虚界の門(アビスゲート)
前回までの王子は?
──風が止まった。
灰色の空が裂け、黒き光が地平線を貫く。まるで世界の底が口を開いたかのように、無音の渦が天と地を呑み込んでいく。
リィナは丘の上に立ち、震える手で剣を握り締めた。
その視線の先には――巨大な円環の門。
幾千の符文が空中に浮かび、脈動する黒い霧が、まるで生き物のように蠢いていた。
「……これが、“虚界”の門……」
彼女の隣には、父の形見である蒼銀の盾を背負った青年・カイルがいた。
かつて王国を守る盾騎士の末裔。だが今は、王国の残兵と共に流浪の戦士として戦う日々だ。
「リィナ、感じるか? あの奥に……“呼んでる”何かがいる」
「うん……でも、それは人を救う声じゃない。私たちを壊そうとしてる」
門の向こう――そこにあるのは、かつて神々が封じた“もう一つの世界”。
生者の理が通じぬ、虚無と絶望が支配する世界。
リィナの耳元で、微かな囁きが聞こえた。
それは、あの“女神”の声だった。
『リィナ……開けなさい。お前の力で、門を解き放つのです……』
「またあなた……!」
リィナは怒りに燃える瞳で空を睨む。
「もう二度と、あなたの声には従わない!」
しかし、女神は静かに笑った。
『ならば見せましょう。あなたが拒んだ未来を――』
その瞬間、門が爆ぜた。
虚界から無数の影が這い出し、地を這い、空を裂いた。
叫び声でも唸りでもない――“存在の悲鳴”だった。
カイルが前へ出る。
「来るぞ! リィナ、背中を預けろ!」
「ええ……!」
二人は息を合わせ、襲いくる異形の群れに立ち向かう。
黒い爪が剣を弾き、腐食の風が肌を焼く。
それでもリィナは退かない。父が守ったこの地を、今度は自分が守る番だった。
炎の剣が閃き、影を焼き払うたびに、虚界の奥からまた別の何かが生まれてくる。
――その数、尽きることなし。
「カイル、門を閉じなきゃ!」
「だが、どうやって!? 神々が封印したものだぞ!」
リィナは荒れ狂う魔力の奔流の中で、ふと胸の奥に響く“記憶”を感じた。
前世――彼女が“王子”として生きていた時の記憶。
あの時、女神を封じた術式の断片が、確かに頭の中に刻まれていた。
「……わかった。私がやる!」
リィナは門の中心へと駆け出す。
その背に無数の黒い槍が飛ぶが、カイルが盾で全てを受け止める。
「お前の道は、俺が守る!」
「ありがとう、カイル!」
彼女は両手を広げ、詠唱を始めた。
声が震え、世界が震えた。
――“因果律逆転”
光が爆ぜる。
門が軋み、虚界の奥から悲鳴が響く。
あの女神の声がかすかに混じった。
『まだ終わらない……リィナ。因果は巡り、またあなたを喰らう……』
黒い門は、やがて光に溶け、音もなく消えた。
静寂。風が戻り、鳥の声がどこかで鳴いた。
だが、リィナはその場に膝をつく。
肩から血が流れ、意識が遠のいていく。
「……また、あの声が……聞こえる……」
カイルが駆け寄り、彼女を抱きしめる。
「リィナ! しっかりしろ! お前がいなきゃ、俺たちは――」
彼女は微笑み、目を閉じた。
「また……会えるよ。だって……因果は……巡るから……」
そして、光が彼女を包み込む。
その夜、虚界の門は完全に閉ざされた。
だが同時に、世界のどこかで――新たな門が、ひっそりと開こうとしていた。
リィナ・クロニクル「虚界の門」篇は、
“因果の輪廻”と“人の意志”を描く転換章です。
女神と人間の戦いは、もはや正義と悪の境界を越え、
「何を守り、何を捨てるのか」という選択の物語へ。
リィナが見た光は、絶望か、それとも希望か。




