私の婚約者は、最近どこか様子がおかしい
ダズリー公爵邸の広大な庭園では、優雅な弦楽の調べと貴族たちの歓談の声が響き渡っている。
見事な青空の下で華やかなお茶会が開かれているというのに、グリフィード公爵家の令嬢カルメンの心には、どんよりとした暗雲が立ち込めていた。
(マーティン様……最近、どうにも様子がおかしいわ)
カルメンは、少し離れた場所で客人の相手をしている婚約者、マーティン・ダズリーの背中を扇越しに見つめる。
彼は決して目を引くほど派手な容姿ではないが、落ち着いた佇まいと、誰に対しても穏やかで誠実な態度が魅力的な青年だ。
カルメンに対しても常に優しく、非の打ち所がない婚約者である。
いつもなら、お茶会の最中も自然にカルメンの隣に寄り添い、優しい言葉の一つや二つを囁いてくれるはずだ。
だが、今日の彼はあからさまによそよそしかった。
エスコートの手にはどこか躊躇いがあり、カルメンが話しかけてもどこか上の空。
何より、カルメンと視線を合わせようとせず、周囲を気にするように泳がせてばかりいたのだ。
(私、何か彼を怒らせるようなことをしてしまったかしら……?)
思い当たる節を探してみるが、これといって明確な理由は浮かばない。
ただ、カルメンは昔から、一度思い込むと周りが見えなくなり一直線に突っ走ってしまうところがある。
それで失敗したことも何度かあったが、そのたびにマーティンは、気にする必要はないよと優しく笑いながら慰めてくれていた。
けれど、もしかしたらそんな自分に愛想が尽きているのではないかという不安が浮かぶ。
カルメンは人前で不安を顔に出すことこそしなかったが、胸の奥では微かな焦りを覚えていた。
やがて茶会がお開きになり、カルメンは帰りの馬車へ向かうために庭園を後にした。
が、最後にマーティンに挨拶をしようと、彼がお茶会が終わってから真っ先に向かっていった本邸の裏手――見事なバラが咲き誇る、古いガラス張りの温室のそばへ足を向けた時だった。
「……?」
立ち並ぶ高い生垣の向こうから、ひそひそと話し込む男女の声が聞こえてきた。
一つは間違いなくマーティンの声だ。
カルメンが微かに目を細め、温室の外からそっと中を覗き込むと、そこには信じられない光景が広がっていた。
大きな木陰には、マーティンが立っていた。
そして彼の目の前には、カルメンの全く知らない、見知らぬ若い女性の姿があったのだ。
目鼻立ちがはっきりとしていて少し気の強そうなカルメンの容貌とは正反対の、ふわふわとした綿毛のように愛らしく、思わず庇護欲をそそられるような小柄な令嬢だった。
マーティンは誰かに見られていないか確認するように周囲へ鋭い視線を巡らせると、懐からこっそりと何かを取り出す。
それは、手のひらに収まるサイズの小さなベルベットの箱だった。
箱の形状といい大きさといい、カルメンは一目で分かってしまう。
あれは間違いなく、指輪を収めるための箱だ。
マーティンがその箱を愛らしい令嬢にそっと手渡すと、彼女はばぁっと顔を輝かせ、大事そうに胸に抱く。
マーティンもまたひどく安堵したような、柔らかい表情を浮かべて小さく頷いているではないか。
カルメンは息を呑み、ぎゅっと唇を噛み締める。
頭の中が真っ白になり、次いで、大きな混乱が体の中で渦を巻いているのを感じる。
(嘘でしょう!? よりによって自分の家の、それも婚約者である私がまだ敷地内にいるというのに、こっそり隠れて別の女性と密会しているというの!?)
堂々とした態度ならまだ言い訳もできただろう。
しかし、あの周囲を気にする不自然なまでの警戒ぶりと、女性のうっとりとした表情、そして指輪の箱という決定的なアイテム。
カルメンの心に、これまで一度も考えたこともなかった『浮気』という文字が、はっきりとよぎった瞬間だった。
◆
その後少し周囲に探りを入れたことで、あの温室にいた女性の素性が判明した。
彼女はクルーニー伯爵家の令嬢、フローラというらしい。
(マーティン様は、私のような少し気の強い女よりも、本当は、あのような可愛らしい方が好みだったのかしらね……)
カルメンとマーティンの婚約が結ばれたのは、カルメンが五歳、マーティンが七歳の時のことだ。
幼い頃のことなので全てをはっきりと覚えているわけではないが、顔合わせで初めて会った時、ひどく緊張していたカルメンに向かって、優しそうにふにゃっと笑いかけてくれた彼の顔は今でもずっと覚えている。
あの笑顔を見て、カルメンは彼を好きになったのだ。
それから十数年、婚約者としてずっと一緒に過ごしてきて、彼から嫌われているとは一度も思ったことはなかった。
むしろ暴走しがちなカルメンにたまに困ったような顔を向けながらも、愛情を注がれていると信じていた。
けれど――自分とは正反対の魅力を持つ彼女の存在に、カルメンは密かに落ち込んだ。
そんなある日、カルメンは両親から預かった書類を届けるため、ダズリー公爵邸にあるマーティンの執務室を訪れた。
ノックをしても返事はない。
どうやら彼は席を外しているらしい。
公爵邸の使用人に手渡すことも考えたが、何気なくノブを回すと扉が開く。
用事を済ませてすぐに立ち去ればいいと考え、カルメンはそっと部屋に入ると、執務机の上に書類を置こうとした。
その時、机に置かれた紙束の中の一番上にあった、ふとある文字が目に留まった。
そこには、彼の見慣れた美しい筆跡で、仰々しいタイトルが書かれていた。
『ダズリー公爵邸・夏季夜会における重大事案・決行手順書』
一カ月後、このダズリー公爵邸では毎年恒例となっている大規模な夏の夜会が開かれる予定だ。
カルメンも婚約者として当然出席することになっている。
(夜会の手順書? 重大事案とは何かしら……)
不思議に思い、カルメンは何気なくその文面に目を落とした。
しかし、そこに書かれていた内容を読んだ瞬間、カルメンの全身からサァッと血の気が引いた。
『一、対象者カルメンを会場の中央へ誘導。逃走経路は確実に塞ぐこと』
『二、当日は絶対に本人に悟られないように警戒を怠らないこと』
『三、拒絶された場合の第二案では、直ちに土下座に移行し、情に訴えかける』
『四、対象の侍女アニーを事前に陣営に引き込む。万が一のことがあれば、無理やりにでも対象者が同意するよう説得に加担させること』
「な、に、これ……」
カルメンは口元を手で覆い、よろめくように一歩後ずさる。
夜会において、なぜわざわざ自分の逃走経路を塞ぐ必要があるのか。
それはつまり、大勢の客がひしめく中で、自分が逃げ出したくなるほどの事態が計画されているということに他ならない。
考えられるのは、公衆の面前での糾弾、あるいは決定的な恥辱。
――そこでカルメンの脳裏に、先日の温室での密会と、見知らぬ令嬢に渡されていたあの指輪の箱が鮮明に蘇った。
続けてもう一つ、嫌な噂も思い出される。
(そういえば最近、どこかの国の社交界では、大勢の客が集まる夜会で劇的な婚約破棄を突きつけ、そのまま新たな恋人との婚約を華々しく発表するという、ひどく悪趣味な流行があるという噂を耳にしたことがあるわ……!)
それらが呼び水となり、カルメンの脳内で、散らばっていた不穏なパズルのピースがカチリと音を立ててはまっていく。
ならば彼がわざわざ夜会という大舞台を選ぶ理由は一つしかない。
――指輪を贈るほどに好意を抱くあの愛らしいフローラを、新たな婚約者として華々しく発表するつもりなのだ。
しかしそのためには、現在の婚約者である自分という邪魔者を完全に排除しなければならない。
だからこそ反論や逃走を許さないよう退路を断ち、衆人環視の中で婚約破棄を突きつける……。
(つまり逃走経路を塞いで、衆人環視の中で婚約破棄を突きつける気ね!? しかも、私が泣いて縋ったり、そうではなくても公爵令嬢の矜持として拒絶したら、土下座という力技で丸め込むつもりだわ!)
これまでの不審な行動のすべてが、最悪の形で一本の線に繋がってしまった。
しかも、一番ショックだったのは最後の一文だ。
(アニーを味方に引き込むですって? 私の一番信頼している侍女を?)
あまりの衝撃に足元がふらついたが、カルメンは必死に理性をかき集めた。
こんなものを見てしまった以上、のんきに書類を置いて帰るわけにはいかない。
カルメンは持ってきた書類を机に置かず、慌てて背を向けて部屋を出た。
そして、通りかかった公爵邸の使用人を呼び止め、何事もなかったかのように素知らぬ顔で書類を渡すと、逃げるように自家の馬車へと乗り込んだ。
自室へ戻ったカルメンは、先ほど見た光景を思い出し、ソファに力なく座り込む。
そこへ、何も知らない様子の侍女のアニーが温かい紅茶を運んでくる。
青ざめているカルメンを見て、アニーは心配そうに眉を下げた。
「お嬢様、いかがなさいました? ……ああ、もしかしてまたマーティン様のことで悩んでおられるのですね」
実のところ、カルメンはここ数日、アニーにだけは弱音を吐いていた。
『お茶会で不自然に避けられた』『最近よそよそしくて、私と目を合わせてくれない』と。
その度にアニーは、カルメンを励ましてくれていたのだ。
アニーは今も優しい声で、カルメンを慰めるように言った。
「マーティン様は最近、夜会の準備でとてもお忙しいご様子ですから。お疲れが溜まっていて、少し余裕がないだけですよ。お嬢様を避けているわけではありませんから、どうかお気を落とさずに」
本来なら、主であるカルメンを思いやる温かい言葉のはずだ。
しかし、あの極秘計画書を見てしまった今のカルメンの耳には、まったく別の意味に聞こえていた。
(アニー……あなた、本当にマーティン様の側についてしまったのね)
カルメンは膝の上で、アニーに気づかれないようにテーブルの下で、ドレスの布地がしわくちゃになるほど強く拳を握りしめた。
(私が夜会での婚約破棄に気づかないように、当日まで波風を立てないよう、こうやって私を騙し続けているんだわ!)
婚約者に裏切られ、幼い頃から苦楽を共にしてきた侍女にまで裏切られた。
味方は誰もおらず、深い絶望と孤独がカルメンを襲う。
両親に相談することも考えたが、カルメンはすぐに首を横に振った。
手元に証拠がない今、裏で親に動いてもらっても、周到な彼のことだから上手く言い逃れされるかもしれない。
(そもそも、どうしてあの時、あの計画書を証拠として持ち帰ってこなかったのよ……っ!)
あまりの衝撃にパニックになり、手ぶらで逃げ帰ってきてしまった己の間抜けさを今さら痛感し、カルメンは一人頭を抱える。
しかし、今さら取りに戻るわけにもいかない。
そして何より、彼がわざわざ大勢の客が集まる夜会で自分を陥れるつもりなら、親の陰にコソコソと逃げ隠れするのは、誇り高きグリフィード家のプライドがどうしても許さなかった。
本当は泣き叫びたいほどに悔しいし悲しいが、カルメンはゆっくりと顔を上げ、氷のように冷たい光を瞳に宿す。
(一カ月後の夜会……。そこまで周到に準備して私を陥れようというのなら、こちらにも考えがあるわ)
売られた喧嘩は倍額で買い取る。
そして、どうせなら自分の方からあの裏切り者に別れを告げてやるのだ。
カルメンは胸の奥で、静かに、そして確固たる決意を固めたのだった。
◆
あの計画書を発見してから夜会の間までにも、二人の間には、定期的なお茶会や顔合わせの場が何度か設けられていた。
しかし、マーティンの様子は相変わらず不自然だった。
どこかそわそわとしていて、カルメンと視線を合わせようとしない。
それに、
「そういえば、先日うちに書類を届けてくれたそうだけど……その、ぼ、僕の執務室の中に、入ったり、なんて……」
彼が探るようにそう聞いてきたのだ。
あまりにもあからさまに怪しい態度だったが、カルメンが扇で口元を隠し、
「いいえ、ご不在のようでしたので、使用人の方に預けてすぐに帰りましたわ」
と嘘をつくと、彼は露骨にほっと安堵の息を吐いたのである。
(やはりあれは、私に絶対に見られてはいけない計画書だったんだわ……!)
彼のその態度は、カルメンの疑念を確信へと変えるには十分すぎるものだった。
――それからというもの、カルメンは自室で密かに決戦の日に向けてとある特訓を重ねていた。
「マーティン様、これまでありがとうございました。どうぞ、その方と末永くお幸せに」
夜更けの自室で、誰にも見られないよう鍵をかけ、カルメンは全身鏡の前で冷ややかな微笑みを浮かべる練習を繰り返す。
悲しみに暮れる惨めな女などではなく、誰よりも美しく完璧な淑女として、彼に引導を渡さなければならない。
声が震えないように、扇を優雅に閉じる所作が乱れないように、何度も何度も練習を繰り返す。
すると、
「……お嬢様、まだ起きておられますか?」
扉の向こうから、アニーの声が聞こえてきた。
もうとっくに寝静まっている時間だというのに、扉の隙間から部屋の明かりが漏れていたため、起きていると気づかれてしまったらしい。
カルメンはビクッと肩を揺らし、慌てて落ち着いた声を作ると、扉の向こうへ声を返す。
「え、ええ。もう休むところよ」
「来週はついに夜会ですからね。マーティン様のエスコートで、お嬢様が一番輝く日です。お肌に障りますし、夜更かしなどしないよう、今のうちからゆっくりお休みくださいね」
扉越しの優しい声に、カルメンはぎゅっと目を伏せた。
(アニー……あなたは、私が来週どんな目に遭うか知っているくせに、そうやって私を油断させようとするのね)
本来なら一番の味方であるはずの侍女さえ、今は敵陣営の人間だ。
足音が遠ざかるのを確認すると、カルメンは小さく息を吐き、宝石箱の中から一つの指輪を取り出した。
そして、大切に保管してあったそれを見つめる。
――それはカルメンがまだ子供だった頃、婚約の証として彼から渡された小さな指輪だった。
当然、今のカルメンの指にはもう入らない。
『今は仮の物だけれど、大人になったら、本物はちゃんとカルメンの好みに合わせたものを用意するからね』
と、幼い彼はそう約束してくれていたのだ。
カルメンの中でめらめらと燃えていた怒りが、ふと静かな寂しさへと変わる。
「……悔しいわ。私、本当に、マーティン様のことが好きだったのに」
幼い日の、あのふにゃっとした優しい笑顔や、これまでの穏やかで誠実だった日々の思い出が蘇り、視界が滲む。
しかしカルメンは、両手でパンッと自分の頬を叩き、強引に涙を引っ込めた。
「泣かないわ。グリフィード家の人間の誇りにかけて、私が誰よりも美しく、そして華麗に婚約破棄してみせるんだから」
孤立無援の悲劇のヒロインは、ただ一人、戦場に向けて悲壮な覚悟を研ぎ澄ませていくのだった。
◆
そして迎えた、ダズリー公爵邸での夏季夜会の当日。
日が落ち、招待客たちが続々とメインホールに集まり始めている頃、カルメンは開宴前の少しの時間を利用して、庭の空気を吸いに出ていた。
すると明かりの落ちた温室の奥から、聞き覚えのあるひそひそ声が耳に届いた。
――マーティンと、あのフローラだ。
カルメンは息を殺し、夜の闇に身を隠してそっと耳を澄ませた。
「いよいよ今夜が勝負だ。絶対に失敗は許されない」
「ええ。今日まで、あの方にはずっと内緒にしてきましたし。長かったこの秘密の共犯関係も、やっと終わりますね!」
フローラの言葉に、マーティンは感慨を込めるように深く頷いた。
「ああ。ずいぶんと長く待たせてしまったよ。今夜こそ俺のすべてを捧げて、愛する人を手に入れる覚悟だ」
その会話を聞いた瞬間、カルメンの中で最後の迷いが完全に消え去った。
(あの方というのは、間違いなく今の婚約者である私のこと。そして、マーティン様の言った、愛する人を必ず手に入れるという言葉はつまり……)
――マーティンは、今夜カルメンを捨ててフローラを選ぶのだ。
カルメンは胸の奥で暴れる悲しい気持ちに頑丈な蓋をして、ふふっと静かに、そして美しく冷笑をこぼした。
これほど見事に裏切ってくれるのなら、遠慮はいらない。
「望み通り、最高の夜会にして差し上げますわ。マーティン様」
◆
まばゆいシャンデリアの光が降り注ぐダズリー公爵邸のメインホールは、今年はなぜか例年よりも、やたらと豪奢な薔薇の花で埋め尽くされていた。
「君は、薔薇の花が好きだっただろう?」
エスコートの最中、マーティンが少し照れくさそうにそう囁いてきた。
確かにカルメンはその花が好きだが、これから修羅場を迎えようとしている彼女にとって、今はどうでもいいことだ。
カルメンは、どうせなら自分ではなくあのフローラをエスコートすればいいのに、と冷ややかに考えていた。
少し離れた場所に立つフローラは、彼の瞳の色によく似た青系のドレスを着ている。
それにしては少々明るすぎる気もするが、きっと彼が贈ったものに違いないと、カルメンは一人納得していた。
周囲の招待客たちは、なぜかみんなそわそわとして、期待に満ちた眼差しでこちらを見守っている。
それらの反応から、カルメンは、彼らが今夜ここで婚約破棄の茶番が起こることをすでに知らされているのだと推測した。
そんなことはつゆほども知らないであろうカルメンの両親は、ニコニコと嬉しそうに娘の姿を見つめている。
これから自分がその笑顔を曇らせることになるのだと思うと、カルメンの胸にチクリと申し訳なさがよぎった。
だが、止まるわけにはいかない。
マーティンに導かれ、カルメンはホールの中央へと進み出る。
すると、周囲の客たちが自然な動作で円を作り、二人の背後をぐるりと囲むようにして立ち並んだ。
(ついに来たわね。 見事に逃走経路が塞がれたわ…… )
隣に立つマーティンの表情はガチガチに緊張し、カルメンの手を引く指先は微かに震えている。
カルメンにはそれが、今から婚約破棄を突きつけるための緊張にしか見えなかった。
そしてマーティンが息を吸い込み、口を開きかけたその瞬間――。
先手必勝とばかりにカルメンは彼の手から自分の手を離し、すっと一歩後ろへ後ずさると、孤独な夜を越えて完成させた、完璧で気高い淑女の笑みを浮かべて言い放った。
「これまでありがとうございました、マーティン様」
カルメンの凛とした声がホールに響き渡る。
ざわついていた客たちがピタリと動きを止め、何事かと息を呑んだ。
マーティンもまた、跪こうとしていた動きを空中で止め、目を丸くする。
跪いて婚約破棄をお願いしたいほどにフローラを愛しているのかと、カルメンはわずかにぐっと唇を噛むが、すぐに表情を戻すと高らかな声で宣言した。
「私は、他に心の決まった殿方に執着するほど見苦しい女ではありませんの。ですから私たちの婚約は、こちらから破棄させていただきますわ!」
途端に、会場は水を打ったように静まり返った。
マーティンは一瞬で顔面蒼白になり、血の気を失った唇を震わせた。
「カ、カルメン……? 今、なん、と……婚約、破棄……?」
何が起きたのか全く理解できないというように、口をパクパクさせて言葉を失っている。
けれどカルメンは容赦なく追撃するため、特訓通り、優雅に扇を広げて彼に突きつけた。
「隠さずとも結構です。私は見たのですから」
「な、な、何をだい?」
「一カ月前のお茶会で、庭園の温室の裏でフローラ様に指輪の入った小箱をこっそり渡していたことも」
「へ?」
「あなたの執務室に、私を逃がさず婚約を破棄するための計画書が置かれていたことも」
「!?」
「さらには私の侍女のアニーをご自身の陣営に引き入れたことや、先ほどフローラ様と密談していたことも、すべて存じております」
「え、あ……」
マーティンは間抜けな声を出したまま、完全に思考が停止しているようだった。
そんな彼を一瞥し、カルメンは完璧な冷笑とともに最後の言葉を放つ。
「どうぞ、フローラ様と末長くお幸せに!」
その一方で、マーティンと密かに逢瀬を重ねていたと名指しされたフローラは、
「ええっ、私ですか!?」
と素頓狂な声を上げて肩を跳ねさせた。
正直フローラに対しても物申したいことは多々あるのだが、気を抜くと彼女に詰め寄ってしまいそうなのだ。
そんな無様な真似はしたくないカルメンはフローラから目を逸らすと、背筋を伸ばし、一片の涙も見せることなく、公爵令嬢としての矜持と誇りを完璧に保ちきった。
誰の目から見ても、不誠実な婚約者を堂々と振ってやった、美しく気高い令嬢の姿に見えるはずだ。
――しかし、婚約が無事破棄されたことに対する歓喜の声を待つカルメンに返ってきたのは、予想に反して、周囲のひどく困惑しきった、きょとんとした視線だった。
「ま、待ってくれカルメン! 君は何を言っているんだ!?」
しかもマーティンも喜んでいる様子はなく、はっと我に返ったように、慌ててぴょんと立ち上がると、カルメンに手を伸ばしてくるではないか。
「全部誤解なんだ! 僕はただ、君に……」
「見苦しい言い訳は無用です!」
不思議に思いながらも、カルメンが扇で彼の手をピシャリと制止したその時、二人の間に小さな影が割り込む。
それはマーティンの恋人のフローラだった。
(愛するマーティン様を庇うのね。さながら、私が恋人たちを引き裂こうとする悪役令嬢のようだわ)
自分がひどく惨めで滑稽な存在に思え、カルメンは胸の奥がズキリと痛むのを感じた。
だが、そんなカルメンの沈んだ気持ちをよそに、フローラはブンブンと勢いよく首を横に振る。
「ご、誤解です! 大いなる誤解です、カルメン様!」
「誤解? そんなわけないでしょう。私はこの目で確かに見たのよ」
カルメンが扇越しに強い視線で睨みつけると、フローラはひぃっと短く悲鳴を上げながらも、必死に言葉を紡いだ。
「実は今日、この夜会で正式に皆様に発表する予定だったんですが……私は、マーティン様の弟のジーク様の婚約者なんです!」
「……え?」
予期せぬ言葉に、カルメンは淑女としてはあるまじきことだが、扇の内側でぽかんと口を開けた。
「…………」
言われてみれば、フローラのすぐ隣には、いつのまにかやってきたジークが目を白黒させつつ、フローラの言葉が真実だと言わんばかりに首をぶんぶんと縦に振りまくっている。
そしてよくよく見れば、フローラが着ているドレスの明るい青色は、マーティンではなく、ジークの瞳の色と全く同じだったのだ。
カルメンが混乱して固まっているその隙に、フローラは立て板に水のごとく説明を続ける。
「それからカルメン様が温室で見たという指輪の件ですが! 実家が宝飾やその加工を家業として行っているので、マーティン様からカルメン様に贈る指輪の相談に乗っていただけです!」
「で、でも、あの日、マーティン様が渡した指輪の入った小箱を、あなたはとても嬉しそうに胸に抱いていたじゃない!」
カルメンが反論すると、マーティンがたまらずといったように叫んだ。
「あそこに入っていたのは指輪ではなくて、僕が君のために選んだ、指輪につけるための宝石だ! フローラ嬢が『素晴らしいものです、大切な宝石は我が家が責任を持ってお預かりし、きちんと指輪に仕上げます』と言ってくれたから、僕は無事に間に合うと分かって心底安堵していたんだ!」
(……宝石を預かる? だから、彼女は大事そうに抱えて、マーティン様はほっとしていたというの……?)
「で、では、執務室にあったあの計画書は……」
「あれは、君のための……そ、その、サ、ササ……」
「ササ?」
「っ、サ、サプライズのプロポーズをするための計画書だ!」
マーティンが顔を真っ赤にして、カルメンの予想の斜め上の言葉を叫んだ。
これにはカルメンも釣られて顔を赤らめ、思わず金切り声を上げる。
「プロポーズって……何言ってるんですの!? そもそも私たちはいずれ結婚すると、昔から決まっていて……」
「それはそうだけど! それでも僕はちゃんと君に気持ちを伝えて、義務的な婚約ではなく、俺自身の意思で君にプロポーズしたかったんだ! だけど君は勘が鋭いから、気付かれないように必死で、それでアニーにも協力を仰いで……」
そこまで聞いて、カルメンは先ほどの温室での密談の真意を完全に理解した。
『長かった秘密の共犯関係』とは、サプライズ準備のこと。
『今夜彼女を手に入れる』とは、カルメンに改めて求婚し、名実ともに妻にしたいという意味だったのだ。
混乱するカルメンの耳に、とどめとばかりに、マーティンの父であるダズリー公爵の呆れ顔の笑い声が響いた。
「だから言ったのだ、マーティン。お前はサプライズなどという器用な真似ができるタチではないとな」
「ち、父上っ……」
次々に明かされる真実に、カルメンの頭の中で、完璧だったはずの推理がガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
(なっ、えっ、う、嘘でしょう……!?)
つまりカルメンは、マーティンが一生懸命準備してくれたサプライズプロポーズを勝手に婚約破棄の宣言だと勘違いして、大勢の客の前で「すべて存じております!」とドヤ顔で婚約破棄を叩きつけたのだ。
悲劇のヒロインを演じきった己の姿を思い返しつつ、カルメンは状況を完全に理解した。
(わ、私、なんて恥ずかしいことをっ……!)
そのうえ、動揺のあまり扇を落としてしまい、衆人の前に真っ赤に染まった顔を晒してしまう。
隠すものを失い、羞恥心でゆでダコのように真っ赤に染まったカルメンの顔が、衆人環視の真ん中に堂々と晒されてしまった。
たまらず両親の方を見ると、彼らは、やれやれ、相変わらずうちの娘は猪突猛進だなぁと言わんばかりの、ひどく生温かくも愛情に満ちた目で見守っていた。
どうやら二人とも、マーティンのプロポーズ計画を最初から知っていたらしい。
そして視線を戻せば、目の前にはマーティンがいる。
彼の顔は、計画を台無しにされた怒りなど微塵もなく、ただカルメンの盛大な勘違いに呆然としつつも、愛しさと照れくささが入り混じったような、どうしようもなく甘い表情でこちらを見つめていた。
その愛情に満ちた空気に耐えきれず、カルメンの羞恥心はついに限界を突破した。
(無理! 恥ずかしくて死んでしまうわ!)
カルメンは淑女としてはあるまじき速さでドレスの裾をガシッと掴み上げると、超高速で一回だけ完璧なカーテシーを披露した。
そして、そのままヒールを鳴らして、塞がれていたはずの客の円を強引に突破し、メインホールから脱兎のごとく逃走した。
「あ、カルメン! 待ってくれ!」
後ろから自分を呼ぶマーティンの声が聞こえたが、カルメンは振り返ることなく駆け出していったのだった。
◆
夜の庭園を、カルメンはドレスの裾を握りしめたまま一心不乱に駆け抜けていた。
「カルメン!!」
そんなカルメンの背後からは、切羽詰まったマーティンの声と、芝生を踏みしめる足音が追いかけてくる。
(待ってと言われて待つ馬鹿がどこにいますか!)
顔から火が出るほど恥ずかしいカルメンは、なんとか彼を振り切ろうと走りながら、ちらりと背後を振り返る。
しかし――そこで彼女の目に飛び込んできたのは、予想外の光景だった。
「ひっ!?」
マーティンが追ってきているはずなのに、暗がりの中で迫ってくるのは、彼の姿ではなく、巨大な赤い何かの塊だったのだ。
……よくよく見ればそれは、大量の薔薇の花束だった。
声的にそれを持っているのは間違いなくマーティンなのだろうが、顔も体も花束で完全に隠れている。
そのため、足の生えた上半身と顔が巨大な薔薇の塊で覆われた謎の物体が、息を切らしながら猛スピードで突進してくる様はホラーにしか見えない。
恐怖を感じたカルメンは、
「いやぁぁっ!!」
と短い悲鳴を上げ、本気逃げの態勢に入った。
が、さすがにヒールとドレス姿では限界があった。
庭園の奥にある噴水の前まで来たところでついに追いつかれ、カルメンは肩で息をしながら立ち止まった。
「はぁ、はぁ……っ、待っ、て……!」
同じく息も絶え絶えな声が聞こえ、もさっと巨大な薔薇の花束が横にずれる。
そこから、乱れた前髪の隙間から必死な目を覗かせたマーティンが現れた。
しばらくの間、夜の庭園には、二人の荒い息遣いだけが響いていた。
やがて徐々に呼吸も落ち着いてきた頃、カルメンが先に口火を切った。
「……ところでマーティン様、ずっと気になっていたのですけれど。その凄まじい量の薔薇はいったい何なのですか?」
「これは、その、君が五歳の時に、『百本の薔薇でプロポーズしてほしい』と言っていたのを、ずっと叶えたくて……」
カルメンは呆然と瞬きをした。
「私、そのようなこと言ったかしら……?」
「え!? い、言っていたんだ! ほら、王子様がお姫様に告白する童話の絵本を読んだ時に、『私もこんな風に、薔薇のお花を百本もらってプロポーズされたい!』って……!」
必死に説明するマーティンの言葉を聞き、カルメンは記憶の奥底を探る。
そういえば幼い頃、そんな夢物語を彼に向かって熱弁したような気がしないでもない。
つまり、自分ですら完全に忘れていたような五歳の時の言葉を、当時七歳だった彼は、十数年間もずっと忘れずに温め続けていたのだ。
「僕は君に完璧なプロポーズをしたいと思っていたから、そのためにこの薔薇を用意して。フローラ嬢に手伝ってもらったり、アニーにも話して、当然君のご両親にも事情を説明して……でも……」
ここでマーティンは、情けないと言いたげに目を伏せた。
「僕自身が、当日が近づくにつれてそわそわしてしまって、君の前で普通にできなくて……。結果的にあんな態度をとって、君を傷つけてしまった。本当にすまなかった。でも……僕は、君が好きなんだ」
マーティンは真剣な瞳でカルメンを見つめると、その場にゆっくりと跪き、その百本の薔薇の花束を力強く突き出した。
「だから、その……僕と、結婚してくだしゃい!」
「……え?」
「あっ……」
静寂が降りた噴水の前で、二人の時間が止まる。
マーティンはハッとして自分の口元を押さえ、顔を耳まで真っ赤に染めた。
――完璧に計画した、一生に一度の大勝負での盛大な噛み間違い。
「……っ、ふふっ、あはははは!」
カルメンの口から、淑女らしからぬ大きな笑い声が吹き出した。
猪突猛進に怒っていた自分の勘違いも、衆人環視でやらかした羞恥心も、彼の一途で不器用すぎる愛の重さの前では、すべてがどうでもよく思えてしまったのだ。
同時に、心の底から深い愛しさがこみ上げてくる。
「笑わないでくれ。格好良く決めるつもりだったのに……」
恥ずかしさで死にそうになっているマーティンの手から、カルメンは顔を真っ赤にしながらも、その薔薇の花束を受け取った。
しかしずっしりとした重みにカルメンがよろけそうになると、マーティンが慌てて立ち上がり、花束を噴水の縁にそっと置かせてくれた。
薔薇が落ちないのを確認してから、カルメンはマーティンに向き直る。
「……私こそ、ごめんなさい。勝手に一人で勘違いして突っ走って。あなたがおかしなことは気づいていたのだから、直接聞けばよかったのに」
「カルメン……」
「こんな思い込みの激しい私ですけれど……結婚してくれますか?」
カルメンの言葉に、マーティンはふにゃっと、あの幼い日と同じような優しく幸せそうな笑顔を浮かべた。
「ああ、もちろんだ! 僕はそんな君が大好きなんだから」
そう言ってマーティンは懐から、あのベルベットの小箱を取り出した。
箱を開けると、月光を反射してキラキラと輝く、カルメンの瞳と同じ赤色の宝石があしらわれた美しい指輪が現れる。
マーティンは空いたカルメンの左手をそっと取り、薬指に丁寧に指輪をはめる。
いつ測ったのだろうか、指にはめられた指輪は、腹立たしいほど彼女の指にぴったりだった。
二人は噴水の前で、百本の薔薇を挟んでそっと見つめ合い、ようやく本物の婚約者として、甘く穏やかな夜の空気に包まれるのだった。
◆
カルメンは、勝手な誤解で裏切り者扱いしてしまった侍女のアニーに平謝りし、たっぷりとお詫びの品を贈ることになった。
アニーは、
「お嬢様が幸せになってくださったのなら、私はそれで十分です」
と笑って許してくれた。
そして、この騒動にはもう一つ、思いがけない余波があった。
マーティンの用意した、不器用でロマンチックなサプライズがいつの間にか人々の間で語り継がれ、なんと最近では、『家同士で決まった婚約者であっても、百本の薔薇の花束を贈って改めてプロポーズをする』という行動が大流行してしまったのだ。
街角や夜会で特大の赤い薔薇の塊を目にするようになり、その度にカルメンは当時の自分の盛大な勘違いを思い出して、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをすることになるのだが――。
隣で自分の手を優しく引き、幸せそうにふにゃっと笑う不器用な婚約者の顔を見るたびに、「まあ、いっか」と心から微笑んでしまうのだった。




