第26話 境界の向こうから来たもの
境界の薄膜が、わずかに揺れた。
波紋のような歪み。
だが、水面とは違う。
“こちら側”と“向こう側”の区別が、曖昧になる感覚。
「……出ます」
ユイの声が、低くなる。
次の瞬間、空気が冷えた。
温度ではない。
存在が抜け落ちたような冷たさだ。
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それは、人の形をしていた。
輪郭は曖昧で、光を反射しない。
足元は地面に触れているのに、重さが感じられない。
「魔物じゃない……」
エリスが、慎重に距離を取る。
「はい」
ユイが頷く。
「死の残滓です」
「正確には、“戻る場所を失った記録”」
記録。
その言葉が、妙にしっくりきた。
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「攻撃性は?」
俺が聞く。
「今のところ、ありません」
「ただ……混乱しています」
残滓は、周囲を見回すように首を動かした。
だが、視線は合わない。
「……迷子か」
そう呟くと、ユイが一瞬だけこちらを見た。
「似ています」
「境界が閉じすぎて、戻れなかった」
それは、誰かの選択の結果だ。
溜め込んだ、安全の副作用。
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残滓が、一歩、こちらへ近づいた。
エリスが、反射的に前に出る。
「待て」
俺は、手で制した。
「こいつは、敵じゃない」
残滓は、止まった。
まるで、言葉が通じたかのように。
「……意思は、ほとんど残っていません」
ユイが言う。
「でも、“戻りたい”という方向性だけは、あります」
「なら」
俺は、境界を振り返る。
「帰す」
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「可能ですか?」
「完全には無理だ」
境界は、もう以前の形じゃない。
だが、道を作ることはできる。
「……ユイ」
彼女が、静かに頷く。
「境界の流れ、調整します」
「この残滓に、合う“向き”を探す」
彼女の額に、うっすら汗が浮かぶ。
「無理はするな」
「大丈夫です」
即答。
「……今度は、止めていませんから」
その言葉に、少しだけ救われた。
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境界が、わずかに明るさを変える。
残滓が、それに反応した。
ゆっくりと、向きを変え、
歪みの中へと歩き出す。
抵抗は、ない。
ただ、流れに乗るだけ。
そして――消えた。
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空気が、元に戻る。
「……行った」
エリスが、息を吐く。
「はい」
ユイも、肩の力を抜いた。
「戻れました」
「一体だけ?」
「いえ」
彼女は、境界を見つめたまま言う。
「これから、少しずつ出てきます」
少しずつ。
それが重要だ。
「一気に出ないなら、対処できる」
「はい」
「境界が、流れを覚え始めています」
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遠くで、また一つ歪みが生じる。
だが、先ほどほど重くない。
世界が、調整を始めた証拠だ。
「……怖くないですか」
エリスが、ぽつりと聞く。
「怖い」
俺は、正直に答える。
「でも、これが正常だ」
何も起きない世界は、もう続かない。
起きるべきことが、起きる。
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ユイが、静かに言った。
「……境界が、私を引っ張りません」
「そうか」
「初めてです」
彼女の声に、わずかな震えがあった。
それは、恐怖じゃない。
**解放**だ。
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境界の向こうで、微かな光が揺れる。
次の“戻り損ねたもの”が、待っている。
だが、世界はもう詰まっていない。
「行こう」
俺は、制御盤から手を離した。
「一つずつ、返す」
それが、この章の仕事だ。
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