第二話 啟程
その者が現れるや否や、まるで時空全体が次元に飲み込まれ、残された全ての事物が砕けた影となり、時間が織りなす長い流れの中に散り散りに消えた。明らかに、長年戦場を駆け巡った者特有の――刃に倒れた亡霊たちの怨念が凝縮した強熱な殺伐感だった。空っぽな瞳から漏れ出す藐視群雄の傲慢は、まるで衆生を戦靴の下で踏みにじる蟻のように見下していた。
「参りました、陛下。」
二人の兵士は慌てて手放した長槍をカーペットに押し付け、瞬間に空気の中で揺れていた身形は勢いよく跪いた。真っ赤なカーペットを見下ろす目は血走り、汗がこめかみからポツポツと震える指の隙間に落ちた。彼らが止めていた呼吸は、この瞬間、時間が逆流する砂の中に嵌ったように停滞した。
崩れ落ちる光の雫がロルスの足取りに従い、騒がしい気流の中で急に収縮した。彼の視線が微かに傾く。
「ズノー、お前はやりすぎだ。彼女は少なくともお前の母妃だ。」
「陛下、ご覧ください。あなたの『素敵な息子』にいじめられました。」
女は自分の灼けつくような腹部を指差し、瞳には切ない涙が溢れていた。その姿は、驚いた子羊のようにロルスの懐に寄り添い、悲しみにくしゃみをしながら泣いていた。
そう、目の前の女が――ティロス王国の現王妃ウィンザー・エレノア・ロディアンは、王国一の財力を握るロディアン家が、心を込めて育てた長女だった。
彼女の父サーシェルの指図のもと、王妃の基準に沿って『原石を彫刻する』ように、穏やかな輝きの中に隠れた不純物を丁寧に取り除いてきた。目的はたった一つ――ロルスが即位して王冠を被る日に、長い間空っぽだった後宮に差し出すことだった。
だが、王国と聖ゼアン帝国が盟約を結んだ一瞬時、ロディアン家が数十年にわたる密謀してきた計画は瓦解した。
聖ゼアン帝国のマリアーナ王女が『政治的な駒』として後宮に入り、一年以内にズノー皇子を産んだのだ。それ以来、マリアーナとズノーを憎むロディアン家は、暗い淵の中で新しいたな陰謀を練り始めた。
「彼女は私の母妃ではない。」
ズノーは血まみれの錦袍を引き裂き、ロルスの温もりのない冷たい瞳と正面から対峙した。
「私の母妃は…」
「その女の名前を余の前で口にするな。」
ズノーの言葉が落ちるや否や、ロルスが握りしめた拳が部屋の空気を巻き込み、ぴったりと彼の腫れた頬に叩きつけられた。飛ばされた体が壁に激突するのを見て、ロルスは懐で忍ばしく笑うウィンザーを抱きしめ、よろめきながら立ち上がるズノーが口元の血を拭う様をじっと見つめた。そして重い溜息を漏らした。
「今日から、この宮廷でその女の名前を聞きたくない。」
その後、ロルスは泣き止んだウィンザーを抱き上げ、部屋を出て行った。
「残念だ…お前はもう私に命令する権力を失った。」
窓辺に寄りかかったズノーは歯を食いしばり、ロルスのマントが揚がる衣澄を、玄関に降り注ぐ光の塵の中で徐々に消えていくのを見つめた。
振り返って地面から起き上がる二名の兵士を見て、血の泡を吐き出した。
「あなたは適任の夫でさえない、それどころか合格した父親でもない。さらには…王になる資質すら満たしていない。」
「何を言っている?」
この時、一名の兵士が槍をズノーに向けた。眼底に満ちた軽蔑の色が、窓枠から差し込む光の束にてらされ、汚染された濁った気配を漂わせていた。
「マリアーナの遺児のくせに、今上の聖明な国王陛下を誹謗中傷するとは。」
「どういうこと?あなたたちは敬愛する国王陛下のために、私を殺すつもり?」
兵士が迫りくる槍先に直面して、ズノーは力を尽くして体を起こし、額から流れる血を手で拭い、口角に冷笑を浮かべた。
「私がどんなに失寵しても、あの人の正眼を得られなくても。」
彼は一歩一歩、宙に浮かぶ槍先に向かい、指で槍尖をつまみ、喉に押し当てた。
「余は少なくとも…ティロス王国の十三番目の皇子だ。」
兵士が冷や汗を流しながら震える唇を見て、ズノーは槍先をそらし、指腹に出た真っ赤な血を舐めた。
「体内にはティロス皇室の血が流れている。」
彼の口角に纏わりつく興奮が、兵士の恐怖に満ちた眼底で溢れ出していた。ズノーが顔を近づけるのを見て、皇族の威厳に怯えるのか…身体の本能がそうさせるのか…
ズノーから放たれる霜雪のような冷たさが、氷河を滑る高傲な雪狐が天から降りてくる夕暮れを横切るように、二人の兵士の前に高大な虚影を立て、彼らを足元で頭を下げさせた。
「余を裁く資格はお前たちにはない。」
ズノーは振り返って窓辺に来て、胸に当てた手のひらが、空を見上げて月を凝視した一瞬目、急に握りしめた。
「母妃、誓う。いつか聖ゼアン帝国の帝都に自ら行き、あなたを迎えに行く。」
翌日、例の早朝の宮殿で、玉座に高く座るロルスは手に宝剣を握り、指先を剣身に沿わせてゆっくりと剣先まで滑らせ、目を閉じて台下の両側にいる文武百官のささやきを聞いていた。
彼らの沸き騒ぐ議論の声が、一人が敷居の光影を踏み砕く姿と共に、彼の雲のように流れる水のような軽やかで落ち着いた足取りに目を注ぎ、階段下で足を止めた瞬く間、毒霧のように瞬きするまに広がった。
「あれはズノー皇子じゃないか?」
「陛下がなぜ彼を召喚するの…」
「聞いているけど、マリアーナ王妃が帝国軍に強引に拉致されてから…」
文官の筆頭に立つ老臣が、一通りの言葉を述べ終えると、急に広い袖をつかみ、顔をそむけてそっと目尻を濡らす涙を拭った。そして襟のしわを整え、慈愛の目で、世論の嵐の中心に陥ったズノーの孤独な背中を見守った。
「ズノー皇子の生活はずっと辛かったらしい。」
「本当にそうなの?ああ、俺たちの皇子はあまりにも可哀想だ!」
この時、次席にある中年の文官が、その言葉を聞いて老臣のそばに寄り添った。
「もういい、これは臣下の僕たちが干渉できることではない。」
この老臣が手を振って振り返り、中年の文官が顔に溢れる驚疑を抑えさせ、視線を再びズノーの身上へと向けた。乾いた唇から、軽やかなささやきが一言漏れ出した。
「きっと陛下が僕たちに答えをくれるでしょう。」
自ズノーが宮殿に足を踏み入れて以来、空気中に漂うささやきは、舞い散る花粉のように、そっと彼の耳元に忍び込んでいた。
この時、ロルスの閉じていた目が突然開いた。凜とした光を放つ利剣が、流れる空気の動きに合わせ、震える音を立てながら、剣と鞘の形を成し、静かに収まり静まった。
鞘が地面に重く落ちる音と共に、殿舎の内部のささやき声は、地面を震わせるほどの沸き上がりの中、徐々に鎮まり、最終には寂静と溶け合った。
彼は玉座から立ち上がり、御前の机を回り、ゆっくりと階段口まで歩みつづけた。目を細めてひとすじにし、高いところから、ひとつうの表情のズノーを見下ろした。
「ズノー、こんにちより、ライオンハート城の陣前で効命するようを命じる。」
ロルスの言葉の余韻が、まるで竜が舞うように天井から差し込む光の霞の中に金の盤竜柱をめぐって泳ぎ、無上至尊を象徴する国王の玉座をめぐって旋回している刹那。静かな宮殿は、たちまち湧き上がる声浪で埋め尽くされた。
武将装束の老者が口を軽く覆い、背後の青年の耳元に囁いた。
「ライオンハート城…それはエドワード大皇子が自ら軍を率いて駐留する北方の辺境城じゃないか?」
彼の、戦場から立ち昇る氷と火からに鍛え上げられた堅毅な顔に、握りしめた両拳の関節から「ギクッ」という音が鳴り響くにつれ、高揚する戦意が深い瞳の中で燃え盛っていた。
「しかも…ちょうどわが国と戦っている聖ゼアン帝国と国境を接している。しかもズノー皇子は…」
青年は横を向いてズノーを見た。すると、もともと平静な彼の表情に、その言葉の重さを感じた一瞬目、わずかな微妙な波紋が拡がった。顎に当てた指腹が、国王の深意をくりかえし推敲するように摩り、上がった口角に強い笑みが浮かんだ。
「そうだ…明らかに、我々の国王陛下は、意図的にズノー皇子を…自分の実の舅と敵対する最前線に追い込もうとしている。」
『お前に命じる。今日の朝会退席した後、直ちに出発して赴任する。』
「しかもエドワード大皇子の監督の下で。」
青年の言葉が、ロルスの最後の詔諭に混ざり込んだ。二つの低い声のぶつかり合いが、ズノーの震える唇と共に、そよそよと吹き込む宮殿内の清風の中、徐々に消えていった。
「は…王様…命令に従います。」
ズノーは跪いて、ロルスが渡した宝剣を受け取った。一筋の冷や汗が、風がそよぐえりまでを吹き抜ける瞬間にとつぜん途切れ、彼がまばたく目の中で、赤いカーペットに滴り落ちる一刹に静かになり、暗い赤の波紋がひろがった。
ロルスは横目で、震える眉をしたズノーをちらりと見、そのあといつも通り冷たい顔で、そばを過ぎていった。
「あなたに余を失望させないでほしい。」




