恋い焦がれた空の青さを覚えている。
瓦礫のすき間から空が見えた
雲一つもなく、青く澄んだ空だ。
「う……うう……」
倉田叶は呻きながら、周囲の状況を確認しようとした。
しかし、ろくに身体は動かない。
どうにか首だけを動かして、あたりの様子を確認した。
瓦礫が自分の周囲を埋め尽くしているのがわかった。鼻腔を刺激するのは、何かが焦げた匂いだ。
コンクリートから鉄筋が覗いているものもあれば、マネキンや衣類が転がっていた。
叶が数分前に目にしていた光景と、今は何もかもが違う。
――なんでこんなことに。
記憶の糸をたどり始めた。
高校二年生に進級して最初の土曜日、幼なじみの白原六花の都合がつかなったため、一人で都内に遊びに来ていた。雑誌で見かけたオシャレなカフェや雑貨屋などに立ち寄り、最後にこのショッピングモールに足を運んだ。
――それから……いくつかの店舗を回って。
そこで記憶がとぎれていた。
いや、違う。
すぐに否定した。
思い出せ、自分は何を見た? 何を体験した?
断片化され散らばった記憶のかけらをかき集めて再構成する。
記憶が徐々に戻り始め、ぼんやりとした映像が頭の中に浮かぶ。
――確か……。
ショッピングモールのエントランスのベンチに腰掛けて、休憩していた。次にどの店をみようかと考え、エントランスから見える店舗を眺めていた。
気になる店を見つけて立ち上がったときだ。
轟音が聞こえた。それと同時に自分の身体は背後からきた衝撃に吹き飛ばされた。
意識がとぎれる前にみたのは、赤い炎と立ち込める煙だった。
「爆発?」
記憶している事実から、発生した現象を想像した。
「と、とにかくここから抜け出さないと」
叶の周りは立ち上がることはできないが、中腰でなら動けるだけの空間があった。
右手を突いて、身体を動かそうとしたが、動けなかった。何度も何度も試みるが、ダメだった。自分の身体がピクリと動かない。
「さっきから足の感覚が……」
違和感を覚えた。
ゆっくりと視線を動かす。
事実を確認したことを後悔した。
自分の推測通り爆発に巻き込まれたとしても、意識を取り戻してから痛みがまったくなかったため、自分は軽傷で済んだのかと思っていた。
しかし違った。
視線の先では、両足がコンクリートに無惨にも押しつぶされていた。それだけではない、明瞭になった意識が、叶の置かれた状況を認識し始めた。彼女の左半身も瓦礫に押しつぶされ、左脇腹には鉄筋が突き刺さっていた。
自分の身体に起きた状況を理解しても叶の口から悲鳴は洩れなかった。
代わりに乾いた笑いが出た。
「あはは、これじゃあ、もうダメだ」
両足、左半身の負傷、ここから自分は脱出することができない。
悲鳴をあげなかった理由は諦めだった。自分はもう助からない。泣こうが喚こうが、助けを呼ぼうが、もう間に合わない。
不幸中の幸いともいえるのが、痛覚が役割を放棄しているのか、痛みがないことだ。
痛みがあれば、まだ痛みを理由に叫ぶことができただろう。痛みを感じてることで、生きてることを実感できただろう。
痛みがなくてもわかる。自分は間もなく自分は死ぬ。
何も出来ず、終わりを迎える。
絶望を前にして、叶は涙を流した。
泣き声を必死に抑える。
泣いても何も変わらない。
右手で一筋の涙を拭い、アスファルトに右手をおいた。
粘着質な感触が返ってきた。
感触の正体を想像できたが、掌を確認した。
べっとりと赤色がこべりついていた。自分の想像通り、血だった。それもおそらく自分の傷口から流れ出た血液だろう。
「あーあー、ホントにもう死を待つだけじゃない」
事実を認識しても叶は、思いの外、冷静だった。死に直面して涙は流れ続けているが、理性をどうにか保てている。
全身に力が入らなくなってきた。
最期の時が確実に近づきつつある。
藻掻くこともできない叶は、一つ疑問を持った。
――私はなにを残せたんだろう。
倉田叶は十六年と数ヶ月の人生を歩んできた。しかし、振り返ったとき、自分はいったいなにが残せたのだろうか、なにを成すことができたのだろうか。
考えて、考えて、考えた。
答えが出た。
何も残せていない。
何もない。
自分がこのまま死んでも、両親や幼なじみ二人に一時の哀しみを与えるだけだ。
その哀しみが癒えたころに、過去形で自分のことを語られるに過ぎない。
考えついたときに、こみ上げてきた気持ちがある。
恐怖だった。それは死の恐怖とは違う。
誰もがいずれ自分を忘れる。
忘却されることの恐怖だった。
何もできないまま、自分の人生が終わる。
「いやだ……いやだ……!」
気づいたときには叶は叫んでいた。
これまで人と同じ人生を歩んできた。これからもそうだと思っていた。高校を卒業して、大学に進み、就職し、いずれ誰かと結婚する。子供が産まれて、歳を重ねて、やがて死を迎える。
平凡に人生の幕を降ろすと思っていた。
けど、たまたま、今日、この場所に来ただけだ。
たったそれだけのことで自分は死ぬ。
「これが運命だというの? 私はこのまま死ぬの?」
運命なんて信じていなかった。
だけど、今の自分の状況はどうだ?
確実な死の影が迫っている。これが偶然か? これが運命か? どちらだとしても、あまりにも理不尽ではないか。
きっと明日のニュースでは、死者数というカテゴリに、自分が含まれて報道される。
嫌だ。
死にたくない。
気がつけば、叶は血に塗れた右手を、瓦礫の隙間から見える青空へ伸ばしていた。
それはまるで何かを掴むように。
それはまるで何かを望むように。
それはまるで何かを得るように。
それはまるで――果てなく青い空に嫉妬するように。
まだ死にたくない。
意識が遠くなってきた。
まだ生きていたい。
身体の力が抜けてきた。
「わたしは……まだ……」
倉田叶の手は、何も掴めないまま、アスファルトへ力なく落ちた。
声がした。
生命の灯火が消える、その刹那に声がした。
「生を渇望するものよ」
声は叶の頭に響いてきた。
死に逝く自分が生んだ幻聴だと思った。
しかし、声は続けた。
荘厳な声だ。
「消えゆく生命に代わり、新たな生命が欲しいか?」
声の提案はとても魅力的だった。叶でなくとも、死に直面した者であれば、この提案はどれだけ素晴らしいものか、想像するのは容易だ。
新たな生命……それを得ることができれば、自分はこの先も歩み続けることができる。何もできなかった日常を変えることができるかもしれない。
そして、なにより、死にたくない。
絶対的な死を回避できる。
けど、疑問がある。
――誰?
その叶の心を見透かしたように、
「我は、貴様等人間が、神と呼ぶ者だ。さあ、選択しろ、死に逝く少女よ。そのまま死を受け入れるか、我と一つの契約をし、新たな生命を得るか」
問いかけ。
死ぬか生きぬか。
叶はその問いに対して、一つの答えを出していた。
考えるまでもない。
自分はこのまま死にたくない。
どんなことをしても、しがみついて、生きていきたい。
叶を突き動かすのは、強欲な生存欲だった。
『神』というものの契約が何かわからない。
でも、迷うことはなかった。
だから、
「私は――」
自らを神と呼ぶ存在に応えた。