上擦っていた。
その語調が気に入らなかった訳ではないだろうが、アナタは、
「はぁ…。」
と、生返事をして、半開きの板戸を押し開ける。…『今は退散すべき』、そう薄ぼんやりとした字で、アナタの顔に書かれていた。
残念そうに敷居を跨ぐ背中へ、今度は、青娥の声が不意打ちを仕掛ける。
「アナタはもしかして、私の血筋にあたる方ではありませんか。」
微かに湯呑みの蓋が跳ねた音が響く。見れば、廊下に踏み出したアナタの右足はまだ、踵を床に付けていない。
わずかな逡巡を経て、踵でしっかりと床を踏みしめながら、
「お気付きでしたか。いや、隠していた積りもないんですが…。いきなり『自分は遠縁にあたるものだ。そこで折り入って、頼みたい事がある。』なんて輩が押しかけたら、やっぱり、印象は良くなかろうなと思って…。」
そう答える言葉も、声付きも、気安く、砕けていた。
「それも、梅芳さんの為と言う訳ですね。」
冷やかす様な青娥の口振りにも、さっきまでのけんもほろろな感触は受けない。…まぁ、少々は、鼻で笑う様な耳触りがないでもないが…。
アナタは左足も廊下に出し、身体の左半分だけ青娥の方へ向けて頷く。それが照れ隠しである事は、味の濃い苦笑いにありありと浮かんでいた。
そんな笑顔を数秒見守ってから、青娥は肩越しに後ろを見つめていた瞳を、囲炉裏の方へ戻す。それから、また、空の湯呑みを口元へやって、膝の上に下ろして…、
「最初、お顔を拝見した時にはもう、予感があったんです。私の血筋にあたる方だというのは…。そして、梅芳のお話を聞き、彼女の身体に施された仙術へ触れ、極めつけは今の、芳香へお茶をご馳走して下さったお手並み。それを見て確信しました。」
青娥は一瞬だけ、ゆらりと、頬を、前髪を揺らす。だが、アナタの方へ振り返ろうとするかの様な仕草は、果たされることなく…。床に転がった蓋を拾い上げ、ただただ、穏やかで、名残惜しそうな言葉を続ける。
「大陸から、それも自分と縁続きの方が、私を訪ね、頼ってくれている。私にはそれが無性に嬉しく思えたんです。だから、もし、『お二人を手伝えたなら』という気持ちに理由を付けるのなら…それはきっと、アナタですよ。」
彼女の話しをアナタは、そして彼女自身も、冗談言、戯れ言と受け取り、聞き流していた。
だがそれでも、どこか納得した様に、どこか満足した様に、アナタは軽く頭を下げて、
「失礼します。」
と、苦笑を浮かべながら、板戸を閉ざした。
アナタの置いて行った一欠けらの憂いもない残響。遠退く音のその後へ入り込む、隙間風の如き静寂。青娥は足音が聞こえなくなるまで、とっぷりと、先程の自分の言葉を反芻していた。
からかう様な可笑しさと、相反する真実味。言い終えてみるまで、青娥は自分の言葉の意味に気付かなかった。…当然、アナタは気付こうはずもない。彼女もそれを『何故か』と問おうとは思はない。問いたいとも思わない。しかしながら、たった一滴に…、
(もしもアナタが、こんな気持ちの…たった一滴にでも気付いてくれたなら…どうしていたのかしらね、私は…。)
見つめる湯呑みの底で、飲み干す事の出来なかった思いと、甜茶の一滴が小さくなっている。青娥は湯呑みに、心に蓋をして、切なげに微笑む。すると…。
上向いた視線の先…いつの間に寝返りを打ったのか…芳香の瞳が、じぃっと、青娥を見ている。物問いたげに、物言いたげに…。
青娥は双眸を尖らせ、芳香へ睨み目を返すと、
「なによ…。何か、文句でもあるの。」
不服そうで、拗ねた様な、彼女の声色。
芳香は、そんな青娥の様子をぼんやりと瞳に映してから…また、寝返りを打ち、背中を向けた。
[4]
燦々(さんさん)と降り注ぐ陽光は真っ白な障子紙へぶつかって、梅芳の瞳を細くする。
大人しく布団で横になり、薄目がちの眼差しで見つめるのは…障子に映る梅の影。
真っ直ぐに伸びた枝の一本に、丸く、小さな、蕾の影が見えている。梅芳は、ただじっとその蕾の影を眺めながら、寝息にも似た、苦しげな吐息を漏らしていた。
耳に入るのは、気も、胸も重くなるような、自らの擦れた声。そして、敷き布の立てる衣擦れの音だけ…。だから、床板を軋ませ縁側を歩む足音に、彼女はすぐ気付く。
足取りは、酷く軽い。恰も雲を踏む様に、薄氷の上を歩く様に…。アナタのそれと違うのが、はっきり、梅芳の耳でも聞き取れる。…だとすれば、この足音の主は、
(仙人さまっ…。仙人さまがお出でになられた。)
梅芳は慌てて身を起こしにかかった。
しかし、跳ね上がり、捲れ上がったのは掛け布団のみ。梅芳の身体の方は、背中がわずかに布団から離れただけで、すぐに元の場所へ落っこちる。
息は荒く、首筋から汗が吹き出し、布団へ押しつけた背中が刺す様に傷む。だが、それなのに、彼女は満足そうに笑っていた。
(何だか、身体の調子が良いみたい。こちらに着いたばかりの頃は、痛いとか、苦しいとか、身体が言わなくなっていたのに…。やっぱり、起きなきゃ…起きて、仙人さまへお礼を…。)
手を、肘を付き、歯を食い縛って身を起こす、梅芳。何とか上体を起こしきった後には、大きく、清々しい吐息が出た。
丁度その時、目の前の障子に人影が映る。
梅の枝伸びる格子模様の中、楚々(そそ)と歩む淡いシルエット。どうまかり間違っても、アナタという事はあるまい。きっと、青娥であろう。
障子戸の合わせ目の前、人影が歩みを止める。梅芳は急いで、寝乱れた着物を整え、呼吸を正す。後は、戸の開けられるのを、静かに待つのみだ。
「梅芳さん、起きて居られますか。」
「は、はいっ。」
「今、失礼しても…。」
「どうぞっ。」
予想した通りのもの柔らかい声がかかり、予想していたにも関わらず、梅芳は大いにうろたえた。
障子の向こうから再び、
「失礼します。」
と、静穏な声がかかり…いよいよもって、彼女の心臓の鼓動を急かし出す。そして…。
人影の肩が動き、手元が障子に近づく、それから…ぬっと、木製の盆、その上に乗った湯呑みが、障子戸を『すり抜け』現れる。
梅芳は目を丸くして、穴が開きそうな程、さもなくば、穴が開いていないかと障子に見入る。しかしながら、彼女の視線が障子を透り抜ける前に、盆を携えた青娥が部屋の中へすり抜けてきた。
自分へ向けられた皿の様な目付き。その有様に気付いた青娥の第一声は…、
「あら、横になって居ないと駄目ですよ。ほら、お布団も。」
長年の隠遁生活が祟ったのであろう。すっかり、人の表情を読み取るのが下手に成っている様だな。
青娥は枕元に腰を下ろすと、指の長い手で掛け布団の端を手繰り寄せる。そんな仙人さまの、『手ずから看病してやろう』というご様子に、梅芳は倒れ込みそうな勢いで恐縮して、
「い、いえ、このままで大丈夫です。本当です。私は、その…仙人さまに窺いたい事がありますから…。」
おそらくは青娥の方でも、その積りでこの部屋を訪ねたに違いない。嫣然微笑み、頷くと、畳の上に置いた盆を引き寄せながら、
「それでは、一緒にお茶を飲みながら…。あとは…ご好評だったと伺いましたので…また、この最中をお持ちしました。」
そう言われて梅芳は、口元へ手を当て、恥ずかしそうな笑い声を漏らした。
(あいつ、余計な告げ口を…。)
痩せても枯れても、流石はお嬢さまだ。お菓子を頬張ったなどと…言われたかは解からないが…噂されては、沽券に係るという事か。
彼女のそんな赤らんだ表情を、青娥は再び読み取り損なったらしい。
さも心配そうな顔で、梅芳の額に手を伸ばして、
「少し熱があるみたいですね。…やはり、横になって下さい。お話なら、身体を起こしていなくても出来ますよ。」
「横になったままお話するなんて…そんな失礼な真似、例え仙人さまが許して下さっても、私には絶対無理です。」
青娥は可笑しそうな微笑みを浮かべ、真剣な表情で首を振る梅芳の額から、すっと手を離した。
「私は構いませんよ。だから、どうぞ、横になって下さい。」
やんわりとした口調、それだけに…『この仙人さまは相当な頑固者だぞ』と、梅芳には伝わったらしい。参ったと言いたそうに、白い歯を見せ小さく苦笑い。
しかしながら、頑固者という点では梅芳だって負けてはいないだろう。何せ、不治の病を押し、海を渡り、歩き詰めで、遂にはこの家に辿り着いてみせたのだ。その『原動力』が傍で彼女を手伝ったからとは言え、並大抵の根性ではない。
少し困った様な青娥の表情。それでも梅芳は、もう一度、首を横に振る。
「本当に、私はこのままで大丈夫なんです。寝てばかりだから、ちょっと、肩が凝っていたくらいで…。えっと、さっき変な顔をしていたのは…仙人さまが障子をすり抜けていらっしゃったのを見て、驚いてしまっただけですから…。」
と、無論、必死に弁解する余りの事ではあるが…やや、非難めいた言い回しに成ってしまったか。
途端に、世俗を超越した女性の顔が羞恥に染まる。
「私ったらまた…。ごめんなさい。つい、いつもの癖が出てしまって…。その、今の術について、彼からは何も…。」
照れくさそうに、語尾を、言葉を濁す、青娥。
仙人さまのその様な表情を、梅芳は怪訝そうに見つめていた。…しかし彼女には、微妙な不自然さへ気を回す余裕などない。
背筋を伸ばし、病み衰えた身体に意志の根を下ろす。梅芳の顔色の変化を…今度は読み取れたらしく…青娥は同様の緊張感を持って迎えた。
たっぷり時間を掛け、一言目になる言葉を考えてから、梅芳が喋り始める。
「あいつ…いえ、彼から聞きました。『仙人さまは私の願いを聞き届けて下さった』と…本当でしょうか。」
問い掛ける彼女の顔は、疑念に満ちていた。…『嘘に決まっている』…そう決めつけるかの様に…。
不安そうに、じれったそうに、粘つく唇を舐める。そんな梅芳へ、青娥は湯呑みを差し出す。
湯呑みを満たす茶色、そしてこの香りで、それがアナタの淹れた甜茶だと解かる。
梅芳はまず口を開いて、何かを言いかけたが…。とにかく、青娥の手から湯呑みを受け取って、
「ありがとうございます。」
と、湯呑みに口を付け、乾いた舌を洗う。
そうして彼女が一息吐き、湯呑みを抱いた両手を下ろすのを見てから、青娥は答える。
「彼の言ったままですよ。不老長寿の術を学びたいとのご依頼、確かに、私はお受けしました。」
裏返した湯呑の蓋を茶托に立て掛けながら…。視線は畳の上へ落とされ、堂々と嘘を吐く事は出来なかった。
それでも、青娥から答えを得た梅芳は、少しだけ安心した様子で笑顔を浮かべる。
「そうですか…よかった…。」
湯呑みの中の水面に映る自分の顔。梅芳は笑い返すかの様に、笑みを深めた。
「でも、どうしてですか。」
彼女が納得していればそれで良さそうなものだが…。青娥は不思議そうに、屈託なく、空気の読めないところを発揮して、尋ね掛けていた。
質問の内容が漠然とし過ぎていただけに、そう訊かれた梅芳は、
「えっ、どうして…。」
やや混乱していた様であったが…そこは、まぁ、流石に仙人さまとは役者が違う。すぐ青娥の言わんとするところを察した様だ。
「あぁ、つまり、私があいつの言葉を疑ってかかった訳を、お知りに成りたいと…。」
事実、その通りに違いなかろう。しかしながら、そうもはっきり言葉にされると、恥ずかしい。
青娥は物見高さを言い当てられ、耳まで真っ赤にしている。それでも、
「梅芳さんさえ、よろしければ…。」
照れた様な微笑みを浮かべたまま、頷くともなく、おどけるともなく、小首を傾げて見せた。
そんな様子を、梅芳は少し意外そうな顔で見つめる。
(俗世との縁を断ち切り、厳しい修行に打ち込んで居られる。そんな仙人さまに…まさか、こんな可愛らしい一面があるなんて…。)
そう彼女が思ったのも無理からぬ事。だがしかし、如何にも『意外だ』と言いたげな瞳で見つめられていては、いつまで経っても、青娥の顔から血の気は引くまい…これもまた、無理からぬ事。
無論、梅芳にそれが解からぬ訳もない。さりげなく視線を湯呑みへ戻すと、小さく笑い声を漏らした。
「じーっと、私の顔を見るんです。彼…ううん、あいつで良いですよね。」
この意味を一刻も早く問いただしたいが…湯呑みを口元へ近づけた梅芳を見て…青娥は、グッと、言葉を飲み込んだ。…まぁ、仙人さまなりに、多少は、ご自身の威厳の事もお考えらしいな。
甜茶を三分の二ほど飲み干して、心地の良い吐息が零れる。梅芳は顔の傍でその香り楽しみつつ、話を継ぐ。
「あいつ昔から、嘘を吐くときはそうなんです。…私の顔を、じーっと見て、目を逸らさない。だから私には、あいつが嘘を言っているのか、そうでないのかがすぐに解かる。隠し事が出来ない人なんですよね、あいつは…。そう思っていたんだけど…。」
梅芳は瞼を大きく開いて、決然とした眼差しを青娥へ送った。
「仙人さま、私…。」
青娥は、ニッコリッと微笑み、やんわりと頷く。
「信頼しているんですね、彼の事。例え、それが嘘を吐いている証しでも…。」
一も二もなく、梅芳は頷き返していた。
自分も湯呑みを取り上げ、膝に置いて…それから、青娥が囁く様な声で、
「梅芳さんが羨ましい。こんなにも相手を強く思い、そして、相手からも思われている。もしも私の不老の時間で代えられるものなら、交換して頂きたいくらいです。」
(仙人さまが、羨ましい…。私が…病に蝕まれ、風前の灯火の…私の事が…。…だけど…。)
声にこそ出さなかったものの、梅芳は酷く驚き、胸中では幾度となく同じ言葉を繰り返している。
(信じられない…とても信じられない…。)
と、幾度も、幾度も…。
確かにそれは、梅芳からすれば冗談としても馬鹿馬鹿しい…否、冗談でない事がひしひしと伝わるからこそ、なおさら、筋違いに聞こえるのだろう。
眉間に皺を寄せ、やや不愉快そうな顔付きの、梅芳。対して青娥は、仙人らしからぬ姿を見せたのも一瞬、嘘の様に穏やかな表情で湯呑みの蓋へ手をかけた。
「それで…彼が嘘を言っているのであれば、当然、私もその嘘に加担している事になると…梅芳さんは仰りたいんですね。」
「えっ、あ…あの、そう仰りたい訳でも…。私はただ…。」
唐突に話題が元に戻って、梅芳はしどろもどろ。慌てた拍子に親指を引っ掛け、湯呑みをひっくり返しそうに成っている。
青娥は慌てふためく彼女をよそに、ゆったりと湯呑みの蓋を捲り、淑やかに一服。パニックが収まったのを見計らって、述べ出す。
「彼のお話は、一から十まで、全てが嘘でしたか。」
「いいえ、話の九分九厘は、本当の事を言っていました。」
考えるまでもなく、断言した、梅芳。彼女の見せたあまりの疑念のなさに、青娥の瞳は揺れて…どこか眩しそうに目を細める。
「そうすると、梅芳さんの不安はただ一点。私が貴女の願いを聞き届けたか、否か…。」
梅芳は頷きかけて、しかし青娥を見つめる視線を外せず、結局は、
「はい。」
緊張の気で擦れた声が喉から漏れ出た。
二人の足元まで伸びた日向は、いつの間にか遠のき、部屋の片隅で畳を照らしている。青娥は細めた瞳を閉じきると、手さぐりに湯呑み蓋を開けた。
「『私は本当に、貴女のご依頼をお受けしたんですよ』…と言っても、梅芳さんには信じて頂けないでしょうね。」
すぐに答えが返らないのは承知の上で、ゆっくり、ゆっくり、湯呑みを傾けて待つ。
目を閉じ、湯呑みで口を塞ぐ。仙人さまのその配慮に、梅芳は…俯く事しか出来ない。一縷の希望を手放せというのは、年若い彼女には酷というものだろう。
甜茶で喉を潤し、吐息を口の中でかき消して、青娥は冴え冴えとした瞳を開く。
「私は知っています。貴女が死を覚悟の上で…命懸けで不老長寿の術を得ようとしていると…。でも、彼にはそれが…貴女の命を大切に思うあまり、貴女を一日でも長く生かそうと思うあまり…見えていない。彼は、貴女の体力が戻り次第、貴女を大陸へ連れ帰りたいと考えています。自分が説得すれば、貴女は解かってくれると…。」
青娥の瞳に映る頼りなげな顔。だが、その目には涙はなかった。
彼女の芯の強さに感心したかの様に、微笑みつつ、青娥は続ける。
「体力が戻らない限り、行を始める事は叶わない。それは本当です。一方で、その体力を故郷に帰る為に費やしたなら…貴女はきっと、生まれ育った家で最後の時を迎えられるはず…。私はその両方を彼に伝えました。」
「…そうですか。なら、あいつには天秤に掛けるまでもなかっただろうな。義理堅いんですよね。昔から…。父さんを裏切る様な真似をさせた事は…申し訳なかったと、私も思っているんです。」
カチリッと、湯呑みに蓋をする音が響く。青娥は湯呑みを持ち、茶托を盆から拾い上げる。
「梅芳さんへ真実を明かしたこと、彼には伝えずに置きます。だから、貴女の思う通りに…あくまでも、不老長寿の術にこだわるもよし…あるいは、知らぬ振りをして、彼の言う通り故郷へ帰るのも良いでしょう。よく考えてみて下さい。悔いの残らぬよう…。こちらには、いつまででもご逗留いただいて構いません。それに…。」
湯呑みと茶托を抱えたまま、やおら腰を上げて、
「それが貴女の決断であれば私も、行の伝授を拒みはしませんので…。私はこれで失礼します。最中、食べて下さいね。」
立ち上がり、枕元を離れていくところまで、青娥はほとんど音をさせなかった。
そんな仙人さまのたおやかな所作に、言葉に…後ろ姿を追う梅芳の眼差しは、気後れを隠せない。しかし…、
「仙人さまっ。」
呼び止められた青娥の足元で、ミシリッと、畳が音を立てた。
「仙人さま、どうか教えて下さい。私に体力が戻り…残された時間を全部、その行の為に使ったとして…私は、不老長寿を得られますか。」
庭の方から聞こえる鶯の鳴き声が、一層、この部屋の静けさを際立たせる。青娥は静謐な空気に身を任し、スッと、音もなく梅芳へ振り返って、
「それは、私にも解かりません。でも、一つ言えるのは、『不老長寿を得るのに、充分な寿命を持った人は稀』だという事です。人によって行を始めたその日、得られるかも知れません。またある人は、何年、何十年と行に打ち込み、それでも得られない。私が未だ、行を修められずにいる様に…。」
「えっ、だけど、仙人さまは…。」
そう疑問の声を上げる梅芳へ、首を縦に振ったものか、それとも横に振ったものか…青娥は少し思案してから、
「いいえ。」
と、まず首を横に振って答えた。
「仙人と言われる私ですら、まだまだ行の途中。あと一歩のところ…そんな気配を身の内に覚えながら、その一歩を踏み越えられず、早幾十年が経ちました。もしも数年の内に行を修める事が出来なければ…ある朝、死神の目を誤魔化していた時間が、一気にこの身を蝕むでしょう。そして、老い、朽ちた私は、二度と目覚めはしない。私に残された時間も、言ってしまえば、梅芳さんとそう変わらないんですよ。それだから、不老不死を望む貴女の気持ちも解かりますし、余生を穏やかに過ごしてもらいたい、彼の気持ちも解かるんです。」
驚きを隠せない梅芳へ、『残された時間が、お前と変わらない』と伝えた時と同じ、健やかな笑顔で応える。そして青娥は…やや口元に余韻を残しつつ…障子の方へ。
その背中を見つめる内に梅芳は、『羨ましい』と言った彼女の心が、喉元を過ぎ、腑に落ちた様な気がした。
だが…喉にはまだ、奇妙な感覚が…何となく、そのまま飲み下せない様な違和感が残っている。
梅芳は違和感を押し殺そうと、俯き、首を抑え…。しかし、遂には堪え切れず、今しも部屋を出て行かんとする青娥へ、言葉を投げかけた。
「仙人さま、仰いましたよね。『私は命懸けで不老長寿を得ようとしている。拘っている』と…。」
そこまで言ってから、梅芳は顔を上げる。あわよくば、青娥がすでに部屋を出ているよう、期待しながら…。
青娥は畳を踏む足音もさせず、振り返りもせず、その場に留まっていた。
思わず口にしてしまった言葉を、さんざんぱら後悔する、梅芳。それでも、言い出した事を撤回しようという気はないらしい。首を抑えていた右手を下ろし、話し続ける。
「確かに私は、命を懸けてでも不老長寿が欲しい。そのためなら、残された時間を無為に捨てるのも厭いません。覚悟は…。生まれ育った家を出た日、二度とここへは戻れないと…覚悟して来ました。でも…。」
左手で掴んだ湯呑みから、チャプンッ、チャプンッと、水音が立つ。数秒、その水音が、ざわつく心が収まるのを待って…だが結局、収まりのつかぬまま梅芳は呟く。
「私はあいつと一緒に生きたい。不老長寿だって、あいつと一緒でなければ…何の意味もないんです。だから、あいつが私を連れ帰りたいと言うのなら、不老長寿を他人事だとしか思えないのなら…。私には自分を強いてまで生きる理由がありません。…あいつと一緒に大陸へ帰ります。だけど、諦めた訳じゃありませんから…。私、病弱だけど、結構芯は強いんです。必ず、あいつの事を説得して、二人一緒で仙人さまに修行を付けて頂きます。必ず…。」
ギュッと、拳を握りしめるかの様な、力強い一言一言。不思議と、湯呑みを揺らす震えは収まっている。
彼女の意気込みを背中に受けた青娥は、今度は振り返ろうとせず、軽く頭を下げただけであった。
入って来た時と同じ様に、仙人さまが障子をすり抜け部屋を出て行く。そのどこか儚げな後ろ姿を見送って、梅芳は大きな溜息を吐き出す。
(私、何であんな事を言っちゃったんだろう。『あいつは説得してみせます。お世話になります。』の二言で充分だったのに…仙人さま、気を悪くしたんじゃないかなぁ。最後、こちらを見ないで出て行かれたし…。はぁ…。どんな積りだったんだろう、さっきの私…。)
一人取り残された気だるい空気の底。居た堪れず、何とはなしに障子から逸らした目に映る、最中。
梅芳はその一つを拾い上げ、淡々と包み紙を引き千切り、中身を口へ放り込んだ。
(美味しい…。でも皮がパサパサして、喉に詰まって、まるで…。)
仙人さまの目の前でなければ、作法もへったくれもない。梅芳は手荒く湯呑みを掴み上げると、喉に、胸に残った『わだかまり』を、甜茶で深く飲み干した。