女神の死角
前回のお話は?
戦場に漂う空気は重苦しかった。
女神の影が消えたあとも、王子部隊の仲間たちは安堵できずにいた。確かにウルフは救い出せた。だが――女神の言葉が耳に残っていた。
「……やがてまた、試練は訪れる……」
王子は剣を見つめながら、静かに呟く。
「試練……。奴は自らの力を過信していた。だが、確かに見えた。女神にも“死角”がある」
リィアナが首を傾げる。
「死角……?」
「ああ。ウルフを解放したとき、奴は一瞬……俺たちの“心の声”に動きを止められた。あれはつまり、完全無欠ではない証拠だ」
会議が開かれ、王子部隊と王国の魔法師団が集められる。議題は「女神への対抗策」。
魔法師長は険しい表情で語った。
「女神はこの世界の理を歪める存在。剣も魔法も通じぬ。しかし――魂や精神に関わる部分には干渉できぬようだ」
リィアナが机を叩く。
「ならば、私たちの“絆”こそが女神の死角になるのね!」
だが、すぐに異論が飛ぶ。
「感情や絆に頼るなど無謀だ!」
「女神は人の心を弄ぶのだぞ!」
会議は激しく紛糾した。
その中でウルフが立ち上がる。まだ身体は本調子ではないが、その目には力が宿っていた。
「俺は……女神の器にされかけた。だから分かる。あいつには“完全に支配しきれない場所”がある。俺を救ったのは、王子とリィアナの声だった」
沈黙が場を包む。
王子はその言葉を背に、ゆっくりと皆に告げた。
「俺たちは剣や魔法で勝つんじゃない。心で勝つんだ。女神の死角――それは“人と人との信頼”だ」
その夜。
王子とリィアナは星空の下、密やかに語り合った。
「女神の死角を突けるのは、私たちだけかもしれない……」
「そうだ。だが、そのためには覚悟がいる。愛する者を盾にされても……迷わず進む覚悟が」
リィアナは王子の手を強く握った。
「私はあなたを信じる。たとえ何があっても」
遠く、虚空の亀裂から女神の残滓が蠢き出していた。
それは次なる侵攻の前触れ。
だが王子は剣を掲げ、静かに呟く。
「女神よ……お前の死角は必ず突き破る。俺たちの絆でな」
― 許嫁の名はリシェル
王都の古い書庫にて、王子は一冊の封印された文書を見つけた。そこには幼いころから決められていた許嫁の名が記されていた。
――「リシェル・グラシア・フォン・オルデン侯爵家令嬢」
見覚えのある響きだった。だが記憶の奥底に封じられていたため、王子はその名を忘れていたのだ。
「リシェル……まさか……」
王子の背後に現れたのは、リィアナだった。彼女は不安げに眉を寄せる。
「あなた……その名を知っているの?」
「いや……知っていたはずだ。幼いころから、俺には婚約者がいた……だが不思議と誰もその話を口にしなかった。まるで“記憶を消された”かのように」
その瞬間、空気が揺らぎ、銀色の光が満ちる。
姿を現したのは――あの女神。
だが今度は神々しい衣ではなく、かつての侯爵令嬢の姿。
金糸の髪、翡翠の瞳、そして微笑。
「久しぶりね……私の“婚約者”」
胸が軋んだ。確かに覚えている――幼いころ、一緒に庭園を駆け回った少女の姿。約束を交わした少女の名は、リシェル。
だが今、目の前にいるのは世界を脅かす女神だった。
「お前が……リシェル……?」
女神は微笑を深める。
「そうよ。私はリシェル。幼いころからあなたと結ばれる運命だった。そして同時に、女神として人の世を導く使命を背負っていた」
リィアナが震える声で叫ぶ。
「嘘よ! 彼の隣にいるのは私! あなたなんかじゃ――!」
しかしリシェルは冷ややかに振り返り、言葉を突きつけた。
「あなたは美しいわ、リィアナ。けれど所詮は後から現れた影。彼の本当の“伴侶”は私……。そう、この世界そのものを統べる存在として」
王子の胸に重いものがのしかかる。
愛と運命、記憶と宿命。
すべてが絡み合い、剣より鋭い痛みとなって心を貫いた。
女神リシェルは最後に一言残し、光の中へ消えていく。
「もうすぐ選ばなければならないわ……“世界”か、“愛”か」
残された王子とリィアナは、互いに手を強く握りしめるしかなかった。
― 全ては欺きの果てに
王子の胸に突き刺さる衝撃は、剣よりも鋭かった。
リシェルが女神であったこと、それだけでも十分に重い真実だった。
だが、さらに恐るべき事実が明らかになっていく。
「……どうして思い出せなかったんだ……。なぜ誰も俺に“許嫁”のことを話さなかった……」
王子は王宮の古代記録庫に潜り込み、埃をかぶった石板を読み解いた。そこに刻まれていたのは、禁忌とされた王家の真実。
――王子の誕生自体が、“女神の術”によるものだった。
――王国の民が信じてきた歴史の多くも、女神が都合よく書き換えた幻影に過ぎなかった。
――忠義を誓っていた臣下の一部もまた、女神の眷属。
全ては欺き。
王子が歩んできた人生は、女神の思惑通りに仕組まれていたものだった。
「俺の……人生すら……女神の掌で……?」
拳を握りしめた王子の隣で、リィアナが震える声を上げる。
「待って……あなたまで、自分を疑わないで。私は違う、私は本当にあなたと生きた……」
だが王子の胸には、かすかな疑念が芽生えていた。
――もしかして、リィアナすら女神に“与えられた存在”ではないのか?
そんな王子の迷いを見透かすように、空間が裂け、女神リシェルが再び現れる。
その瞳は幼き日の優しさを宿していながら、背後に広がる光は冷酷な神の権能を帯びていた。
「やっと気づいたのね。ええ、そうよ。あなたの人生はすべて私が編んだもの。あなたが戦い、愛し、信じたもの……そのほとんどが幻に過ぎない」
「ふざけるなッ!」
王子の叫びが書庫に響く。
女神は微笑みながらも、その表情にわずかな悲しみを滲ませた。
「でもね……騙し続けてでも、あなたを“私の隣”に置きたかった。それが女神である前に、リシェルという一人の女の願いなの」
真実が暴かれるたび、王子の心は引き裂かれる。
信じていたものが虚構に変わり、未来すら揺らぎ始める。
だが――ただ一つ。
リィアナが差し伸べた手だけは、確かに温かかった。
――それは、血の気が引くような真実だった。
目の前で微笑むリシェル――いや、女神。侯爵家の令嬢として俺の隣にいたはずの彼女は、ゆっくりとその姿を変え、淡い光の粒子に包まれていく。長い金髪が銀白に、瞳が神殿の祭壇に刻まれた紋章と同じ輝きを放つ。
「ようやく気づいたのね、愛しき王子様。」
その声は、幼い頃から何度も聞いた優しい響きなのに、今は冷たく、底知れぬ威圧感を孕んでいた。
リシェルは、いや“女神”はゆっくりと口元を歪める。
「あなたの“幼馴染”“許嫁”“未来”……全てはこの私が用意した舞台。あなたが私の意のままに動くように、あなたの心を縛るための脚本だったのよ。」
胸の奥で何かが弾けた。
幼い頃の思い出も、笑顔も、寄り添ってくれた時間も……全部が嘘?
「……まさか、最初から……?」
俺の声は震えていた。
女神は微笑み、頬に手を当てながらまるで演じるようにうなずく。
「ええ、最初からよ。侯爵家の娘“リシェル”など、この世に存在しない。あなたに近づくためにこの姿を取っていただけ。あなたの“選択”すら、私が導いた。」
頭の中が真っ白になった。
王国再建の誓いも、リィアナを守る決意も、俺自身の信念だと思っていた全てが、彼女の手のひらの上だったというのか。
「……リィアナまで、あなたが……」
女神は、楽しげに首を傾げた。
「それはどうかしら? でもあなた、あのエルフを選んだでしょう? 私が仕掛けた駒のひとつを捨て、別の駒に執着する姿、興味深かったわ。」
胸の奥に、燃えるような怒りと悔しさが込み上げてくる。
すべて操られていた。人生そのものが、女神の“物語”に書き込まれていた。
だが――ここから先は、俺自身の意思で選び取る。
拳を握りしめ、俺はその瞳を正面から見据えた。
「……だったら、ここから先は俺の物語だ。もう誰にも操られない。」
女神はしばし沈黙した後、ゆっくりと微笑む。
「……その言葉、どれほど続けられるかしら。あなたが私の書いた筋書きを壊せるというのなら――やってみなさい。」
世界の空気が変わった。
神殿の奥で、見えない鎖のようなものが音を立てて弾け飛び、暗い風が吹き抜ける。
女神の仕業であった全てが、ようやくその正体を現した瞬間だった。
――ここから先が、本当の闘いだ。
――その告白は、さらに深い絶望を突きつけてきた。
女神は、白い指先をゆらりと掲げ、俺を見下ろすように言葉を紡ぐ。
「そう……あなたがこの世に生まれたその瞬間から、すでに私の手の中にあったの。王家の血脈? 王妃の祈り? すべては私が選び、私が織り込んだ。あなたは“王子”として生まれるしかなかったのよ。」
脳裏に母の微笑みが浮かぶ。
柔らかな声で「強く生きなさい」と囁いてくれた、あの温もりが。
しかし女神の冷酷な声が、それを容赦なく打ち砕く。
「王妃が望んだ子は、本来ならば決して産声を上げることはなかった。
私が彼女の胎に祝福を与え、命を芽吹かせたからこそ……あなたは“この形”で存在できている。つまり、あなた自身が私の作品なのよ。」
全身が凍りつく。
生まれたことすら、己の意思ではなく女神の采配――。
俺は、ただの駒どころか、“存在そのもの”を彼女に握られていた。
「……俺は……最初から、お前の操り人形だったのか……?」
震える声が、石造りの神殿に響く。
女神は、陶酔するように目を細めた。
「ええ。あなたは私の子。私の器。私がこの世界に完全に顕現するための、最上の依代……。だからこそ、他の誰よりも愛おしいのよ。」
愛――その言葉は甘美であるはずなのに、吐き気を催すほどに冷たく歪んでいた。
全ては仕組まれていた。生まれることも、王子として歩むことも、婚約も、再建の誓いも。
それでも――俺は、俺だ。
この魂だけは、俺自身のものだと信じたい。
「……違う。俺の命は、俺のものだ。誰に与えられたものであっても、どう生きるかは俺が決める!」
女神の微笑みが、ゆっくりと崩れる。
その瞳に、初めて“苛立ち”が宿った。
「……可愛いことを言うわね。だが、忘れないで。あなたの始まりが私である以上、あなたの終わりもまた――私のもの。」
神殿に重苦しい空気が満ちていく。
運命の根源にまで絡みついた女神の支配を断ち切るため、俺はリィアナと共に、これまで以上に苛烈な戦いに挑まねばならなかった。
女神は長く白い指先を口元へ運び、まるで人間のように、艶やかな爪をカリリと噛んだ。
その仕草は、完璧な神の威容からはほど遠く、どこか焦燥と苛立ちに満ちていた。
「……本来ならば、あなたはこの世に生まれることはなかった……」
女神の声は震えていた。
だがそれは悲嘆ではなく、計算が狂ったことへの苛立ちのようだった。
「私が祝福を与えなければ、王妃の胎は空虚なままで終わっていたの。
あなたは光を見ることもなく、ただ無に還っていたはず。
それを……私が“産ませてやった”というのに……なぜ抗うの?」
彼女の瞳は、深い闇のように揺らめいていた。
その奥に、神でありながら人間めいた感情――嫉妬、苛立ち、そして微かな恐れ――が混じり合っていた。
俺は拳を握りしめた。
「……なら、俺の存在そのものがお前の誤算だな。俺がここに立っていることが、お前の計画を崩しているんだ。」
女神の表情がひきつる。爪を噛む音が、神殿の静寂にやけに響いた。
「誤算……? 違う……あなたは私の手の中にある……あるはず……!」
彼女の声は、次第に焦燥から怒気へと変わっていく。
神であるはずの存在が、まるで人間の女のように取り乱していた。
リィアナが一歩前に出る。
その瞳には強い意志が宿っていた。
「あなたがどれほど誇ろうと、王子は生きている。ここにいるのは、彼自身の意志。
あなたに与えられた命ではなく、彼自身が選んで歩む命よ。」
女神の爪を噛む音が止まる。
その静止は、逆に不気味さを増していた。
「……面白い。ならば証明してみなさい……“女神の産物”でしかないあなたが、本当に自分の意志で生きられるのかどうか。」
神殿の床が割れ、黒き魔力が奔流となって溢れ出す。
女神は爪を噛んでいた指先をゆっくりと広げ、まるで糸を操るように影の軍勢を呼び出した。
――彼女は、完全に“試し”に入ったのだ。
俺が存在する理由を、自らの意志で示せと。
女神は神殿の中央で、全身を覆う光の衣を引き裂かれるようにして、膝をついた。
その姿はもはや神聖ではなく、どこか惨めで――人間以上に人間らしい弱さをさらしていた。
「……なぜ……なぜなの……」
彼女の声は震えていた。影の軍勢はすでに滅ぼされ、女神の力はリィアナと俺の前に砕け散っている。
爪を噛み、血が滲むほどに歯を立てたまま、女神は俺を睨みつけた。
「本来なら……あなたはこの世に生まれてはいけなかった……!
だが……だが、私は……仕方なく……王子の誕生を進めるしかなかったの……!」
その言葉にリィアナが眉をひそめる。
「仕方なく……? あなたが“神”でありながら、なぜそんな選択を?」
女神はうつむき、長い銀髪を乱した。
「……抗えなかったのよ。
この世界の流れ――運命そのものが、あなたを求めていた。
私が拒めば、もっと大きな歪みが生じて、この国も、世界そのものも崩壊していた……。
だから私は……王子を誕生させることでしか、均衡を保てなかったの……!」
その告白に、空気が張り詰めた。
俺は思わず言葉を失った。
つまり、俺の存在は女神の「気まぐれ」ではなく、彼女が逆らえぬ“世界の必然”だったのだ。
女神は爪を噛み切り、血に濡れた手を握りしめて笑った。
「……覚えておきなさい。あなたの存在は世界にとって必要。だが、それは同時に“危うさ”でもある。
王子――あなたが一歩間違えれば、この世界は滅びる……」
リィアナが俺の手を強く握った。
「大丈夫。彼は必ず正しい道を選ぶわ。私が共にいるから。」
女神はその言葉にわずかに怯んだ。
そして、最後にひとつ息を吐き、影のように溶けて消えていった。
――女神は敗れた。
だが、その敗北は「完全な退場」ではなく、俺の誕生を認めざるを得なかったという“妥協”。
その存在は、まだどこかで蠢いている。
俺はリィアナと共に誓った。
この命が“仕方なく与えられた”ものだろうと、必ず自分の意志で世界を守り抜く、と。
王子はリィアナの手を握りしめ、深く息をついた。
女神の敗北によって生まれた平穏は、一瞬の静寂でしかなかった。
胸の奥で、ある影の存在が囁く。
「力を望むのか――望むのなら、我と契約せよ」
その声に導かれ、王子は深い闇の中へと身を投じた。
光を失った空間で、影は形を取り、黒く煌めく鎖のように王子の意志に絡みつく。
「……私の力を、取り戻したい」
王子の声は揺るがなかった。復讐への決意が、身体中に熱を走らせる。
契約の印として、影は王子の胸に漆黒の紋章を刻む。
痛みが走る――しかしその痛みの中に、圧倒的な力が流れ込むのを感じた。
「よくぞ受け入れた……これより、お前の力は女神を凌ぐ」
影は冷たく囁く。
王子の瞳は紅く光り、魔力が渦巻く。
リィアナが驚きの声をあげる。
「王子……その力は……危険すぎるわ!」
「大丈夫だ、リィアナ。これで女神に復讐し、全ての因縁を清算できる」
その声には揺るぎない決意が宿っていた。
影の力は、ただの魔力ではない。
過去の全ての因縁、女神の残滓、そして世界の秩序さえ操作する力――
しかし、その代償として王子の魂は少しずつ闇に染まっていく。
王子は拳を握り、誓った。
「女神よ、見ていろ――お前がもたらした混沌も、私の手で裁く」
夜空に雷鳴が轟き、王子の魔力は大地を震わせる。
この瞬間から、復讐の序章が幕を開けた――
女神を超える力を手にした王子と、それを支えるリィアナの戦いが、今、始まるのだ。
次回も楽しみに




