女神に取り憑かれたウルフ
前回の物語は?
― 女神に取り憑かれたウルフ
夜の森は、ざわめく木々の声で満ちていた。焚き火の赤が揺れ、王子とリィアナは一時の休息をとっていた。魔獣との戦いで傷を負いながらも、互いを支え合うように寄り添う二人の間には、夫婦としての絆が確かに芽生えていた。
だが、その穏やかな時間は長く続かなかった。
「……聞こえるか?」
ウルフが低く唸った。王子に仕える忠実な従者であり、共に多くの戦を乗り越えてきた青年だ。彼の眼差しはいつになく鋭く、何かに怯えるようでもあった。
「どうした、ウルフ?」
王子が問いかけたとき、リィアナは一歩前に出て、彼を庇うように構える。その瞳に不安が映っていた。
次の瞬間、ウルフの体が痙攣した。胸元を掻きむしり、呻き声をあげる。地面に崩れ落ちた彼の影が、焚き火の赤に照らされて不気味に揺らめいた。
「ウルフ!」
王子が駆け寄ろうとした刹那、森の奥から低い囁きが響いた。
――我が器よ、ついに見つけた。
その声は女のものだった。甘美でありながら、底知れぬ冷たさを帯びていた。
ウルフの目が開かれたとき、そこには彼自身の光はなかった。蒼白に輝く瞳が王子とリィアナを見据え、口元が嘲るように歪む。
「やっと……肉を得た。愚かな人間ども」
女神――かつて異界で封印された存在が、ウルフの肉体を乗っ取っていたのだ。彼女は自らを「滅びの女神セレーネ」と名乗り、その声は風と共鳴し、森全体に響き渡った。
「ウルフを返せ!」
王子が剣を抜き放つ。しかし、女神に憑かれたウルフの体は尋常ならぬ力を帯びていた。腕を軽く振るだけで空気が裂け、王子の剣は弾き飛ばされる。
リィアナは胸の前で祈るように手を組み、必死に呼びかけた。
「ウルフ……あなたは私たちの仲間でしょう? あなたの心は、まだそこにあるはず……!」
その声に、一瞬だけウルフの瞳が揺らいだ。だが、女神の笑みがそれをかき消す。
「仲間? 絆? くだらぬ。私が欲するのは力、そしてこの世界そのもの」
女神は、王子とリィアナの間に楔を打ち込もうとしていた。
「王子よ。お前が選んだのはエルフ一人……他の者を切り捨てたお前の選択が、いずれ国を滅ぼす。愛は毒だ。弱さだ。私はその弱さを利用しよう」
王子は言葉を飲み込む。しかし、リィアナは強く首を振った。
「いいえ。愛は弱さではない。私たちの力の源……絶対に、あなたなんかに渡さない!」
その瞬間、森が震え、焚き火の炎が吹き消された。闇の中、女神に取り憑かれたウルフが不敵に笑い、王子に向かって刃を振り下ろす。
王子はその一撃を受け止めながら叫んだ。
「ウルフ……! お前を取り戻す! どんな犠牲を払っても!」
剣と剣がぶつかり合い、火花が散る。戦いの行方は、まだ誰にもわからなかった。
― 精神の檻と女神の囁き
ウルフの肉体を器とした女神セレーネは、圧倒的な力で王子を押し込んでいた。
剣を受け止める腕が痺れ、膝が地面に沈む。それでも王子は退かない。背後にリィアナがいる――その事実が、彼を立たせていた。
「……強情な王子だ。だが、お前の剣は仲間を傷つける。わかるか? 私の刃を受け止めるたび、彼の体は蝕まれていくのだぞ」
女神の声がウルフの口から零れる。まるで氷の針のように、王子の胸を突き刺した。
確かにその通りだった。打ち合う度にウルフの腕には裂傷が走り、血が滴る。戦えば戦うほど、彼を傷つけてしまう。
「……クソッ!」
王子の動きが鈍る。その隙を狙い、女神が冷笑を浮かべた。
「弱い……。やはり愛も絆も、ただの鎖だな」
そのとき――リィアナが一歩前に進み、王子と女神の間に割って入った。
「なら、私がその鎖になるわ。王子を繋ぎ止めるための、絶対に断ち切れない鎖に」
彼女の声は震えていなかった。蒼銀の髪を夜風になびかせ、リィアナは胸に手を当てる。
「ウルフ! 聞こえるでしょう? あなたは女神の人形なんかじゃない。私たちと笑って過ごしたあの日々、忘れていないはず!」
その瞬間、ウルフの瞳が僅かに揺らいだ。
「……リィ、アナ……?」
低い声が漏れる。しかしすぐに女神がその意識を押し潰す。
「黙れ!」
怒号と共に、闇の波動が放たれ、リィアナの体が後方に吹き飛ばされた。
「リィアナ!」
王子が彼女を抱きとめる。彼女の唇から血が滲んでいたが、目はまだ強い光を宿していた。
「……信じて。きっと、彼は戻れる」
女神は吐き捨てるように笑った。
「戻れるだと? 愚かしい。ならば証明してみせよ。愛とやらで、この魂を縛れるというのなら」
次の瞬間、王子の視界が闇に閉ざされた。
気づけば彼は、黒い虚無の中に立っていた。そこには枷に繋がれたウルフが座り込み、女神の影がその上に覆いかぶさっていた。
「ここは……ウルフの心の中か!」
「そうだ。来い、王子。奪い返してみせよ……だが覚えておけ。この男を救うなら、国を救う時間を失うぞ。選べ。国か、仲間か」
女神の囁きが、王子の胸を揺さぶった。
――王国を背負う覚悟と、友を守る誓い。
その狭間で、王子の選択が試されようとしていた。
― 魂の決戦
暗黒の虚無に響く鎖の音。
王子は重い足を引きずりながら、囚われたウルフに近づいた。彼の全身は黒い鎖に縛られ、目の光は消えかけている。
「ウルフ……!」
呼びかけると、彼の唇がかすかに動いた。
「……オ、レは……女神の……器……。お前……俺を斬れ……」
その声は苦しみに満ちていた。
だが王子は首を振り、強く言い返す。
「斬るだと? 馬鹿を言うな! 俺はお前を斬らない。お前は……俺の仲間だ!」
その言葉に、女神の影が嗤った。
「甘い……甘すぎる。人の絆など脆いもの。今ここで、この器を壊せば全て終わるのに」
女神は漆黒の刃を生み出し、王子へと突き立てようとする。
その瞬間――リィアナの声が虚無に響いた。
『王子、聞いて! あなたの言葉は、必ず届く! 私も祈っている、二人の魂が繋がることを!』
女神が一瞬動きを止めた。リィアナの祈りが精神世界に干渉してきたのだ。
その光がウルフを覆い、彼の目にわずかな輝きが戻る。
「……リィアナ……俺は……本当に……」
鎖を引きちぎろうと、ウルフの筋肉が震える。
王子は叫んだ。
「思い出せ! 俺たちは血を分けた兄弟ではないが、剣を交わし、命を預け合った仲間だろう! お前は女神の器なんかじゃない!」
その言葉に呼応するように、鎖が一本、また一本と砕け散っていく。
女神は怒りに顔を歪めた。
「ならば見せてやろう! 愛も友情も無力だと!」
女神は影を膨れ上がらせ、王子とウルフを飲み込もうとする。
だが、その中でウルフが咆哮をあげた。
「俺は……ウルフだッ!! 王子と共に戦った、ただの一匹の狼だ!!」
彼の全身から迸る光が、女神の影を焼き裂いた。
王子はその瞬間、彼の腕を掴み、強く引き上げる。
「帰ろう、ウルフ!」
眩い光に包まれ、虚無の世界が砕け散る。
――現実の戦場。
ウルフの体を覆っていた黒き波動が霧のように消え、彼は地面に倒れ込んだ。
王子とリィアナが駆け寄ると、彼は苦しげに息をしながらも、確かに笑っていた。
「……すまねぇ、迷惑かけたな……」
その声に、王子もリィアナも目に涙を浮かべた。
女神の影は完全には消えていなかった。虚空に揺らめくその残滓が、不気味な言葉を残す。
「……愚かなる者どもよ。友情も愛も束の間の幻。やがてまた……試練は訪れる……」
そして影は消え去った。
戦いは終わったが、確かな爪痕を残した。
王子たちは、女神との因縁がまだ続くことを悟るのだった。
次回も楽しみに




