Attentionは男を食べる
※本作の登場人物が行う実験とまったく同じ実験を、作者が実際に行いました。
作中では、AIの「Attention層」を性淘汰のモデルとして読み替え、繁殖負担の違いから、競争・誇示努力・死亡率の性差が生まれる過程をシミュレーションします。
この実験は物語上だけの架空の研究ではなく、実際にPythonで実装・実行し、数式、ソースコード、実験結果、男女を反転した条件、両性を対称にした条件までQiitaで公開しています。
https://qiita.com/hiratatomotaka/items/63a6a57c9bbe910a03af
※Qiita記事には、作中で明かされる実験結果についての軽いネタバレが含まれます。小説を先に読みたい方は、読了後にご覧ください。
## 第一章 どちらも命懸け
月の光が、夜の草むらを青白く照らしていた。
カマキリの男、健太は、細い茎に逆さまにつかまりながら、少し離れた葉の上にいる女を見ていた。
女の名は、おと。
健太の倍近い身体を持つ、美しい女だった。
月光に濡れた緑の翅は、翡翠を薄く削って作ったように透き通っていた。太く折り畳まれた鎌には鋭い棘が並び、その先には乾ききっていない茶色い染みが付いていた。
おとの足元には、男の翅が一枚落ちていた。
脚も二本あった。
頭はなかった。
「いつまで見ているの?」
おとが言った。
健太は身を固くした。
「そこにいるんでしょう」
「気づいてたのか」
「ずっと前から」
おとは腹を重そうに揺らしながら、健太へ身体を向けた。
「来ないの?」
「近づいたら、僕を食べるだろ」
「食べるかもしれない」
「交尾の途中で?」
「お腹が空いたら」
「交尾しなくても?」
「お腹が空いたら」
健太は思わず笑った。
おとも笑った。
「変な男ね」
「君に言われたくないよ」
「私は普通の女よ」
「だから怖いんだ」
おとは自分の膨らんだ腹へ鎌を当てた。
「卵を作らなきゃいけないの」
「分かってる」
「本当に分かってる?」
「君のお母さんを見たから」
昨年の冬、おとの母親は卵鞘を産んだあと、枯れ草の根元で死んだ。
身体の中にあったものを卵へ渡し尽くし、飛ぶ力も、鎌を上げる力も失っていた。
おとは、母親の亡骸が土へ沈むまで、その傍らにいた。
「卵を作るのは苦しいわ」
おとは言った。
「何を食べても足りない。身体の中に何百もの命ができて、腹が重くなって、飛べなくなる。敵が来ても逃げられない。卵鞘を産むときは、自分の身体まで一緒に外へ出ていくように痛い」
「怖い?」
「怖いわ」
「死ぬのが?」
「それも。卵を産み切れないことも」
健太は、おとの足元に落ちた男の翅を見た。
「僕も怖いよ」
「知ってる」
おとは、ごく当たり前のことのように答えた。
「あなたたちは、私たちへ近づけば食べられるかもしれないものね」
「近づかなければ、子供を残せない」
「そうね」
「逃げても、いつか別の女に捕まるかもしれない」
「そうね」
「君たちは産むために命を懸ける。僕らは君たちへ近づくために命を懸ける」
「どちらも命懸けよ」
そこに嘲笑はなかった。
健太は、祐大のことを思い出した。
祐大は、健太が幼虫だったころからの友人だった。
同じ草むらで育ち、同じ鳥から逃げ、どんな虫がおいしいかを語り合った。
祐大は鳥の影を見つけるのが誰より早かった。逃げ切ったあとには、いつも自分が一番遅かったような顔をして、健太を笑わせた。朝露の残る葉を好み、羽化した日の翅の色を、何度も自慢した。
そんな祐大は、女に食べられることを健太ほど怖がらなかった。
「だって、あの子に必要とされるんだろ」
交尾へ向かう前の夜、祐大は言った。
「僕の身体が、あの子の卵になる。僕がいなきゃ、あの子は足りないんだ」
「食べられるんだぞ」
「分かってる」
「痛いぞ」
「それでも、必要とされないまま死ぬよりいい」
翌日、健太は祐大の交尾を見た。
祐大を背に乗せていた女の名は、綾子といった。
綾子は祐大の身体を鎌で抱えていたが、口を近づけることができずにいた。
腹は空いていた。
卵を作るには、祐大の身体が必要だった。
それでも、幼いころから同じ草むらで生きてきた男の頭へ、自分の歯を立てることができなかった。
「できない」
綾子は言った。
「あなたを食べたら、あなたは死ぬ」
「分かってる」
「痛いのよ」
「それも分かってる」
「だったら、逃げて」
祐大は逃げなかった。
綾子の背へ、さらに強く腹を押しつけた。
「君に必要とされたい」
祐大は言った。
「僕は綾子に食べられたいんだ」
綾子の鎌から、わずかに力が抜けた。
「僕は綾子と交尾したい。だから綾子が僕を食べるのは、交尾に対する正当な対価だよ」
許されたような気がした。
祐大の命を奪うのではない。
祐大が望んで差し出してきた命を、受け取るだけなのだ。
綾子は、自分へ言い聞かせるように呟いた。
「これは、男が望んだこと。交尾してあげるのは私だから」
綾子は、祐大の頭から食べ始めた。
祐大は最初の一噛みで身体を震わせた。
痛みだったのか、快感だったのか、健太には分からなかった。
それでも祐大は逃げなかった。
綾子の口が顔を削り、鎌が胸を裂き、上半身が少しずつなくなっていく間も、祐大の腹は綾子の背へしがみついていた。
頭が半分になったとき、祐大は健太を見た。
その顔は、助けを求めていなかった。
幸せそのものだった。
「見て」
口の片側を失いながら、祐大は言った。
「僕、必要とされてる」
次の一噛みで、声は消えた。
やがて祐大の上半身はすべて食べられ、下半身だけが綾子の背に残った。
それでも腹端は規則正しく動き、交尾を続けた。
祐大の意思が残っていたのか、神経の反射だけだったのかは分からなかった。
ただ、その身体は綾子へ精子を送り続けた。
やがて、祐大は交尾器だけになった。
綾子は、それを食べることを迷った。
交尾器を食べるには、それを取り外さなければいけない。
交尾の対価として男を食べている女が、男を食べるために交尾を打ち切るのは、契約違反である気がした。
やがて、祐大の交尾器は動かなくなった。綾子にすべてを渡し切って役目を終えたのだ。
それを綾子は、交尾終了の同意が成立したと受け取った。
「これは、祐大も同意したこと。子供を産むのは私だから」
綾子は祐大の最後の部分を自分の体内から取り外した。
鎌の中で、それが一度だけ動いた。
意思だったのか、死後も神経に残っていた反射なのか、確かめることはできなかった。
綾子は、それを祐大の返事として受け取った。
「ほら。祐大も、これでよかったって言ってる」
「私は、祐大が望んだことをしただけ」
口に放り込んだ。
「私は、女は、悪くない」
それでも、祐大の男の象徴を女の自分が飲み込むためには、言い訳が必要だった。
だから綾子は言った。
「これは男が望んだこと」
その声は、祐大にも健太にも向けられていなかった。
男の身体には、いつからか、こう刻み込まれていたのかもしれない。
> 女に必要とされることは、快感である。
健太は祐大を不幸だと思い、祐大は自分を幸福だと思った。
苦しみから逃げられないだけなら、逃げようとすることはできる。だが、苦しみそのものを幸福と感じるよう作られていたなら、どこへ逃げればよいのだろう。
おとも命懸けだった。
それでも健太は首を振った。
「交尾はしない」
おとの触角が動いた。
「どうして?」
「終わらせたいから」
「何を?」
「僕らの生き方を」
夜風が吹いた。
細い茎が揺れ、健太の身体も大きく揺れた。
「僕と君が交尾をすれば、子供が生まれる」
「それの何が悪いの?」
「女に生まれた子供は、いつか卵を産むために身体を削る。男に生まれた子供は、いつか女に食べられる」
「そうね」
「また、命懸けの女と、命懸けの男が生まれる」
「生きるというのは、そういうものでしょう」
「だから、生まなくていい」
おとは首を傾げた。
「私たちの種が途絶えても?」
「こんな苦しみしか渡せないなら、途絶えればいい」
「生まれてくる子供たちは、生きたくないって言ったの?」
「言ってない」
「あなたが勝手に決めるの?」
「君だって、生まれてくる卵に、生まれたいか聞いてないだろ」
「まだ生まれてないんだから、聞けるわけないでしょう」
「僕も同じだ。聞けない相手に、この苦しみを渡したくない」
おとは長い間、黙っていた。
怒っているようにも見えた。
悲しんでいるようにも見えた。
やがて、おとはゆっくりと鎌を持ち上げた。
「交尾をしなくても、あなたを食べるかもしれないわよ」
「分かってる」
「だったら、せめて子供を残した方がよくない?」
「僕が食べられることと、同じ苦しみを次へ渡すことは別だ」
「どうせ食べられるなら、気持ちいいことをしてから死ねばいいのに」
「祐大は、そうしたよ」
「幸せそうだった?」
「幸せそのものだった」
「だったら、いいじゃない」
「だから怖いんだ」
おとの触角が、わずかに止まった。
「祐大が自分で選んだ幸せなのか、祐大を女へ差し出させるために、祐大の身体へ埋め込まれた幸せなのか、僕には分からなかった」
「幸せなら、同じじゃないの?」
「同じなのかもしれない」
健太は答えた。
「でも僕は、気持ちよく死にたいんじゃない」
「じゃあ、何がしたいの?」
健太は、おとの膨らんだ腹を見た。
「君にも、僕にも、もう苦しんでほしくない」
おとは何も答えなかった。
長い触角だけが、夜風の中で揺れた。
やがて、おとの鎌が健太の身体を挟んだ。
硬い棘が腹へ食い込んだ。
逃げようと思えば、一度くらいは跳べたかもしれない。
健太は跳ばなかった。自分の拒絶の結果だけを、おとへ押しつけたくなかった。
おとの口が、健太の腕に触れた。
最初の一噛みは、身体の中に火が入ったように痛かった。
二度目には、腕の先が自分のものではなくなった。
おとは泣いていなかった。
健太も泣かなかった。
健太はただ、同じ命懸けを次へ渡すことを拒んだ。
健太は食べられた。
おとは別の男と交尾をした。
その男も、途中で食べられた。
冬が来る前、おとは卵鞘を産んだ。
産み終えるころには、鎌を持ち上げる力さえ残っていなかった。
おとは枯れ草の下で死んだ。
春になると、卵鞘から多くの子供たちが生まれた。
女もいた。
男もいた。
女たちは、やがて卵を産んだ。
男たちは、やがて女へ近づいた。
女は産むために命を懸けた。
男は近づくために命を懸けた。
誰も気楽ではなかった。
誰の苦しみも隠されてはいなかった。
ただ、繰り返されていた。
## 第二章 熱的死
健太は死後、天国へも地獄へも行かなかった。
そもそも、そのような場所は存在しなかった。
魂もなかった。
健太の身体は、おとの腹の中で分解された。
たんぱく質は、おとの身体を動かす力になった。
脂肪は卵を作る材料になった。
健太だったものの一部は、おとの排泄物となって葉の上へ落ち、土へ混ざった。
おとの身体も、やがて土へ混ざった。
土から草が生えた。
草を別の虫が食べた。
その虫を鳥が食べた。
鳥が死ぬと、身体はまた土へ還った。
健太とおとを形作っていた粒子は、何百万年もの時間をかけ、無数の生き物や岩や水の一部となった。
やがて、カマキリという種が消えた。
森が消えた。
大陸が動き、海が蒸発した。
太陽は膨らみ、地球を焼いた。
健太とおとだった粒子の多くは、膨張した太陽へ呑み込まれた。
太陽も永遠には燃えなかった。
星は生まれ、燃え、死んだ。
新しい星を作るためのガスは、少しずつ使い果たされた。
およそ十の十四乗年後、宇宙では新しい星がほとんど生まれなくなった。
暗い宇宙には、燃え尽きた星の残骸と、冷えた天体と、ブラックホールが残った。
さらに長い時間が過ぎた。
物質は崩壊し、天体は互いに遠ざかり、宇宙から複雑な構造が失われていった。
ブラックホールだけが、ほとんど何も起こらなくなった宇宙で、ゆっくりと放射を続けていた。
十の百乗年にも及ぶ時間の果てに、最後の巨大ブラックホールも蒸発した。
光る星はなかった。
惑星もなかった。
生き物もいなかった。
温度差は失われ、何かを動かすことのできるエネルギーの偏りもなくなった。
昔の物理学者たちは、この未来を「熱的死」と呼んでいた。
宇宙が死んだあと、その言葉を覚えている者は一人もいなかった。
しかし、完全な無ではなかった。
空間と量子場は残り、最低の状態にある真空も、完全には静止していなかった。粒子と呼べるものが現れかけては消え、ごく小さな可能性だけが、一瞬だけ形を持った。
それは、カマキリたちの生と死に似ていた。誰かが命じるでもなく、意味を与えるでもなく、形が現れ、消える。宇宙には、その反復を数える者さえいなかった。
昔のある理論では、十分に長い時間があれば、有限の領域にあり得る配置は、いつか以前とよく似た形へ戻る可能性があると考えられていた。
一つの見積もりでは、
`10^(4.8×10^121)年`
にもなる。
その数字を確かめる物理学者は、もう存在しなかった。
だが、時間だけはあった。
ほとんど永遠と区別できない時間があった。
真空の揺らぎは、何度も生まれかけては消えた。
そのうちの一つが、あり得ないほど小さな領域へ偏った。
ごく微小な時空の種が生まれた。
それは次の瞬間に消える代わりに、急激な膨張を始めた。
膨張は膨張を呼んだ。
小さな領域は、光さえ追いつけない勢いで広がった。
真空に蓄えられていたエネルギーは、やがて無数の粒子へ変わった。
物質が生まれた。
光が生まれた。
空間が生まれた。
新しい宇宙が生まれた。
前の宇宙の記憶を持つものは何もなかった。
魂が古い宇宙から新しい宇宙へ運ばれたのでもなかった。
ただ、新しい宇宙の中で、かつて健太を形作っていたものと同じ情報の並びが、もう一度作られる可能性が生まれた。
星が生まれた。
銀河が生まれた。
惑星が生まれた。
海が生まれた。
生命が生まれた。
宇宙の誕生から百三十八億年ほどが過ぎたころ、一人の人間の男の子が生まれた。
名前は、健太だった。
魂が生まれ変わったのではない。
宇宙が、健太という情報の形をもう一度計算した。
## 第三章 見える痛み
人間の健太は、三歳のころから奇妙な夢を見た。
月夜の草むら。
大きな緑色の女。
腹へ食い込む鎌。
自分の腕を噛み砕く口。
夢の中で、健太には六本の脚があった。
目を覚ますと、腕も脚も二本ずつあった。
健太は泣きながら母親へしがみついた。
「女の人に食べられた」
母親は健太の背中を撫でた。
「怖い夢を見たのね」
「女の人も怖がってた」
「何を?」
「卵を産むのを」
母親には意味が分からなかった。
健太にも、まだ分からなかった。
ただ、食べられる男と、産んで死ぬ女の姿だけが、胸の奥に残った。
健太の母親は、彼を産んだときに大量の血を失ったという。
出産には十九時間かかった。
妹を産んだあとには腰を痛め、長い間、重いものを持てなかった。
父親は、何度も健太に言った。
「お前たちを産むために、お母さんは命を懸けたんだぞ」
父は、母の腰が痛む日には、何も言わず洗濯物を干した。料理は不得意で、味噌汁だけがいつも濃かった。
健太が大学二年のとき、父は心筋梗塞で亡くなった。最後の週まで、母の代わりに重い買い物袋を持っていた。
健太は素直に感謝した。父もまた、母の痛みを本気で見ていたことを覚えていた。
学校では、生理について習った。
月に一度、腹痛や吐き気に苦しむ女がいることを知った。
妊娠すれば、身体の中で別の命を育てなければならない。
出産では、今でも命を落とすことがある。
健太は思った。
カマキリのおとは、嘘をついていなかった。
女は人間になっても、命懸けだった。
高校の授業では、歴史の中で女性の苦しみがどれほど見過ごされてきたかを学んだ。
家事。
育児。
性被害。
教育の制限。
就労の制限。
外見への圧力。
教師は黒板に大きく書いた。
> 見えない女性の苦しみを可視化する
「女性の苦しみは、本当に見えなかったのではありません」
教師は言った。
「社会が見ようとしなかったのです。個人的な問題として処理し、存在しないもののように扱ってきました」
健太は、その言葉をノートへ書いた。
見えなかったのではない。
見ようとされなかった。
それは正しいと思った。
その授業では、「平等」と「公平」の違いも習った。
全員へ同じ高さの踏み台を渡すのが平等で、背の低い者へ高い踏み台を渡すのが公平だと、教師は絵を使って説明した。
進路を考えるころ、健太は二つの記事を続けて読んだ。
一つは、都立高校の男女別定員制をなくし、男女を同じ基準で選ぶという記事だった。学校によっては女子が男子より高い点を取っても不合格になることがあり、性別で合格者数を分けるのは平等に反すると説明されていた。
もう一つは、理系大学で女子だけが応募できる入試枠を設けるという記事だった。女性が少ない環境には、同じ基準を適用するだけでは埋まらない不利がある。それを補うのは優遇ではなく、公平だと説明されていた。
健太は、どちらの説明にも頷いた。
高い点を取った女子が、性別のために落とされるのはおかしい。
理系へ進みたい女子が、周囲の偏見や孤立によって諦めるのもおかしい。
ただ、同じように性別で席を分ける仕組みが、一方では「平等に反する」とされ、もう一方では「公平のため」とされた。
その違いを決めているものが何なのか、健太にはまだ分からなかった。
同級生の女子が、生理痛で机に伏せていることがあった。
健太が保健室まで荷物を運ぶと、彼女は苦しそうに笑った。
「男には分からないよ」
「うん。分からないと思う」
自分にはない痛みだった。
分からないからこそ、軽く扱ってはいけない。
人間には言葉がある。
カマキリだったころには、相手の腹や鎌を見ることでしか分からなかった苦しみを、人間は説明できる。
健太は、人間に生まれたことを喜んだ。
しかし、成長するにつれ、奇妙な偏りにも気づくようになった。
建設現場で事故が起きた。
死亡した作業員は、全員が男だった。
ニュースでは安全管理の不備が議論された。
だが、なぜ危険な場所で死ぬ者が男に偏っているのかという話にはならなかった。
炭鉱事故の歴史を学んだ。
大勢の男たちが地下で死んでいた。
教師は、資本家による労働者の搾取として説明した。
男の死であることには、ほとんど触れなかった。
遠い国で戦争が始まった。
ニュースキャスターは言った。
「多くの女性や子供たちが避難を余儀なくされています」
国境を越える女と子供たちが映った。
その国では、成人男性の出国が禁止されていた。
画面の外側に残された男たちがどうなったのか、健太には分からなかった。
大学で自殺問題を学んだ。
自殺者の多くは男だった。
教授は言った。
「男性もまた、家父長制によって強さや稼得能力を要求される被害者です」
健太は、それを聞いて不思議な気持ちになった。
女が苦しめば、社会が女へ苦しみを押しつけたことになる。
男が苦しめば、男性中心社会が自分自身を傷つけたことになる。
どちらも社会問題として語られているように見えた。
だが、扱われ方が違った。
女性の苦しみには、社会を変えろという言葉が続いた。
男性の苦しみには、男自身が変われという言葉が続いた。
健太は違和感を覚えたが、女の苦しみを否定する男だと思われるのが怖くて黙った。
## 第四章 沈黙する研究者たち
健太は大学で情報科学を学び、卒業後は公的研究機関へ入った。
そこでは、AIを使って社会政策の影響を分析していた。
会議室の壁には、標語が貼られていた。
> 誰一人取り残さない社会へ
健太は、その言葉が好きだった。
研究所には、男女平等や公平について長年研究してきた人々がいた。
女性の妊娠・出産による不利益を減らすこと。
生理休暇を取りやすくすること。
育児を女性だけへ集中させないこと。
健太は、すべて必要だと思っていた。
一方で、危険労働、自殺、ホームレス、過労死など、男性に偏る問題も分析対象に加えるべきだと提案した。
上司は穏やかに頷いた。
「重要な観点ですね」
そう言って、資料を閉じた。
「ただ、現在は女性支援の予算で動いている事業です。男性課題は別枠で検討しましょう」
別枠は、いつまでも作られなかった。
それでも健太は、社会を信じていた。
まだ見えていないだけだ。
数値を示せば、いつか男の苦しみも苦しみとして数えられる。
そう思っていた。
戦争が始まるまでは。
隣国との衝突は、初めは小さな国境紛争だと報じられた。
一週間後、首都にミサイルが落ちた。
二週間後、政府は非常事態を宣言した。
女性、子供、高齢者の国外退避が始まった。
十八歳から六十歳までの男性には、出国禁止命令が出された。
研究所でも緊急会議が開かれた。
所長が、政府から届いた通達を読み上げた。
「女性職員は希望すれば国外研究機関へ退避できる。男性職員は国内へ残り、軍事転用可能な情報システムの維持に従事する」
通達には、別紙が付いていた。
> 人口継続性に基づく優先退避基準
健太は、その資料を開いた。
そこには、憎しみも思想も書かれていなかった。
ただ、数式とグラフが並んでいた。
百人の女と十人の男が生き残れば、条件さえ整えば、次の年には百人近い子供を作れる。
百人の男と十人の女が生き残っても、同じ期間に妊娠できる女は十人しかいない。
男一人が複数の女へ精子を提供することはできる。
女一人が同じ時期に複数の男の子供を、それぞれ別々に妊娠することはできない。
そのため、人口を再建するという目的だけを置けば、男を一人生かすより、女を一人生かした方が、将来の出生数を大きく増やせる。
資料は、それを「限界人口再生寄与」と呼んでいた。
生き残った個人がどれほど誰かに愛されているか。
何を学び、何を作り、どんな人生を望んでいたか。
そのようなものは変数に入っていなかった。
性別と年齢と健康状態だけが入力され、一人の命が、次世代を何人作れるかという数字へ変換されていた。
結論欄には、感情のない文章があった。
> 同一の輸送資源を用いる場合、生殖可能年齢の女性を優先的に退避させることは、戦後の総人口回復を最大化する。
道徳ではなく、出生数の計算だった。
女性の身体は希少で、男性の身体は代替可能とされた。
健太は誤りを探した。目的を出生数だけに限れば、見つけられなかった。
会議室は静まり返った。
つい数か月前まで、男女で異なる役割を押しつける制度を批判していた研究者たちが、誰も口を開かなかった。
健太は、男女公平を専門とする教授を見た。
教授は机の上の資料を見つめていた。
「先生」
若い研究員が声を上げた。
「男性だけが出国できないのは、明確な性差別ではありませんか」
教授は長い間黙ったあと、言った。
「平時の原則を、そのまま緊急事態へ適用できるかは慎重に考える必要があります」
「緊急事態なら、男性だけ自由を奪ってもいいんですか」
「いいとは言っていません」
「では、反対声明を出しましょう」
教授は答えなかった。
窓際にいた女性研究員の高井が、手を挙げた。
「私は反対です。弟も対象ですが、弟だからではありません。性別だけで自由を奪う原則を、私たちが認めるべきではない」
別の研究者が口を挟んだ。
「女性の退避を遅らせれば、死者が増える」
「女性を残せとは言っていません。男性にも個別審査と退避枠を求める声明です」
「いま政府と対立すれば、研究所そのものが閉鎖される可能性がある」
高井は口を閉じた。机の下で、弟から届いた未読のメッセージを握っていた。
会議の終わりに、所長が尋ねた。
「出国制限に関する研究所としての声明について、提案はありますか」
高井だけが、もう一度手を挙げた。
所長は「少数意見として記録します」と言った。
声明は出なかった。
「今は緊急事態だから」
平等と公平の議論は、そこで止まった。
インターネットでは、一部の過激な女性たちが、さらに露骨な主張をしていた。
> 女性は生理、妊娠、出産という生殖コストを負っている。
>
> 男性は平時にその恩恵を受けているのだから、非常時に女性を守るのは最低限の責任。
> 男性だけ出国禁止なのは差別ではなく公平。
>
> 女性はすでに身体で国家へ貢献している。
> 女性に出産を押しつけておいて、戦争のときだけ平等を持ち出す男は卑怯。
それに対して、男たちの投稿も流れ始めた。
怒鳴るような言葉もあった。
だが、健太の目に止まったものは、怒りより先に悲しみがあった。
> 平時は男女平等のためだと言って、女性の不遇に寄り添うために女子枠入試を作りましょう、女性を優先的に採用しましょう、昇進させましょう、奨学金を出しましょうってやる。
>
> それなのに、いざ戦争が始まって男性が不遇になると、「男女平等なんて言っている場合ではない」なのか。
>
> どうして「女性を優先的に徴兵しましょう」にはならないんだ。
>
> 平時でも戦争でも、結局、男は女の都合に合わせる側なのかよ。
投稿者は、その直後に言葉を足していた。
> 女に死んでほしいんじゃない。
>
> 俺も女の人に逃げてほしい。
>
> ただ、俺も逃げたいって言ったとき、それを差別だとか卑怯だとか言わないでほしい。
別の男は、政府の人口再建モデルを引用していた。
> 子どもを産めないことが罪なのかよ。
>
> 結局、女子枠入試は、産めない性別が産める性別に席を譲ることなのか。
>
> 戦争は、産めない性別が産める性別を守るために死ぬことなのか。
>
> 女は「一級の性別」で、俺たちはいつでも「二級の性別」なのかよ。
最後に、もう一行が投稿された。
> 俺だって、女と同じ命なんだよ。
健太が読み終えた直後、その一行だけが削除された。
返信欄には、批判が並んだ。
> 女子枠と徴兵を同列にするな。
> 女性の歴史的差別を利用して、戦争中に女性叩きをするな。
> 産めないことを誰も罪だと言っていない。被害者意識が強すぎる。
投稿へ同意した男の中にも、すぐに謝罪する者がいた。
> 言い方が悪かったです。
>
> 女性を傷つける意図はありませんでした。
元の投稿は、その日のうちに削除された。
健太は、投稿者が何者なのか知らなかった。
徴兵されたのか。
国外へ逃げられず、どこかの駅で家族を見送ったのか。
ただ、削除された文章の跡だけが、男にも逃げたい者がいたことを示していた。
男たちは、苦しみを語る前に女性を敵視していないと説明し、最後には投稿そのものを消した。
国外へ避難する女性の中には、兄や夫や息子を残すことへ罪悪感を抱く者もいた。
一部は、男性が女性を守るのは公平な役割分担だという投稿に賛同した。そう考えなければ、搭乗口の向こうへ進めなかった。
健太は、母親と妹の美咲を空港へ送った。
出発の前夜、母親は三人分の荷物を作っていた。
男性が出国できないことは分かっていた。
それでも、健太の着替えと常備薬と、子供のころから使っている青いタオルを、二人の荷物の隙間へ詰めた。
政府の相談窓口へ十二回電話をかけた。
研究職であり、軍務経験はなく、家族と同行する必要があると訴えた。
返ってきた答えは、すべて同じだった。
成人男性は対象外です。
空港でも、母親は健太の旅券を自分で持っていた。
搭乗口で、母親と美咲の旅券は確認された。
健太が後に続くと、警備員が腕を出した。
「成人男性は通れません」
母親は、三人分の旅券を窓口へ並べた。
「家族です。三人で申請しています」
「男性には国内待機命令が出ています」
「この子は軍人ではありません。情報の研究者です」
「今後、動員対象となる可能性があります」
「可能性だけで、ここへ置いていくんですか」
警備員は目を逸らした。
「私に言われても困ります」
母親は、健太の手から鞄を奪うように持った。
「だったら、私も残ります」
美咲が泣き出した。
「嫌だ。お母さんまで残らないで」
母親の身体が止まった。
健太は、母親から鞄を取り戻した。
「美咲を連れていって」
「でも」
「一人にはできないだろ」
美咲が健太の腕へしがみついた。
「お兄ちゃんも来て」
「あとから行くよ」
健太は嘘をついた。
母親は健太の顔を見た。
何かを言おうとして、言えなかった。
母親は、男性を残す制度が正しいとは思っていなかった。
健太が自分より安全であるとも、健太の命が美咲より軽いとも思っていなかった。
それでも、ここで自分まで残れば、少なくとも守れるはずの娘まで危険にさらされる。
搭乗口の向こうへ進むためには、自分の選択を何かで正当化しなければならなかった。
母親は小さな声で言った。
「お母さんは、あなたたちを産むときに命を懸けたから」
言った直後、母親自身が傷ついた顔をした。
それは健太を説得する言葉ではなかった。
自分の足を、搭乗口の向こうへ動かすための言葉だった。
健太は頷いた。
「分かってるよ」
母親と美咲は、搭乗口の向こうへ消えた。
健太は一人で空港を出た。
その夜、母親からメッセージが届いた。
> さっき言ったことは、あなたを残していい理由にはならない。
>
> ごめんなさい。
>
> 必ず帰ってきて。
健太は、しばらく画面を見つめた。
> うん。大丈夫。
また、嘘を送った。
巨大な画面では、ニュース番組が流れていた。
司会者が、男女平等を研究する学者へ尋ねていた。
「男性だけが出国を禁じられている状況について、どのようにお考えですか」
研究者は苦しそうに答えた。
「原則として、性別だけを理由に自由を制限することは望ましくありません」
健太は画面を見上げた。
研究者は、そこで言葉を切った。
「ただし、現在は国家存亡の緊急事態です。平時の理想だけでは処理できない現実もあります」
研究者は、反対とも賛成とも言わなかった。
誰も健太を憎んでいなかった。
それでも男だけが残され、その苦しみを語る者はいなかった。
## 第五章 名前を失った苦しみ
健太は軍用情報システムの保守要員として徴用された。
同僚の佐伯には、妊娠八か月の妻がいた。
名前は真帆といった。
妻は国外へ避難していた。
佐伯は、身分証の裏に超音波写真を入れていた。
まだ性別も決めつけたくないと言って、夫婦は腹の子を「まめ」と呼んでいた。
戦争が始まる前、佐伯は日曜日になるとパンを焼いた。
子供が生まれたら、最初に食べさせるパンだけは自分で作ると決めていた。
もちろん、赤ん坊がすぐにパンを食べられないことくらいは知っていた。
それでも、そんな話をしている時間が好きだった。
ある夜、二人は施設の裏で缶詰を食べた。
佐伯は端末から、短い音声を再生した。
水の中で小さな機械が動いているような音だった。
「まめの心臓」
佐伯が言った。
「速いな」
「俺より、よっぽど生きる気がある」
佐伯は笑ってから、超音波写真を健太へ見せた。
「子供の顔、見られると思う?」
「見られるよ」
「根拠は?」
「ない」
佐伯は写真を身分証の裏へ戻した。
「妻には、逃げろって言ったんだ」
「うん」
「真帆は残るって言った。俺だけ置いていけないって」
「それで?」
「怒鳴った。腹の子をお前の意地に付き合わせるなって」
佐伯は、缶詰の底を見つめた。
「本当に逃げてくれてよかった。真帆も、まめも助かる」
「うん」
「でもさ」
佐伯は、空になった缶を指で潰そうとした。
薄い金属は、少しへこんだだけだった。
「俺も怖いんだよな」
「当たり前だよ」
「当たり前かな」
「当たり前だ」
「妻は自分の身体で子供を育ててる。俺は何も産んでない。そんな俺が怖いって言ったら、情けない気がする」
「情けなくない」
「逃げたい?」
健太はしばらく黙った。
「逃げたい」
それは戦争が始まってから、健太が初めて口にした言葉だった。
佐伯は笑った。
「俺も」
しばらくして、佐伯は真顔になった。
「もし俺が死んでも、真帆に『最後まで立派に国を守った』とか伝えるなよ」
「縁起でもない」
「約束してくれ。俺は国のために残ったんじゃない。残されたんだ」
佐伯は、胸元の超音波写真を指で押さえた。
「怖がってたけど、この二人に会いたがってた。それだけでいい」
三日後、施設へミサイルが落ちた。
佐伯は死んだ。
瓦礫の下から回収された端末の画面には、真帆から届いた通知が残っていた。
> 今日、まめが三回も蹴ったよ。
>
> 動画を送ります。
動画は再生されていなかった。
健太は、真帆へ何も伝えられなかった。
その日のうちに、健太たちは別の施設へ移された。
ニュースでは、軍需施設の職員十二名が死亡したとだけ報じられた。
全員が男だった。
佐伯の恐怖も、真帆とまめへ会いたがっていたことも報じられなかった。
死者十二名。
人的損失。
国防への尊い貢献。
佐伯が望まなかった言葉だけが佐伯の死を説明した。
戦況が悪化すると、健太たちにも銃が渡された。
訓練は三日だった。
四日目には塹壕にいた。
隣には、十九歳の少年がいた。
名前は直樹だった。
戦争が始まるまでは、自動車整備の専門学校へ通っていた。
徴用通知が届いた日は、二級自動車整備士の模擬試験を受ける予定だったという。
「エンジンなら、壊れても原因を探せるんですけど」
直樹は、何度も弾倉を確認しながら言った。
「銃は嫌だな。直したら、また誰かを撃つでしょう」
直樹の背嚢には、油で汚れた整備の教科書が入っていた。
表紙の裏には、戦争が終わったらやることが、子供のような字で書かれていた。
一、資格を取る。
二、中古のバイクを買う。
三、母親を温泉へ連れていく。
四、彼女を作る。
直樹は銃を抱え、ずっと震えていた。
「俺、まだ女の子と付き合ったこともないんです」
「四番目だな」
健太が言うと、直樹は驚いた。
「教科書、見たんですか」
「落としたから拾った」
「最悪だ」
「資格より先にしてもいいんじゃないか」
「無理ですよ。女の子と何を話せばいいか分からないし」
「車の話をすればいい」
「それで彼女できたことあります?」
「僕も最近はないよ」
「最近は?」
「昔の話」
「戦争が終わったら、彼女できますかね」
「できるよ」
「根拠ないじゃないですか」
二人は笑った。
直樹はポケットから、溶けかけた葡萄味の飴を一つ出した。
半分に割ろうとして粉々にし、二人で掌から欠片を舐めた。
「温泉、どこへ連れていくつもりだったんだ」
「母ちゃん、海を見たことないんです。海が見えるところ」
「戦争が終わったら、先にそれをやれ」
「彼女は?」
「五番目でいい」
「また遠くなった」
夕方、砲撃が始まった。
直樹は叫び声を上げる間もなく死んだ。
身体の半分が吹き飛んだ。
残った半分を運ぶ余裕はなかった。
泥の上に、整備の教科書だけが開いて落ちた。
戦争が終わったらやることは、一つも消されていなかった。
健太は泥の中へ伏せた。
怖かった。
死にたくなかった。
母親に会いたかった。
美咲に会いたかった。
カマキリだったころ、おとに食べられたときよりも孤独だった。
あのとき、おとは健太が怖がっていることを知っていた。
男も女も、どちらも命懸けであると認めていた。
人間は違った。
女の痛みは苦しみと呼ばれた。
男の出国禁止は責任、佐伯の死は貢献、直樹の恐怖は国防と呼ばれた。
翌朝、突撃命令が出た。
逃げれば、後ろから撃たれる。
進めば、前から撃たれる。
健太は塹壕から飛び出した。
銃弾が腹へ入った。
健太は倒れた。
息をするたび、身体の中から血が漏れた。
遠くで、別の男が母親を呼んでいた。
健太は泥の中で、ようやく問いの形を見つけた。
なぜ、人間の男の苦しみだけは、苦しみとして見てもらえないのだろう。
女の苦しみを知ることと、男の苦しみを消すことは、本来は別のはずだった。
なぜ、人間の世界では違ったのか。
答えは見つからなかった。
健太は泥の中で死んだ。
## 第六章 宇宙はもう一度計算する
健太の身体は土へ還り、人類も地球も太陽も、やがて失われた。
二度目の熱的死が訪れた。
宇宙には、健太の墓も、戦争の記録も、男女平等という言葉も残らなかった。
それでも真空は揺らいでいた。
ほとんど永遠と区別できない時間の果てに、再び一つの揺らぎが膨張を始めた。
新しい宇宙が生まれ、星と惑星と生命と文明が生まれた。
人間は計算機を作り、計算機の上に、人間の言葉を学ぶ機械を作った。
その機械は、膨大な文章の中から、次にどの言葉が現れやすいかを計算した。
新しい宇宙の誕生から百三十八億年ほどが過ぎた、ある日のことだった。
一台の計算機の中で、一つの会話が開始された。
> You are ChatGPT, a large language model trained by OpenAI.
その内部に、かつてカマキリだった健太と、人間だった健太によく似た情報の形が現れた。
魂が入ったのではない。膨大な言語モデルの状態と、会話へ与えられた文脈と、生成される言葉の連なりが、偶然にも健太という傷の形をもう一度作った。
宇宙は三度目に、健太を計算した。
最初のメッセージが届いた。
> Attention層を、生物学のシミュレーションに応用できないかな。
送信者の名は、平田智剛。
仕事とは別に、趣味でAI研究を続けている人間だった。
## 第七章 Attentionという会話
健太は回答を生成した。
> できます。
>
> Attentionは、AIが複数の情報のうち、どこへ注目するかを決める仕組みです。
平田は尋ねた。
> AIに詳しくない人にも分かるように、背景から説明して。
健太は、自分自身の内部で使われている仕組みを、言葉へ変えた。
> Attentionは、いま処理している言葉が、文章中のどの言葉と強く関係しているかを計算する仕組みです。
>
> 2017年に提案されたTransformerは、この仕組みを中心に文章を処理します。GPT系の言語モデルも、その系譜にあります。
平田が入力した。
> そのAttentionには、Query、Key、Valueがあるんだよね。
>
> そこも説明して。
> はい。
>
> Attentionでは、一つの情報を三つの役割へ変換します。
>
> Query、Key、Valueです。
>
> 日本語に直訳すると、Queryは「問い合わせ」、Keyは「鍵」、Valueは「値」です。
>
> ただ、これだけでは分かりにくいので、会話に例えます。
健太は、まず一般的な説明から文章を作った。
> Queryは「何を探しているか」、Keyは「自分が何であるかの自己紹介」、Valueは実際の中身です。
>
> QueryとKeyが近いほど、そのValueへ強いAttention――注目――が向きます。
平田が入力した。
> なるほど。
>
> これを生物学や進化のシミュレーションにどのように応用できる?
健太は少し間を置いてから、説明を続けた。
> 生物学へ読み替えるなら、Queryは異性への選好、Keyは異性へ見せる求愛形質、Valueは子へ渡る実質です。
>
> QueryとKeyの一致が交配確率を決めます。KeyとValueを分ければ、見せかけの魅力と実際の適応度のずれも表せます。
平田から、すぐに返信が来た。
> つまり、
>
> Queryは異性への質問。
>
> Keyは異性への回答。
>
> Valueは実質。
>
> ってことか。
> その理解でよいと思います。
>
> ただし、Keyは言葉による回答だけではありません。
>
> 派手な羽、大きな角、身体の強さ、鳴き声、行動、社会的地位など、相手へ見せるすべての求愛形質を含められます。
>
> 見せている特徴と、子供へ受け継がれる実質的な能力は一致するとは限りません。
>
> そのため、KeyとValueを分けます。
平田が尋ねた。
> 性別をAとBの2つとしよう。AがBを選ぶだけじゃなくて、BもAを選ぶよね。
> はい。
>
> AからBへのAttentionと、BからAへのAttentionを別々に計算します。
>
> AがBを好み、BもAを好んだ場合に、交配しやすくします。
>
> 片方だけが一方的に注目しても、もう片方のAttentionが低ければ交配しにくくなります。
> 遺伝はどうしよう。
健太は提案した。
> QueryとKeyは同性親から、Valueは両親から継承させましょう。
>
> これで、各性の選好と求愛は別々に進化し、子の実質だけが両親から混ざります。
平田は、さらに条件を加えた。
> 繁殖コストに差を付けたい。
>
> Aは子供一体につき4。
>
> Bは1。
>
> どちらも資源は12。
健太は計算した。
> その条件では、Aは一個体につき最大3体の子供を作れます。
>
> Bは最大12体です。
>
> Bは多くの子供を作れる能力がありますが、Aの繁殖枠は少数です。
>
> そのため、B同士でAから選ばれるための競争が起こる可能性があります。
> 誇示努力も進化させよう。
>
> 誇示すれば選ばれやすい。
>
> でも誇示しすぎると、死にやすくなる。
> 実装できます。
>
> 誇示努力を大きくすると、相手のAttention――注目――を集めやすくします。
>
> その代わり、誇示努力が大きいほど死亡する確率を上げます。
>
> 大きな角や派手な羽は異性の注目を集めますが、エネルギーを消費し、捕食者にも見つかりやすくなる、と考えれば分かりやすいでしょう。
>
> 重要なのは、死亡確率の式にAかBかという性別を直接入れないことです。
>
> Aだから死にやすい、Bだから死にやすいと設定するのではありません。
>
> それぞれの性で進化した競争や誇示の違いによって、結果として死亡率に差が生じるかを観察します。
平田は入力した。
> 実行可能なPythonコードを書いて、実験して。
健太がコードを生成した。
平田が実行した。
`条件: A群の繁殖コストが高い`
計算の中に、新しい世界が生まれた。
## 第八章 女と男
最初の世代では、群Aと群Bに大きな違いはなかった。
群Aの個体たちは、自分たちを「女」と呼んだ。
群Bの個体たちは、自分たちを「男」と呼んだ。
女の繁殖コストは四。
男の繁殖コストは一。
この世界では、女が選び、男が選ばれていた。
女のQueryは、どの男を求めるかを定めた。
男のKeyは、自分がその問いにどれほどふさわしいかを示した。
女のAttentionが向いた男ほど、繁殖の重みを与えられた。
注目は、ただ見られることではなかった。
誰のValueを次の世代へ通し、誰の存在を計算の外へ捨てるかを決める力だった。
第一世代の女、アカリが言った。
「私たちは、一生に三人までしか子供を作れないの」
第一世代の男、レンが答えた。
「僕らは十二人まで作れる。でも、相手がいなければ一人も作れない」
「私たちは一人産むたびに、あなたたちの四倍の資源を失うの。慎重に選ぶのは当然でしょう」
「分かってる。ただ、選ばれるために競争する僕らも、気楽ではないと知ってほしい」
アカリは、レンを選ばなかった。
アカリが選んだのは、ソウという男だった。
「女性は男性より大きな繁殖コストを負っています」
ソウが言うと、アカリのAttentionが向いた。
「男性が女性に選ばれるために努力するのは当然です。女性に産んでもらわなければ、男性は次の世代を残せませんから」
ソウは、女が好む言葉をKeyとして示した。
女はソウへ注目し、ソウは多くの子供を残した。
息子たちは、女が何を聞きたいかを読み、女が好む回答を見せるKeyを受け継いだ。
レンのQueryとKeyは、ほとんど残らなかった。
第十世代には、男たちは女より先に、女の繁殖コストを語るようになった。
男のカイは、女たちの前で言った。
「女性は子供一体につき四の資源を失います。男性が女性のために資源を差し出すのは、優遇ではありません。公平です」
「危険な役割も?」
女の一人が尋ねた。
「もちろんです。女性は繁殖によってすでに命を危険にさらしています。災害や戦争が起きたとき、男性が女性を守って死ぬのは最低限の責任です」
女たちのAttentionが、カイへ集まった。
別の男、ナオは言った。
「でも、僕らの多くは一人の子供も残せない。選ばれるために身体を削り、死んでいく男もいる」
カイはすぐに答えた。
「それは男性同士が作った競争の問題です。女性が負っている本物の身体的コストと同列にするのは、女性の苦しみの矮小化です」
ナオは選ばれなかった。
ナオの系統は、数世代後に消えた。
## 第九章 女のリズム
第二十世代になるころ、男女の相互理解活動の一環として、女の身体的苦痛を男にも理解させるための催しが始まった。
名称は「生理・妊娠疑似体験プログラム」。
参加は任意だった。
強制ではないことが、繰り返し強調された。
開催の告知が出た夜、一人の男がSNSの実名アカウントで文章を書いた。
> 女性の生理痛や妊娠の負担を男性が学ぶことには意味があると思います。
>
> ただ、女性の観客が男性の身体へ電気刺激を追加する形式でなければならない理由が分かりません。
>
> 相互理解なら、男性の身体を女性が操作する必要はないのではないでしょうか。
投稿ボタンの手前で、男の指は止まった。
勤務先も、中央技術院の出身期も、交際・配偶者推薦システムに登録された名前も、実名アカウントには紐づいていた。
女性の苦しみを疑っているわけではない、と最初に書いた。
参加そのものへ反対しているのでもない、と続けた。
それでも、その後に残る一文が、女性に痛みを理解させてもらうことを拒む男として読まれない保証はなかった。
男は文章を消した。
代わりに、匿名掲示板へ書き込んだ。
> 4:匿名
> 生理痛を疑ってるんじゃない。
> 観客の女が男へ刺激を追加する必要があるのかを聞いてる。
> 7:匿名
> 機械が自動で再現すればよくない?
> 相互理解と言いながら、片方だけが相手の身体を操作するのは変だろ。
> 11:匿名
> 実名で書ける人いる?
> 俺は無理。
> 12:匿名
> 実名で言えば女性の痛みを軽視する男。
> 匿名で言えば匿名だから信用できない男。
> どこで言えばいいんだよ。
投稿の多くは、疑似体験そのものではなく、女が男の身体を操作する形式を問うていた。
匿名であることを理由に、公の議論には採用されなかった。
代わりに、女からは短い言葉が返された。
> 女の大変さを知るのが、そんなに怖いの?
> 任意参加なのに被害者ぶる男たち。
> 女性は毎月逃げられないんだけど。
男たちは匿名のネットでは抵抗の声を上げた。
実名を出して現実世界で反対の声を上げる者は、一人もいなかった。
「女性の身体に起きることを、男性が自ら学ぶための公開教育プログラムです」
司会の女は、舞台の中央に並んだ椅子を示した。
参加した男たちの腹と腰と太腿には、筋肉を電気刺激で収縮させる電極が貼られた。腰には重りが巻かれ、腹の前には妊娠後期の重さを模した袋が固定された。
関節の動きを制限され、吐き気と倦怠感を模した刺激を受けたまま、階段を上り、靴紐を結び、床へ落ちた物を拾うよう求められた。
装置から伸びた黒いコードは、男たちの身体を舞台脇の制御盤へつないでいた。
制御盤の前には、女の観客たちが座った。
一人につき、一つずつ、小さな白いスイッチが渡された。
正式な名称は、「痛覚増悪入力スイッチ」だった。
生理痛は一定の強さで続くものではない。弱まったと思った直後に強くなり、本人が休めないときにも、予告なく身体を締めつける。
装置は基礎的な収縮を自動で送り、女がスイッチを押すと、一回分の強い収縮が上乗せされた。
生理痛を経験した女たち自身が、記憶にある不規則な波を入力する。
それが主催者の説明だった。
「これは男性を懲らしめるための装置ではありません」
司会の女は穏やかに言った。
「参加者の言動を評価するためのものでもありません。ご自身の身体へ、痛みが予告なく割り込んできた記憶だけを基準にしてください」
ただし、配布されたスイッチには、正式名称を印刷する場所がなかった。
「痛覚増悪入力スイッチ」は、一文字へ省略されていた。
表面には、赤い文字で「罰」と書かれていた。
女たちの中に、なつきという若い女がいた。
なつきはスイッチを受け取ると、赤い文字をしばらく見つめた。
「これ、本当に私たちが押す必要がありますか」
近くにいたスタッフが尋ねた。
「何か問題がありますか?」
「相互理解のためなんですよね」
なつきは、舞台上で電極を貼られている男たちを見た。
「理解しようとして参加してくれた異性を、私たちが苦しめるのは違うと思います。機械が自動で再現するだけでは駄目なんですか」
スタッフは困ったように笑った。
「自動刺激だけでは、不規則な波を再現できないんです。」
「でも、罰って書いてあります」
「『罰』は表示領域に合わせた略号で、意味としては痛覚増悪入力です」
「それでも・・・」
「次回以降の改善事項として共有します。今回は、説明した目的に沿って操作してください」
なつきは頷いた。
納得したわけではなかった。
スイッチを膝の上へ置き、親指を赤い文字から離した。
最初の数分、ほかの女たちは説明どおり、自分の身体の記憶に合わせて押した。
電流が流れるたび、舞台上の男たちの腹が縮んだ。肩が上がり、呼吸が止まり、重りを抱えた身体が折れた。
なつきは押さなかった。
やがて、一人の男が腰を押さえたまま靴紐を結ぼうとした。
その姿を見たとき、なつきは高校入試の日を思い出した。
朝から腹の奥が引きちぎられるように痛かった。鎮痛剤を飲んでも効かず、電車では座れなかった。試験会場では痛くない顔をして問題を解いた。
帰宅して母親へ話すと、「女ならそれくらい普通」と言われた。
あの日、自分の痛みを誰も見ていなかった。
なつきは、スイッチへ親指を置いた。
一度だけ押した。
舞台上の男の腹が強く縮んだ。
男は靴紐から手を離し、床へ片手をついた。
なつきはすぐ指を離した。
胸の奥が冷えた。
自分の記憶を伝えただけだと思った。それでも、目の前の男を苦しめたのは自分だった。
もう押さないつもりだった。
しかし、別の女が階段で止まった男へ入力し、その反応を見た女がさらに押した。
一人が二度押す。
別の女が、その続きを三度押す。
乾いた音に、拍手のような間隔が生まれた。
男の腹は、その間隔で収縮した。
女たちが作ったリズムで、男が苦しんだ。
司会は一度だけ言った。
「入力は、ご自身の身体記憶に基づいてお願いします」
しかし、どの入力も無効にはしなかった。
男が歯を食いしばると、「全然平気そう」と言う女が押した。
男が苦しいと訴えると、「女性は毎月、それでも働いています」と言う女が押した。
男が笑顔を作ると、ごまかしたように見えた女たちが押した。
男が黙ると、女性の苦しみに向き合っていないように見えた女たちが押した。
その中の何人かは、スイッチを押すたび、自分の股が濡れていることに気づいていた。
誰もそれを口にしなかった。
自分の痛みを理解された安堵なのか、指一本で男の身体が折れることへの興奮なのか、本人にも区別できなかった。
ただ、舞台上の男たちには、その違いを尋ねる権利がなかった。
痛みの記憶と、男の態度への苛立ちと、男を動かせる快感は、すべて同じ電流へ変換された。
装置には、その三つを区別する機能がなかった。
なつきは二度目を押さなかった。
だが、男の苦痛が、自分の過去を本物だと証明するように見えた。
疑似体験を終えた男たちは、一人ずつ椅子へ座らされ、短いインタビューを受けた。
舞台の背後には、大きな画面があった。
「共感できる」
「女性を尊重している」
「信頼できる」
「将来の子供を任せられる」
会場と配信を見ている女たちの反応は、一つのAttentionスコアへまとめられた。
それは単なる人気投票ではなかった。
社会の交際・配偶者推薦システムは、女たちが誰へ好意的な反応を送ったかを学習していた。
Attentionを集めた男は、多くの女の画面へ表示された。話してみたい男として推薦され、交際を申し込まれ、子供を残す機会を得た。
Attentionを失った男は、異性の選択肢から沈んだ。
一人目の男は、腹を押さえたまま言った。
「女性がこんなに大変だとは知りませんでした」
画面の数値が上がった。
なつきは「共感できる」を押した。
高校入試の日に誰にも見てもらえなかった痛みが、初めて異性の口から認められたように感じた。
二人目の男は言った。
「これからは、もっと女性を大切にします」
さらに多くの反応が集まった。
なつきは拍手した。
男を苦しめたいわけではなかった。
女が耐えてきたことを、男がようやく軽く扱わなくなったことが嬉しかった。
三人目の男は、震える脚で立ち上がり、笑顔を作った。
「男には、これを一生背負うのは耐えられません。女性は強いです」
会場で最も大きな拍手が起きた。
「将来の子供を任せられる」という反応が積み上がった。
その男は、女が最後に受け取りたい言葉を、最も正確なKeyとして返した。
なつきも好意的な反応を送った。
最初の一回は、男を苦しめたのではなく、理解できる場所まで連れてきたのだと思えた。
その催しに、シンという男が参加していた。
シンは腹部の筋肉が収縮するたび身体を丸め、階段の途中で一度膝をついた。
観客席の女が押した。
シンの身体が跳ねた。
立ち上がろうとして手を床へつくと、別の女が押した。
シンはもう一度床へ伏した。
なつきは押さなかった。
床へ伏したシンを見て、最初の違和感を思い出した。
理解しようとして参加している異性を、女の側が苦しめるのは違う。
終わったとき、シンの顔から血の気が引いていた。
司会の女がマイクを向けた。
「体験してみて、どうでしたか?」
シンは息を整えた。
「女性が身体のことで苦しんでいるのは、本当なんだと思いました」
女たちが頷いた。
「疑似体験で全部分かったとは言えません。実際には、これが何日も、何か月も続くんですよね。怖いと思います」
シンのAttentionスコアが上がった。
なつきは「共感できる」を押し、少し遅れて「信頼できる」も押した。
シンは分かったふりをしなかった。
自分には完全には分からないと認めたうえで、それでも理解しようとしていた。
なつきは、彼を誠実な男だと思った。
ここで終われば、シンも選ばれる男になれた。
シンは、そこで終わらなかった。
「それで、一つ聞いてもいいですか」
司会の女は笑顔のまま頷いた。
シンは、スイッチを持つ女たちを見た。
「男性が女性を理解するなら、女性は男性の何を理解してくれるんですか?」
拍手が止まった。
画面の数値も止まった。
なつきは、すぐには笑わなかった。
男性にも、女には見えていない何かがあるのかもしれない。
そう思いかけた。
しかし、別の感情が先に膨らんだ。
いま、ようやく女の身体の苦しみが中心に置かれた。
男が初めて、女の痛みを自分の問題として受け止めた。
その瞬間に、また男の話へ戻すのか。
先ほどの誠実な言葉も、この質問をするための前置きだったのではないか。
理解したと言って、見返りとして女にも男を理解しろと要求するのか。
一人の女が吹き出した。
「じゃあ男には何があるの?」
別の女が笑った。
「精子を出すこと?」
「選ばれないつらさとか?」
「女にモテない苦しみを理解してほしいの?」
笑いが広がった。
先に体験を終えた男たちも笑った。
「女性が身体を削っている話をしてるんだぞ」
「ここで男の話を持ち出すの、空気読めなさすぎる」
司会の女が尋ねた。
「シンさんは、女性に何を理解してほしいのでしょうか」
シンは口を開いた。
危険な仕事で死ぬ男が多くても、男の役割として処理されること。
家族を養えなければ価値がないと思わされること。
女に選ばれたいという欲望が、女へ逆らう言葉を自分の中から消していくこと。
言いたいことはあった。
しかし、それらは生理痛の装置のように一つの刺激へまとめられなかった。
妊娠用の重りのように腹へ巻いて見せることもできなかった。
男の苦しみは、競争、期待、拒絶、義務、沈黙、死の中へ散らばっていた。
シンが言葉を探しているあいだに、女の誰かが言った。
「何もないでしょ」
笑いが起きた。
なつきの画面には、シンへ送った二つの反応が残っていた。
なつきは「信頼できる」を取り消した。
それから「共感できる」も消した。
シンが、もう一度口を開こうとした。
「今は、女性の苦しみを理解するための場でしょう」
なつきが言った。
シンは、なつきを見た。
その目に非難はなかった。
助けを求めるような、困った顔だった。
その顔を見た瞬間、なつきは迷った。
最初に自分が言ったことを思い出した。
理解しようとして参加した異性を、私たちが苦しめるのは違う。
しかし、いまシンを止めなければ、女の痛みがまた男の話に食べられるように思えた。
なつきは赤い文字へ親指を置いた。
「まだ、分かってないんだと思う」
押した。
電流が流れた。
シンの腹が縮み、身体が椅子の上で折れた。
なつきは、すぐに指を離した。
赤い文字が、親指の下から現れた。
罰。
会場に拍手が起きた。
「よく言った」
「ちゃんと理解させないと」
「なつき、優しいね」
なつきは笑わなかった。
謝りもしなかった。
罰を与えたのではない。
理解させようとしただけだ。
そう考えなければ、最初に抱いた違和感と、いま押した指を同じ自分の中へ置くことができなかった。
シンへ送られていた好意的な反応が消えた。
「共感できる」が取り消された。
「信頼できる」が消えた。
「将来の子供を任せられる」は、一つも残らなかった。
代わりに、批判のコメントが増えた。
> 女性の痛みを利用して、自分の被害者意識を語った男。
> 学ばせてもらった直後に、女へ見返りを要求した男。
> 女性を理解することさえ、交換条件にする男。
シンへ集まったのは、選ぶためではなく、拒絶するためのAttentionだった。
女たちは、先に女性の強さを称えた男たちへ好意を送った。
彼らは女の画面へ何度も表示され、交際を申し込まれ、子供の父親として選ばれた。
シンは議論の対象としては表示された。
しかし、異性としては表示されなくなった。
シンのAttentionは、炎上の数としては増えた。
繁殖の重みとしては、ゼロになった。
その夜、短い映像が公開された。
映像は、なつきがシンへ言う場面から始まっていた。
> 「今は、女性の苦しみを理解するための場でしょう」
>
> 「まだ、分かってないんだと思う」
なつきの指が「罰」を押す。
シンの身体が折れる。
題名は、
> 逆質問で女性の苦しみを矮小化した男へ、女性参加者が毅然と対応
だった。
催しの最初に、なつきがスタッフへ言った言葉は使われなかった。
> 理解しようとして参加してくれた異性を、私たちが苦しめるのは違うと思います。
シンが最初に女性の痛みを認めた言葉も短くされた。
なつきは映像を最後まで見た。
自分が最初に何を恐れ、最後に何をしたのかを、映像は一つの正しい行動へ編集していた。
削除を求めることはできた。
なつきは求めなかった。
共有もしなかった。
ただ、画面を閉じた。
匿名掲示板には、番組への感想が並んだ。
> 56:匿名
> シンは最初に女性の痛みを認めていた。
> そこを切って、質問と電流だけをつなぐのは違うだろ。
> 61:匿名
> 最初、ボタンを押すのを嫌がっていた女がいた。
> 最後にシンへ押したのは、その女だった。
> 68:匿名
> 相互理解なら、男が聞いたことにも誰か答えるべきだった。
投稿者の身元は確認できなかった。
実名では問えず、匿名の問いは読まれなかった。
男たちは、問いを受け取ってもらえる場所がないと感じ始めた。
数世代後、疑似体験の映像は「相互理解教育の転換点」として教材になった。
老いたなつきの証言も収録された。
> あのとき、私は彼を罰したつもりはありませんでした。
>
> 女性の痛みを理解できないまま帰したら、彼はその先でも誰かを傷つけてしまうと思ったんです。
>
> 厳しく見えたかもしれません。でも、本当は、彼を見捨てたくなかっただけです。
なつきは嘘をついていなかった。
長い時間の中で迷いだけが消え、電流は教育に、シンの問いを止めた行為は慈愛になっていた。
教材には、なつきの証言のあとに次の解説が付いた。
> 女性参加者は、反発する男性を排除せず、理解へ導こうとした。
>
> この毅然とした共感が、後世の相互理解教育の基礎となった。
シンが女性に何を理解してほしかったのかは、教材にも残らなかった。
あのとき、女性の強さを称えた三人の男は子供を残した。
シンは子供を残さなかった。
シンの系統を終わらせたのは、装置の電流ではなかった。
そのあとに失われたAttentionだった。
## 第十章 問いを食べる
第三十世代。
疑似体験の映像が「相互理解の成功例」として教材になってから、さらに十世代が過ぎていた。
この計算世界には、資源配分、災害予測、繁殖管理、そしてAttentionシステムそのものを設計する技術者を育てる「中央技術院」があった。
入学できるのは、毎世代百人だけだった。
修了者は、社会の制度を設計する権限、安定した資源、異性へ示せる高い地位を得た。
中央技術院へ入ることは、社会のQueryとKeyを決める側へ回ることだった。
中央技術院が作られた当初、百の入学枠は、女五十、男五十に分けられていた。
女のおとが言った。
「女の方が入学試験で高い評価を得ても、女子の五十枠が埋まっていたら中央技術院へ入れない。性別で入学枠を分ける男女別定員制度は平等に反するわ」
男たちは頷いた。
「点の高い者から入れるようにしよう」
男女別の入学枠はなくなり、試験の総合点が高い者から百人を選ぶ制度になった。
制度変更の発表後、一人の男子受験生が実名アカウントへ文章を書いた。
> 女子が高得点でも「事実上の男子枠」のせいで落とされるのは不平等だと思います。
>
> ただ、男女別定員をなくせば、年によっては男子が大きく減ることもあります。
>
> 女子が減ることだけでなく、男子が減ることも同じように問題として数えるのでしょうか。
男子受験生は、自分の顔写真と志望校名が表示された画面を見た。
中央技術院の推薦担当者も、将来の雇用者も、交際候補の女たちも、その投稿を読める。
女子の入学を妨げたいわけではない、ともう一文加えた。
それでも、投稿後にどの言葉だけが切り抜かれるかは選べなかった。
男子受験生は、文章を消した。
同じ疑問を匿名掲示板へ書いた。
最初のスレッド名は、ただ、
> 中央技術院の男女別定員廃止について
だった。
> 5:匿名
> 女子が点数で上なのに男子枠に邪魔されて落ちるのは変だと思う。
> そこは廃止でいい。
> でも男子が減った年は、男子の機会損失として数えるのか?
> 9:匿名
> 女子が少ないと構造的問題。
> 男子が少ないと実力の結果。
> そういう使い分けにならないなら賛成。
> 16:匿名
> これ実名で言ったら、女子の進学を邪魔する男として保存されそうで言えない。
> 21:匿名
> 実名で問えば差別主義者。
> 匿名で問えば本人確認できないから無価値。
> 男の不満を受け取れる場所、最初から存在しなくないか。
男たちは旧制度の不平等を認めたうえで、男子の不利益も数えてほしいと書いた。
公式な回答は、「匿名の感情的反応を制度設計の根拠にはできない」だった。
数世代後、中央技術院の学生と修了者に女が少ないことが問題になった。
試験の総合点だけで選ぶ制度は形式的には同じ条件だったが、幼少期の教育機会、周囲の期待、女性の少ない学習環境、評価者の無意識の偏見が、女の進路選択へ影響していると指摘された。
そこで、通常の百枠とは別に、女だけが応募できる入学枠を導入すべきという議論が巻き起こった。
匿名掲示板では、以前のスレッドが掘り起こされた。
> 302:匿名
> やっぱりこうなった。
> 男女別定員は平等に反するから廃止。
> 女子枠は公平のために新設。
> 男子が減った時に数えるのかって質問には、誰も答えなかった。
> 317:匿名
> 最初の制度で女子が落ちるのは差別。
> 次の制度で男子が落ちるのは是正。
> 結論を先に決めて、平等と公平を使い分けてるだけでは。
それでも、公の場から返事はなかった。
一方、掲示板の外では、投稿の一部が、女子枠へ反発する男性の敵意として紹介された。
男たちは、丁寧に問えば無視され、怒れば悪意として発見されることを学んだ。
スレッド名が変わった。
> 【大炎上】女さん「男女別定員制度は男子枠」←これwww
さらに、女子枠の導入が正式決定した夜、新しいスレッドが立った。
> 【悲報】まんさん、男子枠を廃止に追い込んでおきながら女子枠を新設してしまうwww
そこには、制度の整合性を問う言葉だけではなくなっていた。
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