聖女の妹に婚約者を譲れと言われたので、私は祈りの記録係を辞めます――誰も、奇跡が起きる条件を知らなかったようですが
「お姉様。アルベルト様を、私に譲ってください」
妹のエミリアは、祈る時と同じように胸の前で両手を組んで言った。
父と母は気まずそうに目を伏せていた。私の婚約者であるアルベルトだけは、真っすぐに私を見ている。
その顔に罪悪感が浮かんでいなかったことが、何よりありがたかった。
「分かりました」
私が答えると、四人が同時に息を呑んだ。
反対されると思っていたのだろう。
「本当にいいのか、リディア」
父が念を押した。
「はい。聖女となったエミリアには、伯爵家の跡継ぎであり、神殿騎士でもあるアルベルト様がお似合いです」
「そう言ってもらえると助かる」
アルベルトは安堵したように笑った。
十年前、私たちが婚約した日に見た笑顔と、よく似ていた。
私が十五歳、彼が十七歳の時だった。私は花嫁になる日を想像して眠れず、翌朝ひどい寝不足で彼に笑われた。
思い出は、別れを拒む理由にはならない。
「ただし、一つだけ条件があります」
「何でしょう、お姉様。私にできることなら、何でもします」
「明日から、聖女付き記録係を辞めます」
今度こそ、部屋から音が消えた。
「……なぜ?」
エミリアが目を瞬く。
「婚約者を譲ることと、仕事を辞めることに、何の関係があるの?」
「同じ理由です。もう私でなくてよいからです」
聖女付き記録係。
そう呼べば、何か立派な役職のように聞こえる。実際に私がしているのは、エミリアの隣で祈りの時刻や天候、体調、祈祷文、香の種類、祭具の配置、参列者、奇跡の有無と範囲を紙へ書きつけることだった。
聖女のように病を癒やすことも、神殿騎士のように剣を振るうこともない。
誰にでもできる、地味な仕事だ。
少なくとも、家族はそう思っていた。
「待ちなさい」
母の声が強くなった。
「婚約のことなら謝るわ。でも、エミリアにはあなたが必要なの。あの子のためを思うなら――」
「必要なのは姉ですか。それとも記録係ですか」
母は答えなかった。
代わりにエミリアが、幼い頃から変わらない柔らかな声で言った。
「お姉様は、ずっと私の隣にいてくれると思っていました」
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
私は妹が嫌いではない。
むしろ大切だった。
エミリアが七歳で聖女の力に目覚め、初めての祈りのあと三日間も熱を出した時、私は一晩中手を握っていた。次の祈りで倒れないよう、何が違ったのかを知りたくて記録を始めた。
あれから十年。
妹が倒れる回数は減り、奇跡の届く範囲は広がった。
私はそれを、自分の喜びだと思っていた。
「私も、そう思っていました」
過去形にすると、エミリアの顔が歪んだ。
「ですが、アルベルト様もずっと私の隣にいてくださると思っていたのです。どちらも私の思い込みでした」
「私は君を捨てるつもりではない」
アルベルトが口を挟む。
「婚約は解消するが、君はこれからもエミリアの姉だ。私たちを一番近くで支えてほしい」
あまりに自然な言い方だったので、思わず笑いそうになった。
妻にはしない。
けれど、妹と自分のために働き続けてほしい。
十年分の約束を手放す人が、十年分の献身だけは今までどおり受け取れると思っている。
「アルベルト様。婚約者でなくなる男性の結婚を、すぐそばで支えるほど、私はできた人間ではありません」
彼は初めて、傷ついた顔をした。
私が傷つく可能性には、今まで思い至らなかったらしい。
「後任が困らないよう、手引書は作成してあります。過去十年分の記録とともに、明日の朝、神殿へ引き渡します」
「その後はどうするつもりだ」
「北部の診療院で、記録官を募集しています。住み込みです」
実を言えば、返事も荷造りも済んでいた。
家族に呼び出される三日前、アルベルトから「大切な話がある」と告げられた時には、もう結論は見えていたからだ。
エミリアを見る彼の目を、私は十年間、記録しないように努めてきた。
記録係にも、書かないことくらいはある。
「明日の馬車で発ちます」
「そんなに急に?」
「十年かけて決めましたので」
それきり、誰も私を引き止められなかった。
◇
北部の町リネアは、王都より春がひと月遅い。
到着した日の朝、道の端にはまだ汚れた雪が残っていた。
診療院は古い修道院を改築した建物で、壁には蔦が這い、扉を開けると薬草と煮込み料理の匂いがした。
「あなたが王都から来た記録官?」
出迎えた院長は、白髪を頭の上で乱雑に束ねた女性だった。
「リディア・セルヴァと申します。本日から――」
「挨拶は食べながらでいいわ。朝食は?」
「馬車の中で、少し」
「それは食べたうちに入らない。マルク、パンをもう一つ!」
奥から「はいよ」と男性の声が返った。
私の新しい生活は、固い黒パンと豆のスープから始まった。
診療院に聖女はいない。
いるのは三人の医師と、六人の看護師と、薬師が一人。それから、何にでも手を出すため誰も正確な役職を知らないマルクという男だった。
「一応、領主の次男です」
彼は皿を片づけながら言った。
「一応、とは?」
「兄が健康なので、ここでは肩書が役に立ちません。薪割りと荷運びなら役に立ちます」
栗色の髪を無造作に切った、よく笑う人だった。
私より二つ年下だという。
「それで、王都の記録官殿は何を記録するんです?」
「必要なものを、すべて」
「怖い答えだ」
けれどマルクは笑ったまま、診療院中の帳簿を私の机へ運んだ。
私は、患者の年齢、症状、薬、食事、睡眠時間、井戸水を汲んだ場所、家畜との接触、発症した日を一つの書式にまとめた。
書類仕事が増えると、最初は皆に嫌がられた。
それでも一月後、東通りで腹痛を訴える患者が相次いだ時、共通して同じ井戸を使っていると分かった。井戸を閉鎖すると、新しい患者は出なくなった。
二月後、ある薬を飲んだ子どもだけに発疹が多いと分かり、処方が変わった。
三月後、鉱山で働く人々の咳が、働いた年数に応じて重くなっていると分かった。
奇跡は起きなかった。
けれど、病人は減った。
「記録というのは、未来の人間に渡す手紙みたいなものですね」
ある晩、マルクが帳簿を綴じながら言った。
「手紙?」
「ええ。今の私たちが分からなかったことも、次に読む人なら分かるかもしれない。少なくとも、同じ間違いはしなくて済む」
私は糸を通す手を止めた。
十年間、祈りを記録してきた。
けれど家族も神官も、私の帳面を妹の奇跡に添えられた影のように扱った。
初めて、その影を見てくれた人がいた。
「変なことを言いました?」
「いいえ」
私は帳簿へ視線を戻した。
「返事の必要がない手紙だと思っていましたので、少し驚いただけです」
「では、私は運のいい受取人ですね」
マルクはそう言って、私が記した文字を大事そうに指でなぞった。
王都から最初の手紙が届いたのは、その翌日だった。
◇
『姉様。お願いです。手引書の意味を教えてください』
エミリアの文字は、最後の方になるほど乱れていた。
私が辞めて二月後、大聖堂で行われた祈りが失敗したらしい。
失敗といっても、奇跡がまったく起きなかったわけではない。祈りに参加した三百人のうち、癒やされたのは前列の二十人だけ。エミリアは祈りの最中に意識を失い、三日間寝込んだという。
原因を調べるため、神官たちは私の記録を開いた。
そこには十年分の数字があり、手引書にはこう書いてあった。
『聖女の体温が平常時より半度以上高い場合、銀の祭具を用いてはならない』
『雨天時、青の香は使用しないこと』
『参列者が二百人を超える場合、祈祷文第三節を省略し、聖女の正面ではなく四方に聖晶を置くこと』
どの注意にも、日付と記録番号を添えておいた。
神官たちは、それを単なる私の好みだと思ったらしい。
エミリア本人さえ、祭具や香が毎回違うことに気づいていなかった。
『姉様は、奇跡の起こし方を知っていたのですか』
私は返事を書いた。
『知りません。起きやすかった条件と、起きにくかった条件を記録しただけです。手引書の項目には根拠となる記録番号を添えてあります。まずは該当する記録を読んでください』
冷たい返事だと思った。
それでも、戻るとは書けなかった。
私がいなければ妹は困る。
そう知ることを、心のどこかで望んでいた自分がいる。
しかし、困らせ続けることが望みではなかった。
私は手紙に一文を書き足した。
『記録を読んだうえで分からない点があれば、質問には答えます』
マルクに手紙を託すと、彼は封筒を見て尋ねた。
「帰らなくていいんですか」
「帰ってほしいと言われているわけではありません」
「では、もし言われたら?」
すぐには答えられなかった。
王都には家族がいる。
十年を過ごした神殿があり、エミリアがいる。
そして、私がいなければ回らない仕事がある。
「分かりません」
正直に言うと、マルクは少し考えた。
「帰る理由が、必要とされたから、だけなら」
彼はそこで言葉を切り、封蝋が乾いたのを確かめた。
「ここでも、あなたは必要とされています。それは覚えておいてください」
慰めるような声ではなかった。
私が井戸の異常を見つけた時と同じ、確認できた事実を告げる声だった。
その言葉を、私は胸の奥へしまった。
◇
王都からは、その後も手紙が届いた。
最初はエミリアから質問が来た。
なぜ満月の翌日は祈りの時間を短くするのか。
なぜ同じ祈祷文でも、冬は窓を一つ開けるのか。
なぜ赤い花を祭壇に置かなかったのか。
私は記録番号とともに答えた。
やがて質問は減り、代わりに報告が増えた。
『今日は自分で過去の記録を調べました』
『新しい記録係と相談して、祈りを延期しました』
『延期したことで怒る方もいましたが、倒れずに済みました』
妹は少しずつ、自分に起きている奇跡を自分で知ろうとしていた。
両親からも手紙が届いた。
『お前の仕事を軽く考えていた』
父はそれだけを書いた。
母の手紙は長かったが、要点は同じだった。
私は二人を許すとも、許さないとも返さなかった。
後悔したからといって、過去が別の出来事になるわけではない。
ただ、気づいたことまで無価値にする必要もない。
『今後、記録係の仕事に正当な俸給と権限を与えてください』
そう返した。
アルベルトからの手紙だけは、一度きりだった。
『君が私たちのためにしていたことを、何も分かっていなかった。今でも身勝手だと承知しているが、戻ってきてほしい』
私は三日考え、短く返事を書いた。
『あなたが惜しんでいるのが元婚約者なのか、有能な記録係なのか、ご自分で区別がつくようになってから、もう一度お考えください』
二度目の手紙は来なかった。
代わりに一年後、エミリアから結婚式の招待状が届いた。
私は欠席に印をつけた。
嫌がらせではない。
その日は、鉱山で働く人々の診察記録を領主会議で報告する日だった。
診療院の記録から、鉱山の粉塵と病気の関係が認められ、換気設備と覆面の導入が決まった。
会議を終えて外へ出ると、雪が降っていた。
「終わりましたね」
待っていたマルクが、私の肩へ外套を掛けた。
「始まったところです。設備を入れたあと、症状が減ったか確認しなければ」
「やはり怖い人だ。奇跡が起きても、記録が終わらない」
「奇跡ではありません」
「私には奇跡に見えますよ。五年後、十年後に病気になるはずだった人が、ならずに済むかもしれない」
降り始めた雪が、彼の髪に白く積もっていく。
「目に見えない奇跡ですね」
「あなた向きでしょう?」
マルクが差し出した手を、私は見つめた。
この一年、彼は何度もそうしてくれた。
馬車から降りる時。凍った道を歩く時。疲れて机で眠り、目を覚ました時。
いつも、私が自分で立てると知ったうえで差し出される手だった。
私はその手を取った。
「結婚を申し込んでもいいですか」
握った手にわずかに力を込めながら、彼は夕食の献立でも提案するような何気ない口調で言った。ただし、私の返事を待つ指先だけは、少し緊張していた。
「今、この場で?」
「今日のあなたは機嫌がよさそうなので」
「記録していたのですか」
「一年分。笑った回数も数えています」
「気持ちが悪いですね」
「ひどい」
私は笑った。
「ですが、その記録は見てみたいです」
彼の手に、少しだけ力がこもる。
「それは、期待しても?」
「記録を確認してから判断します」
「あなたらしい返事だ」
並んで歩き出すと、雪の上に二人分の足跡が続いた。
◇
さらに一年後、エミリアがリネアを訪れた。
神殿の豪華な礼装ではなく、旅用の地味な服を着ていた。アルベルトの姿はない。
診療院の記録室で向かい合うと、妹は何度も膝の上の手を組み直した。
「結婚、おめでとう」
「ありがとう。お姉様も、婚約されたと聞きました」
「ええ」
「おめでとうございます」
「ありがとう」
会話が途切れた。
以前なら、私が続きを探していただろう。
今は待った。
「私、お姉様に謝りに来ました」
エミリアは顔を上げた。
「アルベルト様のことだけではありません。私、自分が祈れば奇跡が起きるのだと思っていました。お姉様が隣にいるのも、当然だと思っていました」
「あなたが祈らなければ、奇跡は起きません」
「でも、私だけでも起きなかった」
妹の手には、小さな帳面があった。
「今は毎日、自分でも記録をつけています。まだ、お姉様のようにはできないけれど」
差し出された帳面を受け取り、私は最初の頁を開いた。
祈った時刻。天候。体温。食事。使用した祭具。香。参列者。結果。
私の書式を基にしながら、最後に『祈っている時に感じたこと』という欄が加えられていた。
そこには、数字にならない聖女自身の感覚が、丁寧に記されていた。
私には書けなかった記録だ。
「よくできています」
エミリアの目から、大粒の涙が落ちた。
幼い頃、熱を出した妹の手を握った夜を思い出した。
泣く妹の肩へ手を伸ばしかけ、私は一度止めた。
許したから抱きしめるのか。
姉だから、また支えるのか。
それとも、私がそうしたいのか。
答えを確かめてから、妹の隣へ座った。
「ただし、改善できる点が三つあります」
「三つも?」
「まず、体調の『普通』は記録になりません。睡眠時間と食事量を――」
「お姉様」
泣きながら、エミリアが笑った。
「相変わらずですね」
「あなたも、相変わらず泣き虫です」
今度は私から、その背中へ腕を回した。
妹が私の仕事を必要としたからではない。
私が、妹をもう一度抱きしめたいと思ったからだ。
その日の記録には、こう書いた。
『二年ぶりに妹と会う。過去の未解決事項について謝罪を受ける』
そこまで記して、少し考える。
私は一行を書き足した。
『姉妹としての関係を、最初から作り直すことにした』
記録は、過去を変えない。
けれど、次に何をするかは変えられる。
そして空白だった次の頁には、もう新しい日付が記されていた。




