知恵が足りずに生まれてきた子の生涯
知恵が足りずに生まれてきたこの子が・・・・・・・この世からおさらばするときに世間様がこん子の不憫さばかりで無うて頷き認めてくださるような何れかの証を、片手ひとつでええですから何ぞ持たせてやってはくれますまいかと、お前様の亡くなったおふくろ様は・・・・・・名主になったばかりの小僧っ子の私の両の掌を掴まれて地べたを掘るように・・・・・その薄くなった頭を下げられた。それで、今度の正月で三十路になるお前様には、村役人交代で務める樋の番人を終生やってもらうことにしたのです。
となり村との月決めを取り止めて終生お前様とするにはなかなか難渋した。血で血を洗う水争いのあったのはふた昔も前のことでも、皆んな幼い時分に爺さまたちからその一部始終を聞かされておったからなぁ。
それでも、わたしは頑張った。
玉の汗がこめかみを伝うのも拭わんと説き伏せた。それで、毎日の天道様が真上となった刻内村と外村おのおのが変わり番こに御山の水を藪に隠れた樋に分ける役目は、ふたつの村いちばんの正直者に終生お任せすると一つにまとまった。それが名主になったばかりのわたしの初仕事になった。
はじめ、それを言ったときはどの村の衆も口々に異論だった。が、最後には皆が頷いてくれた。おふくろ様の言うように、お前様は知恵は足りないがどこぞの甘言する輩がおってもそれになびくことはないからと、それが一番に水差配の公平を保てるやり方だと頷いてくれた・・・・・・・亡くなった爺さまたちも、孫子らは水が無ぅなるとしって土留め色になってしまう己れの喉を皮膚を骨の髄を元々のままで潤うよう、打ちもの飛び道具なんでも持ち出し血で血を洗ってさらに互いをズタズタしよった醜い争いごとを二度とせんよう、絞った知恵の証よと、伝えてくれるはず・・・・・と。
一つにまとまったとき、村の衆はわたしを清右ヱ門の倅から名主の目で見てくれるようになりました。
おふくろ様が亡くなった日もお天道様が真上に間に合うようにとその一時前に冷たくなりきらぬ褥を離れ樋の隠されてる御山の方へ藪の方へと、お前様は歩いていかれた・・・・・だんだんと小さくなるお前様の背を見ていると、亡骸のおふくろ様は透きとおる羽化した蝉に変わりお前様の背にとまったようだった。粟田のオジを説き伏せても強引に弔いを仕切らせてもらったのにはそうした経緯もあってのこと、いや経緯は正しくはありますまい。
恩である。
おふくろ様は腹を痛めたたった一人のお前様の生末を案じ初めて目見うわたしに己れの渾身を届けられた。渾身の真というものを教わったのは、紛れもなくあのときのおふくろ様によるのです。この齢まで御城下に参るお勤めも幾度となくあったが、お前様のおふくろ様のように想えばいつでも素直に頭の下がるお人というものはなかなか指を数えるほどしかおらなんだ。染み込むような恩を感じるお人はおらなんだ。
その恩がいまでもこうしてわたしを包んで呉れているのです。
お喋りが過ぎたようだ。
座らせたままで、こないな話ばかり聞かされていたのでは、お前様のお尻はずいぶんむず痒くなってきたことでしょう。帰りの道すがらでよいから、もう少しわたしのお喋りに付き合っておくれ。今日も今日とて暑くなったものよ。毎日の決まりごととはいえ、桶の向きを変えるのが御山に入って藪に入ってちょうどお天道様の真上に上がったときとは。寒さ凍てつく冬空であれば御身に被る獣毛が防いでも呉れようが、刃が刺すばかりの暑さに至ってはどうにもこうにも・・・・・背には応えることでしょうな。
お前様とていつまでも洟を垂らしたままの身体ではおられますまい。一切を孫子に譲ったわたしがこうして存るのだもの、わたしより一回り上のお前様であれば腰といわず膝といわず、御山に登るだけでも悲鳴を上げておるでしょう。
ささっ、負ぶってあげましょう。なぁーに、まだまだ瘦せたお前様の身体ひとつくらい山道の下り坂であれば容易いこと。そうしようと、背負子を背に負ってきたのだから、だからこうして背中合わせで残りを聞いてて欲しい。面を合わせてていては出てこようとするものが引っ込んでしまいますのでな。
ほっ、ほぉー
こうして合わせてみますと、お前様の背中というのは案外に柔らかいものでありますな。口と心根とがいつも一緒の和らいだお顔ですから、わたしら凡人のように硬くて渇いた爺ぃなどではなく、これから実る桃の実のように丸い穏やかなのでありますな。
一度、おふくろ様の背中に触れたことがあります。
あの日いつまでも薄くなった頭を地べたを掘るように下げられたままの身体を起こそうと、背に触れたのです。あのときも桃の実を感じました。その丸くて柔らかな実のかたちというより果実に至らぬ桃の実の持つ揺蕩うの調べを聞いていたのです。そのときおふくろ様の口から零れたように、そこには居らないお前様がすっくと現れ、わたしの背なに掌をあて、一緒に屈むように促し、わたしら三人、互いの背なに掌を当て調べは巴となりました。覚えておいででしょうか。おたしは目を瞑っても絵筆を取ってなぞれるほどその輪郭の一部始終をはっきり覚えております・・・・つい、いまじがたのように
こうしてお前様を背負っておると、あれからいままでの50年の移ろいが何もなかったかのようにただただ巴を聞いていたような心持ちです。
藪を抜け御山を降りてきた清右ヱ門は空になった背負子を置くと、これからの樋の番はひとりするものと少し西に傾きかけた天道様にそれを告げました。




