◆噂
――私には、何も無い。
いつ頃からそう感じるようになったのかは分からない。とにかく私は空っぽな人間だ。
だから誰にでも染まるし、誰にも交わらない。
高校に進学する前、そんな私を『彼女』は笑いとばした。
「いやいや、そりゃ無理でしょ!私はあんたのこと友達だと思ってるし!」
※
(……暇。)
少し薄暗くなってきた午後4時の7限目。
気だるげにチョークで黒板に字を書き連ねていく教師。
私、桐島 藍はノートに力の抜けた字を書いていく。
何となく辺りを見渡すと、私の斜め前男子の背中にぼんやりと癇癪をおこしたような猿が見えた。多分、この男子の機嫌はかなり悪い。
猿の動きに合わせるかのようにシャーペンでノートを突いている。
どういうわけか、私には人の心を読むことが出来る。もっとも、その場で最も強い感情が、動物を模して私の目に見えるだけだが。
「藍、藍。」
…今私の背中を小突いている、一人の男子生徒を除いては。
「…何?」
「帰りに『fool』に行かないか?奢るからさ。」
なるべく迷惑そうに見える顔をつくり振り向いたが、彼は笑みを浮かべたままだ。
鏑木 洸太 (かぶらぎ こうた)。
笑顔でない時が珍しい程陽気で、クラスでも中心的な男子。誰とでも分け隔てなく接し、言ってしまえば典型的な人気者だ。ただ1つ違うのは…
(ほんと、何を考えてるのか…。)
彼の心、つまり私が見える動物のイメージが微動だにしない山椒魚のような黒い『なにか』なのだ。私の今までの経験上、ピクリとも動かないイメージは見たことが無い。
「分かった。じゃあ、放課後に『fool』ね。」
「やった、何気に初デートだ!」
感情が読めないのは不気味だ。彼は何を思ったのか、数日前に彼は私に告白をしてきたのだ。
※
『fool』というのは、私達の学校近くにある喫茶店の事だ。日本語に訳すと『愚者』。
『愚者』の名はどうやらタロットに由来しているらしく、定番の珈琲や軽い洋食ばかりでなく、頼めばラーメンやステーキ、果ては寿司までも出てくるという名に恥じぬ自由振りだ。
「…でさ。」
アイスコーヒーを注文しなんとなしに外を眺めていると、洸太が話を切り出してきた。
「ん?」
「『神隠し』、って知っているか?」
『神隠し』――
一般的に突然人が消えることであり、天狗等の仕業とされる迷信の一つ。しかし、今の私達には特別な意味を持つ。
「……月に数回、夜中12時に生き物が闇に消える、っていうあれ?」
「うん、それそれ!」
洸太は嬉しそうに私を指差す。
唯の噂ならすぐに忘れ去られるだけだが、1つの事件が噂の信憑性を高めた。
『校長の目の前で校長のペットである犬が消えた。』
校長は厳格な人格で、このようなオカルト染みた噂に強い嫌悪感を抱くような人物だ。それが青い顔をして生徒に注意を促して以来、生徒間で様々な憶測が交わされている。
「それなんだけどさ、謎が解けたかも知んないんだよ!!」
いつの間にか来ていたアイスコーヒーを飲みながら、満面の笑みで私に熱弁を振るう。
「と、言うと?」
「…あー、まぁ俺が見つけたんじゃないけどさ。藍も検証作業ってやつ?手伝ってくれないか?藍って頭良いだろ?」
突然の依頼に、私は少し間をおく。そして…
「ん。良いよ。」
考えも無しに返事を返す。正直、この噂に関して私には不安も好奇心も無い。ただ、洸太の彼女という建前、参加しておいた方が普通かと思っての返事だ。
「マジで!?サンキューな!多分明日の放課後で」
私の思いを知ってか知らずか、1人で盛り上がる洸太。しかし、その後ろに浮かぶ山椒魚の様なそれはじっと動かないままだった。
ある、小さな住宅街。
物音1つ立たない中、4本の足で駆ける猫がいた。目的もなく駆けているわけでない、本能的に危険を感じたからだ。
「……………ッ!!」
公園に差し掛かった頃、猫が感じているらしいソレは、微かに空気を揺らす。
――木々が、揺れる。
……ひた、ひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひた………!
ソレは、足音のような音を立て、猫を包み込む。
――公園の時計は、12時を指していた。