第二十八話 虞美人花海の前での饗宴・前編
「わあ、なんて美しい景色なんだろう!遠く離れていても、銀霜に包まれたジャガン平原で、一面に咲き誇る虞美人が優雅に舞う姿が見える。」
灼眼城に到着した後、レイが馬車から降りた最初にしたことは、焦って城門まで走り城壁に駐屯する兵士に門を開けてもらうことではなく、足取り軽やかに昇降梯子を踏みしめた瞬間、小さな妖精の如く飛び跳ねて軽やかに地面に着地し、身を斜めにして手を目の前に翳し、遠く飛び交う群れの紅をじっくり眺めた。
「甲斐、早く一緒に行って見てよ、いいでしょう?」
賞賛の声が空中を吹き抜ける荊瑟の如き、冷たい風に消え去る前に、レイは活発に『追影号』の馬鞍から降りたばかりの甲斐の前に駆け寄り、笑顔を浮かべて彼の手を握った。
「いいでしょう?ただ一瞥だけでもいいから、一緒に行ってよ。」
その目を細めて舌を出して誠実に自分に頼む小さな妖精を見て、甲斐は五指を伸ばして額に押し当て、蕭寂な青空を仰いでため息をついた。
「レイ、言っておくが、この道中ずっとお前は道端の風景ばかり眺めて、楽しんでいただけじゃないか。まさかライオンハート城を出発した時、エドワード陛下から託された使命を忘れてしまったのでは?」
振り返って炎の棘が嵌め込まれた城門を見ると、視線を泳がせて城壁の上にいる巡回警備の衛兵が、投げる警戒の眼差しを捉えた。甲斐は指を立てて、レイの膨れっ面の頬をついた。
「ここに来た理由は、お前と花を鑑賞するためではない。あなたの父親と灼眼城の引き渡しの件について話し合うためだ。」
「ふん、甲斐はケチなんだから。」
彼の手を強く振り払い、レイは再び視線を『シュリー号』の頬を優しくなだめるズノーの身に向けた。指先を顎に当て、頭の中に突然閃光が走った。
「ズノー弟、私という可愛い姉と一緒に、空を舞う花弁が一面に咲き乱れる虞美人の花畑で、ロマンチックでトキメキくデートをしないかい?」
「レイ、お前は…」
「ごめんなさい、お誘いをお断りさせていただきます。デートに行きたいなら、存分に甲斐を連れて行けばいい。もちろん…私は二人の邪魔はしない。」
甲斐が逆上してに任せて放った叱責が、唇から漏れないかのうちに、すでに傍からズノーの冷たくも圧迫感に富んだ落ち着いた声が聞こえてきた。彼はゆっくりと頭を上げ、口元から湧き上がる白気を突き刺さし、淡々とした目で甲斐とレイを見つめた。ふと笑みを含んだ目を細め、氷河を溶かす程の詭譎で圧倒的な文艮な気配を漂わせた。
「私一人でカイザー元帥と話し合えばいい。これは皇兄が私に託した任務だからだ。」
「だから、あなた方は自然に自分を許して、心の底に溜まった重い圧力を少しでも放してもいい。私もそれで責めることはない。」
言い終えると、ズノーが澪凪な眸光で身を回し、『シュリー号』の手綱を玄鉄の黒い鎧を着た騎士に渡し、落ち着いた表情で南西の方角にある真っ黒な『星の塔』を仰いで見た。
一方、後ろの二人は、ズノーのこの淡くて骨まで沁みるような言葉を聞いた後、まるで空中にゆっくりと恐ろしい幻影が現れたかのようだった。レイは無意識に甲斐の後ろに隠れ、白く透ける指先で力を込めて彼の腕を掴んだ。澄んだ誠凛の瞳には、恐怖の潮が溢れていた。
「甲斐、私…」
言葉が薄桜い唇から零れた刹那、彼女は既に俯き瞳を伏せ、まつ毛がふと眼前を掠める花弁を払い落とした。レイが心許なさげな小さな様子を振り返り凝視するの目に留め、「ふふふ」と悪辣な笑い声を立てた甲斐は、自らの紫い袍を解き、愛情を込めてレイの肩に掛けた。
指先が額にかかる揺れる髪を軽く弾き、首を傾けて城門に向かって歩いていくズノーを見つめ、爽朗に彼が振り返した明洌な眼差しを迎えた。
「殿下、お笑いになってはいけません。忘れましたか?僕は殿下に忠誠を誓った家臣です。今日に至るまで、どうして殿下を一人にして、自ら楽しい時間を過ごせましょう。」
「さあレイ、我々も殿下の後を追いましょう!」
優しくレイの玉潤な五指と絡ませ、甲斐は彼女の額の薄い髪を梳き分け、そこに軽くキスをした。その後、邪魅に微笑んだ。
「殿下、ご安心ぐたさい。僕とレイは命を賭けて殿下の側に付き従い、殿下とエドワード陛下のご努力により、フランス公国の『鳳凰三色旗』が眩しい虹彩を咲き誇った様を共に見届けます。」
「こうなれば、二人の軽率な行動は一旦許してやるよ。」
こっそりと窺い見たのは、甲斐の顔に浮かんだ「一生懸命に頑張って」という全身全霊に真剣な態度だった。ズノーは肺に滞った呼吸をゆっくりと切り替え、頬に淡く滲んだ灼熱感が静かに引いていくのを感じながら、徐ろに打ち明けた。
「ただし、次からは勘弁してくれよ。何しろ今我々はフランス公国の存亡に関わる重任を担っているのだから、この件は真剣に向き合わなければならない。遊び事として扱ってはいけない。」
彼の言葉が終わると同時に、背後から突然羞恥と少しの怒りが混じった、山間に浸み渡る活力に満ちた清澈な渓流のような、銀鈴の如く美妙で悠々な声が響いた。
「悪い甲斐、こんなに人の多い前で…恥ずかしいことをするなんて。」
まるで草原に寝転ぶ白兎が、空を駆ける猛鷹の鳴き声に驚かされた如き。心地よい脱力感の中で我に返った後、彼女は突然頬を赤く染めた手で覆い、甲斐の目に宿る狡猾な光を背に受け、悔しがりながら小声で叱りつけた。
「また…またこんな無鉄砲なことをしたら、二度と相手にしないからね。」
「ハハハハ、どうやら我が娘がこの老父の元を離れて数日で、心ときめく好きな男性に出会っからしいな!」
言葉が終わるや否や、空気中に凝り固まったレイの照れ臭さは、如く磅礴たる浩涛と化し、灼眼城の固く閉ざされた鋼鉄の城門を叩き開いた。
遠くから見れば、巍峨たる山脈が大地の淒戚な震えと悲鳴を引き起こする如く、徐々に城外の衆人の視界に入ってきた。しかしその雄渾たる声を聞いた途端、レイの頬に浮かんだ緋紅は瞬時に消え、幾滴かの清らかな涙が吹き荒ぶ冷風に落ちた。
「お父様…」
身を旋せてズノーの前に立つ高大な影を望み、レイは自らを遮る甲斐を突き飛ばし、軽やかな足取りで、瞳に高るかに燃える炎を宿した男に向かって走り出した。この瞬間、彼女の心に広がる喜びは、ジャガン平原の空を優雅に舞う明嫣の花弁のようで、北国の綿々と連なる万里にわたる孤高で幽冷な気品を燃やした。
「お父様?この男が、聖ゼアン帝国現任の南部戦区統帥である、皇后の叔父という身分で特例にて『郡王』の爵位に昇進した十八翼将の一人、『虓虎上将』の異名を取るカイザー・ベリアン・オーグドなのか?」
遥か遠くに立つだけで、この男の身から放たれる原始的に、剽悍な猩々の粛殺の雰囲気を感じ取れる。これは千以上の生死をかけた戦火を経て鍛錬され、才能の進化によって生まれた名将特有の、人心を震撼させる威嚇の気場である。そして彼の父上レイモン・アンソニー・ペンドラゴンは、まさにこういう、敵を畏怖させ胆を寒からせる、極めて伝説的な人物であった。
「お父様、早くあの甲斐を叱りつけてください。彼…彼がこんなに人の多い前で、公然と私を虐げるなんて。」
両手を広げてカイザーに抱きつくレイは、乱れた万丈の風嵐の束縛から脱け出した白花のようで、喜びに満ちてカイザーの瞳に溶け込んだ慈愛を眺めた。その後、彼女は突然身を横に向けて、無意識に指を鞘に当てた甲斐を振り返り、悪戯っぽくピンク色の舌を出した。
「ヒッヒッ、甲斐、これでどうやって私を虐げるつもり?」
嬉しそうに父上の自分に対する溺愛を感じながら、レイの愛らしい顔が甲斐が仕方なく肩をすくめるのを見詰めた瞬間、まるで群れをなす素晴らしい愛を謳歌する小さな精霊が、開いた心の扉に押し寄せて入るのように、頬辺りに幸せな甘い味わいを飾り出した。
「今は愛するお父様に守られているのよ。」
言葉が完全に終わらないうちに、吹き抜ける激しい寒風に巻き込まれ、瞬時に灰青の空を舞う花の渦の中に傾けられた。ちょうどその時、十名の黒鎧騎兵が戦馬から飛び降り、肩に纏った『赤羽鳳凰』の紋様が施された黒袍が、狂い咆哮する蕭々たる北風の中でひらひらと翻り舞う。
彼ら驍勇な姿は、虚無を飲み込む羽ばたく黒烏の如く、矯健な足取りでカイザーから三歩の距離まで来た。圧縮された風の塊が真空で破裂し、軽やかに耳際を掠めた時、全員が上半身を低くして地面に跪き、胸に腕を組んだ雄武な男を敬虔と見上げた。
「主公、我々は無事にお嬢様を送り返しました。今、主公にご命令を果たし、次のご指示を賜りたく存じます。」
「よくやった、お立ちください。今後、フランス公国の英猛な戦士として、新しい主君のために戦場で力を尽くしてください。」
カイザーは片腕で自分に甘える娘を抱き上げ、直ちに筋肉を隆起させた右腕を勢いよく振り回し、雷霆が山巔を打つ如きひらひらとした轟音を迸り出した。
「はい、我々は主公のご命令に従います。」
この雷鳴が大地を襲う如く怒号を聞いて、ズノーの眉宇間に刻まれた苦悩の表情が、忽ち晴れやかに溶け込んだ。振り返って身近に来た甲斐を見詰め、二人は互いに目配せず笑い合い、同時に身を回してカイザーの毅然とした顔に浮かんだ親しみの笑顔を凝視した。
ズノーは空を薙ぐ左手で荒れ狂う気流を纏い、自らの後ろで舞う紫袍に軽やかに近づき、指先で悠然と撫でた。右手を胸に捧げて、上半身を曲げ、俊秀な顔に厳整な表情が浮かんだ。
「フランス公国親王ズノー、我が国エドワード大公陛下の命に従い、特にカイザー郡王との間で灼眼城の引継ぎに関する正式な会談を、展開するため参上致しました。」
言葉の余韻がふと風の中の琴弦を撥ね、一陣の莞爾とした美しい清音が風の軌跡に暈渲された虞美人の妖冶な酔紅に触れた。
甲斐は鞘に当てた指を放し、忽しく拳を抱えて片膝を地に突き、琅然と言い、凛冽たる朔風の中に鋭く響く声を迸らせた。
「同様に、在下はフランス公国万騎長甲斐と申します。今回の会談の副使として、聖ゼアン帝国カイザー郡王殿下に参上致しました。」
声の方を向き、視線がズノーの身に注がれた時、周囲を漂う黄金色の光粒を凝望する、カイザーの剛烈な目が忽ち顰められ、直ちに心の底で呟いた。
「なるほど、これが長公主の子どもか。この落ち着き払った容貌を見る限り、我が聖ゼアン皇室の純素な遺風を具えているようだっ!」
豪快に「ハハハ」と笑い数声、カイザーは腰をかがめる、懐に寄り添う娘のレイを地上に戻して置いて立たせた。体内に沸騰する狂熱と豪情が、空気中を掠める蝕骨の寒流を灼熱の霧に変えた。この湧き上がる濁霧が天際に浮かぶ霽雲と接触すると、青竹が灰燼と化す時の臨終の亡音が轟いた。
彼は龍虎が行雲を駆ける如く大股で二人の前に歩み寄り、親切のこもった口調で言った。
「フランス公国のズノー親王殿、甲斐閣下のご来訪を歓迎する。我が聖ゼアン帝国南部戦区元帥――カイザー・ベリアン・オーグドと申す。貴国の協力に心より感謝し、灼眼城にて会見を開かせていただく。」
これは永く史書に載るべき歴史的な一幕となる会見であった。カイザーが腰を屈めて眼前の二人の若者を扶け起こした時、フランス公国の『鳳凰三色旗』と『吟月鳳凰』軍旗が、灼眼城の城楼に高く翻る聖ゼアン帝国の『飲剣蛟竜』国旗を牽引していった。
制御を失った銀河の星軌が崩壊した『星系の橋』の如く、三つの憏魅な色彩は、絢爛たる玫紅色の流星が蒼穹を横切るがごとく、雲を衝く黒冷薄蛍に彩られた『星の塔』の頂で交わり描き出す。
この融和の光景を九天の外に流れる燦然たる星海に刻み込み、枯れない輝きの星々へと変える――それは人間界にのみ存在する、初冬の広大なジャガン平原に咲き誇る深海の嫵媚を持つ真紅の虞美人の如き、この一瞬の儚い火の舞を映し出す。




