「三月ともたない男だ。喪服を持って嫁げ」と父に言われましたので、喪服は箪笥の底へ、旦那様は百年先まで生かします――三月目の春、喪服はお父様へお返ししました
「三月ともたない男だ。喪服を持って嫁げ」
父はそう言って、黒い服を私の膝へ放った。絹だ。畳み目は古い記憶のように崩れ、袖口がそこから音もなく滑る。触れた指先から、冬の水に浸したような冷たさが腕へ這い上がってきた。ずっと前から、私を待ってどこかにしまわれていた喪の色だ。
薬種商の帳場から呼び戻されたのは、この縁談のためだ。相手は、名を紙の上でしか知らない伯爵。店に染みついた乾いた薬草の匂いが、まだ袖に残っている。
私はイルメラ、二十八歳。王都の薬種商で八年、薬を量ってきた薬師だ。
子爵家の長女が店で薬を量っていたことは、縁談の書付に無い。紙の上の私は、手を汚したこともない娘なのだろう。
夫が死ねば、妻は寡婦料を得て実家へ戻れる。子が無ければ、その金は生家の物になる。生きて嫁ぐ私より、喪に服す娘の方が役に立つらしい。
寡婦料が目当てだ。
「三月で寡婦だ。寡婦料は、この家へ持って帰れ」
「お加減は、どのようでございますか?」
「知らん。寝ついたきりらしい」
「お薬は、どなたがご用意を?」
「そんな話はどうでもいい。わしが聞いたのは、三月という話だけだ」
父に値を付けられるのは、初めてではない。店へ出したのもあの人で、八年の給金は、この家へ送った。八年、私の値打ちは量った薬の目方で定まり、今日は寡婦料で決まる。帳場では、秤さえ正しい所で止まれば、誰も文句を言わなかった。けれどこの家では、重さの話をしてはいけない。黒い絹の上で指を組むと、冷たさが爪の根にたまる。積み重ねた手つきだけは、誰にも取り上げられない。
「承知しました。では、喪服を持って嫁ぎます」
「ああ、それでいい」
「お日取りは、いつでございますか?」
「初雪の日だ。もう決めた」
父の指が、乾いた音を立てて卓を叩き、ぴたりと止まる。話は済んだ、という合図だ。八年前、私を店へ出す日にも、同じ響きが耳の底に残っている。
「持って行く物を申し上げます」
「もう、好きにしろ」
「薬箱も、持ってまいります」
「向こうで薬師の真似はするな。恥だ」
「恥には、蓋を」
父はもう、こちらを見ていない。私は喪服の畳み目を整え、旅の箱の底へ収める。その上に薬箱を載せて蓋を閉めると、秤と匙と薬袋が暗がりで小さく鳴った。黒い絹の冷たさの上に、よく知った仕事の音が重なる。
◇
初雪の日に嫁いだ。馬車を降りると、暮れかけた空から白い粒が肩へ落ち、息はすぐ淡く曇る。玄関から寝室まで、蝋燭の火は細く、すれ違う者は誰も私と目を合わせない。この家の者は、次の喪の日を待つことに慣れている。
誓いの言葉は、寝台の脇で交わした。伯爵は立つことも、身を起こすこともできない。寝具の白さが、頬の色をさらに薄く見せている。
レオポルト・ラインフェルト伯爵、二十九。痩せた顔で、唇だけが色を失っている。声は低く、息のたびに寝間着の襟がかすかに揺れる。枕元には侍医の処方書と、湯気の細い湯呑み。紙の字は読める。柳の皮、甘草、蜂蜜。薬草の苦い匂いが、冷えた空気に混じっている。生まれつき心の臓が弱い、と縁談の書付にはある。この冬、侍医が三月と見立てたことも。
「妻を娶っても……三月で……寡婦にするだけだ。……。喪服は?」
「持ってまいりました。箪笥の底に入れます。喪服の出番は、百年先ですわ」
伯爵が弱弱しく笑う。だが声は途中で咳へ崩れ、薄い寝間着の下に骨の形が浮いた。
「百年とは……な。侍医は三月……と言った」
「三月は、侍医の見立てです。百年は、私の」
「はは……根拠のない……見立てだ」
「根拠なら、明日からお見せしますわ」
「明日まで……生きていればな」
唇を歪めもせず、自分の死を今日の天気のように口にする人だ。
「では、明日にはお確かめいただけます」
控えめな音を立てて、戸が開く。廊下の冷気が、薬の匂いを薄めた。
「弟のベルトルトだ」
伯爵とよく似た顔立ちなのに、血色だけが不自然なほど良い。兄に子が無ければ、家督を継ぐ人だ。冷えた寝室で、その頬だけが春めいて見える。
「兄上の薬は、私が届けます。義姉上は、お気遣いなく」
「何の薬でございますか?」
「侍医の処方ですよ。義姉上にお分かりになる物ではございません」
「お手数をおかけします」
「いえ、慣れておりますので」
湯呑みから細い湯気が立ち、冷えた寝室の空気をわずかに曇らせる。薬草の苦い匂いの底に、蜂蜜とは違う甘さが沈んでいた。伯爵の手は器を持つだけで震え、それでも残さず飲み干す。
「妻は……俺を百年……生かすつもりらしい」
「それは、なんとも頼もしいことでございます」
「ベルトルト。お前は……どう思う?」
「もちろんでございます。長生きしていただかなくてはなりません」
「ベルトルト様も、お風邪などお召しになりませんよう」
弟は笑って出ていく。廊下を遠ざかる足音は、来たときより軽い。私は甘い匂いを記憶の底へ沈める。嫁いだ夜に、夫の薬を疑う言葉はまだ持てない。けれど、湯気の消えた器から目を離せなかった。
◇
翌朝、弟が薬を枕元に置いて出ていく。足音が廊下の奥へ消え、戸板の震えまで静まるのを待つ。匙の先を湯呑みに浸し、そこに残った雫を舌へ載せる。
苦い。柳の皮だ。甘草も分かる。そこまでは処方書のとおりで、その奥から舌の先を針で刺すような痺れが広がった。雪の中へ長く手を置いたとき、熱さも冷たさも遠のいていく方の感覚だ。甘い。鳥兜だ。喉へ落ちる前に盥へ吐く。
「何を……している?」
「薬を、検めておりました」
「侍医の……処方だぞ」
「侍医の処方に、鳥兜は入りませんわ」
伯爵の目が、初めて私の顔をまっすぐ捉える。灰青の瞳だ。痩せた頬の中で、そこだけに鋭い光が戻った。
「……お前は、何者だ?」
「薬師です。王都の薬種商で八年、薬を量ってまいりました」
「子爵の娘が……店に出ていたのか?」
「父は、それを恥だと申します」
伯爵の視線が、枕元の湯呑みへ落ちる。立ちのぼる湯気の向こうで、灰青の瞳が細くなる。
「弟の……届けた薬だ」
「心の臓は、私には治せません。ですが、鳥兜の分は取り戻せますわ」
「取り戻して……その先はどうする?」
「旦那様に、春をお見せします」
伯爵は目を閉じる。長い沈黙のあいだ、窓の氷越しに光が白く曇り、屋根の雪が重い音を立てて滑り落ちた。裁く言葉は出てこない。証しは私の舌ひとつで、この人の指は寝具の上に力なく伏せたままだ。閉じた瞼の下で何が動いたのか、私には量れなかった。
「勝手にしろ……どうせ三月だ」
「承知しました。では、看病いたします」
戸口に女中頭が立っている。糊の利いた前掛けの裾が、かすかに揺れる。
「奥様が、お手ずからなさるのですか?」
「死にかけには、粥を。台所をお借りします」
「……お粥で、ございますか?」
「薄い粥です。塩は要りません」
「かしこまりました」
薬箱を開けると、秤の皿が鎖の先でかすかに揺れる。柳の皮を量って鍋へ入れ、目方は帳場で八年つけてきたとおりに合わせる。煎じるあいだ、立ちのぼる湯気を浴びながら、薄い粥を伯爵の口へ運ぶと顔を背けられた。私の手の震えが匙へ伝わり、その縁が頬の骨に硬く当たる。
「口を開けていただきます」
「死人に……飯など……」
「まだ、死人ではございません」
匙を口の前で止め、立ちのぼる湯気が薄くなるのを見ながら待つ。柄を握る指へ、かすかな震えが移る。
「……冷めるぞ」
「では、冷めないうちに」
「粥は……嫌いだ」
「お好きになるまで、お作りします」
次は口へ入る。飲み込むと、細い喉が上下するのが見えた。
弟の薬は、明日から私が受け取る。伯爵には飲んだ顔をしていただき、湯呑みの中身だけを消す。
◇
三日目、伯爵は自分で匙を持った。
手が震え、粥が膝掛けへ落ちる。白い粒は丸い染みになり、布のそこだけがじわりと濃くなる。
「……こぼした」
「大丈夫です。少しずつ良くなっておりますので、明日にはもっと上手くなりますわ」
「……明日か」
翌日は口へ入る。こぼれる量は日ごとに減り、膝掛けに残る染みも薄くなっていく。
「粥は……いつまで続く?」
「汁物になりましたら、お知らせします」
「汁物の次は、何だ?」
「肉でございます。歯で噛める物を、少しずつお出しします」
「そうか……肉が食えたら、庭へ出るぞ」
雪の日が続く。弟の薬は毎朝届き、毎朝、白い庭へ捨てた。粥が汁物に変わり、やがて肉を噛めるまでになる。柳の皮の煎じ汁は朝と晩、私が量って手渡す。夜中に息の浅くなる日もあり、そういう朝だけは柔らかな食事へ戻した。それでも、また先へ進む。頬を尖らせていた骨は少しずつ柔らかな丸みの下へ隠れ、声が腹の底から響くようになる。ある朝、寝間着の袖から伸びた腕を見て、この力なら私の肩を掴める、と思う。そう考えた途端、匙を持つ指がわずかに揺れる。
十日目、伯爵は窓辺まで歩いた。
私の腕に掴まり、寝台から窓まで、たっぷり時間をかけて進む。肩へ食い込む指の力は、思っていたより強い。外には白い庭が広がり、捨てた薬の跡を新雪が毎朝覆っている。そこに弟が立ち、こちらを見上げていた。手には、今朝の分の薬。血色の良い顔が、凍りついたように動かない。
「春まで、本当にもつと思うか?」
「春には、庭を」
「庭に、何がある?」
「雪解けの土と、旦那様の足跡がございます」
「足跡なら、まだ無いぞ」
伯爵は庭の弟を見下ろす。灰青の瞳に、寝台では消えていた硬い光が差し、当主の顔になった。
「ベルトルトを呼べ」
「では、昼に。薬を持って来ていただきます」
「薬は、俺の前で出させろ」
◇
昼、弟が薬の湯呑みを盆に載せて入ってくる。寝室の薄明かりの中で、血色の良い顔だけがくっきり浮かぶ。
「兄上、お立ちになったと聞きました。侍医もたいそう驚いておりましたよ」
庭から見上げていたのに、聞いた、と言う。伯爵の指が、膝掛けの上でわずかに動く。
「驚くのは、これからだ」
「兄上、それでは私も驚かせていただきましょう。今日の薬は、いつもより濃く煎じてまいりました」
「ベルトルト様。今朝は、庭にいらっしゃいましたね」
「……日に当たっておりました。兄上のお加減が気にかかりまして」
私は盆から湯呑みを取る。立つ湯気が指先を湿らせ、思っていたより重い。伯爵の目の前で、弟へまっすぐ差し出す。
「今日の薬は、ベルトルト様にお飲みいただきます」
「は?」
「侍医の処方でしたら、お体に障りはございません。どうぞ」
「義姉上、ご冗談はおやめください」
「冗談は、真顔で申します」
弟の手は、湯呑みを受け取ろうとしない。指先が盆の縁に貼りついたように止まり、湯気だけがその白い肌を撫でていく。静かな寝室で、伯爵が口を開く。
「飲め」
「兄上、これは……」
「兄の薬だ。兄の前で飲め」
私は湯呑みを、弟の手元へさらに寄せる。熱が伝わるほど近くても、その指は伸びてこない。
「濃く煎じた、とおっしゃいました。どうぞ」
「……手が、滑りそうでございます」
薬の名を口にするときだけ、私の舌はもつれず、声が冷たく速くなる。
「柳の皮、甘草、蜂蜜。それに、鳥兜。処方書に、鳥兜は入っておりません」
「義姉上に、何が分かる?」
「薬師の舌は、嘘をつきません」
「兄上。義姉上は、薬師などでは……」
「王都の薬種商で八年だそうだ。書付にないだけだ」
弟が伯爵を見る。血の気が引くにつれ、よく似た骨の線が浮かび、初めて本当の兄弟に見えた。
「ベルトルト。薬を届ける役は、今日で終いだ。王都の館へ行け」
「家督は――」
「俺が生きているあいだは、俺の物だ。領の差配も、今日から俺が持つ」
弟の口が動いても、声にはならない。盆を押さえる指だけが、白く強張っている。
「兄上は、私を役人へ差し出されるのですか?」
「屋敷の者を出すのに、役人は要らん。俺が当主だ」
「くっ……失礼いたします」
弟が出ていく。廊下を遠ざかる足音は、来たときより乱れている。卓には湯呑みだけが取り残され、細い湯気を吐いていた。窓を開けて中身を雪へ捨てると、白い息のように立ちのぼり、すぐ消える。
◇
ひと月目の昼、父の使いが手紙を持って来た。
私は卓で、今日の薬を量っている。秤の皿には柳の皮。皿が水平に静まるのを待ち、差し出された封を受け取った。冷えた紙が、薬草の匂いのついた指へ触れる。
父の字で、短く。喪はいつだ、と。紙は、実家で客に出す上等な物で、指に滑らかすぎた。
「百年先です、とお伝えください」
使いが下がる。伯爵は窓辺の長椅子に膝掛けを掛けて座り、日向で書物を開いている。けれど頁は朝から動かず、同じ場所に光の帯だけが移っている。
「子爵は、何と書いてきた?」
「喪の日取りを、と書かれておりました」
「百年先だと返したな」
「はい。そうお伝えしました」
「ははっ! 実に愉快だ」
膝掛けの上で、伯爵の指が止まる。頁を押さえたまま、紙の端がかすかに鳴った。
「お前は……寡婦料など要らないのか?」
「要りません。私が量るのは、薬だけです」
父の手紙を畳み、薬箱の底へ入れる。あの字を、秤の皿の隣に置いておきたくない。乾いた紙の音まで、黒い絹の冷たさを思い出させる。
「あの男なら、次は自分で来るぞ」
「そのときは、庭でお迎えします」
「庭は、まだ雪の中だ」
「雪は、そのうち退きます」
「雪が退いたら、見に行く」
伯爵が笑う。けれど声は咳へ崩れ、私はすぐ背へ手を当てる。掌の下には骨が並び、寝間着越しにも硬さが分かる。収まると、私は残った温もりを指に抱えたまま秤へ戻った。
「その手つきは、店にいた頃と同じか?」
「同じでございます。量る相手が変わっただけです」
「店では、誰の薬を量っていた?」
「お顔も知らない方々の薬でございます」
「お前が来てから、死ぬのが惜しい」
量る手が止まり、秤の皿だけが細かく揺れる。いつもなら出てくるはずの処方が、頭の中で白く途切れる。
舐めれば分かる。量れば効く。八年、そうしてきた。けれど、惜しい、と言われたときに何を差し出せばよいのかは、帳場で習っていない。皿の上で柳の皮が片寄り、秤は傾いたままだ。
「イルメラ……。死にたくないのだよ」
「しょ、承知しました。では、百年、生かしますわ」
◇
三月目の朝、レオポルト様は庭を歩いている。
雪解けの土が、靴の下で柔らかく沈む。私の腕に掴まり、ゆっくりと進む。歩幅は小さくても、足の裏が大地を確かに踏み、その重みが肩越しに伝わってきた。
「土が柔らかいな」
「春ですので」
「土の匂いは、久しぶりだ」
「これからは、毎年でございます」
「気の長い話だ」
垣根の根方では、去年の落ち葉を押し上げて、淡い芽がのぞいている。湿った土と若い草の匂いが、名残の冷気に混じる。今朝、実家から使いが来ている。
「あれも薬になるのか?」
「なりません。あれは、ただの草です」
「草の名まで覚えているのか?」
「覚えておけば、薬と間違えませんので」
「薬にならん物まで覚えるとは、損な性分だな。はっはっは」
門の方で、父の使いが黒い箱を抱えて出ていく。磨かれた面に春の光が滑り、それだけが庭から遠ざかる。
「あの黒い箱は?」
「お父様への荷でございます。添え状も付けました」
「何と書いた?」
「どなたか用にお使いになる日まで、お預かりくださいませ、と」
黒い箱は門を抜け、坂をゆっくり下っていく。使いの背は、下るにつれて小さくなった。
「子爵は、さぞ腹を立てるだろうな」
「お立てになるでしょう。でも、お返ししただけでございます」
「俺の妻は、ずいぶん返し上手だな。はっはっは」
レオポルト様が笑う。今度は咳にならず、声が春の空へまっすぐほどける。垣根の向こうでは、鳥が羽音を残して飛び立つ。
「百年は……長いぞ」
「きちんと量ってございますわ」
「何で量った?」
「薬師の秤で」
「ははっ、その秤は、狂わないのか?」
風が、雪解けの土の匂いを運んでくる。私は答えず、腕に込める力をそっと強くした。袖越しの温もりが、狂わせません、と口にするより早く伝わればいい。
「侍医は三月だと言った。心の臓は、弱いままだ。……喪服は、いるのではないか?」
「大丈夫です。私が着るのは、百年先ですわ」




