育ての母、最期の言葉
今回の物語では、かしんが初めて「仲間の裏切り」と向き合う姿を描きました。
育ての母を失った直後、彼はさらに大切な仲間を女神の罠によって奪われてしまいます。
前世の兵法の記憶が蘇りつつも、感情と理の間で揺れ動く姿は、まさに「王となる者の試練」そのものでした。
かしんにとって、守るための戦いは苦痛でありながらも、未来へ進む唯一の道。
彼の誓いがどのように実を結ぶのか――。
今回はその一端を描く章となっています。
『育ての母、最期の言葉』
戦いの嵐を越えても、かしんの胸には安らぎは訪れなかった。
彼が拠点としていた洞窟の奥、その焚き火のそばで待っていたのは――幼き頃から世話をしてくれた「育ての母」と呼ぶ存在、老いたゴブリンの女だった。
彼女は人間で言えば老婆のような風貌だが、誰よりも温かく、誰よりも厳しかった。
かしんが傷を負って帰れば黙って薬草を塗り、食事を分け、時に「弱音を吐くな」と叱咤した。
女神の罠に翻弄されながらも、彼が生き延びられたのは、その母の存在あってこそだった。
――だが、今。
焚き火の揺らぎの中、母は痩せた体を横たえ、荒い息を繰り返していた。
胸には深い裂傷。人間の傭兵たちの襲撃から、かしんを庇ったときに負った致命傷だった。
「……か、かしん……」
その声は掠れ、今にも途切れそうだった。
かしんは必死に母の傍らに膝をつき、傷を押さえ、震える声で叫ぶ。
「待ってろ! すぐに薬草を煎じる、血を止める方法を……!」
だが、母は首を横に振った。
「もう……よいんだよ。お前は……十分に強くなった。私の役目は……ここまでだ」
かしんの目から熱い涙が零れ落ちる。
前世の戦場では、仲間の死を幾度も見た。
だが、母を失う痛みは、それとは比べものにならないほど鋭く胸を裂いた。
「なぜ……なぜ俺を庇った……! 俺なんかより……!」
母は微笑んだ。皺だらけの顔に、かつてと変わらぬ優しさを宿しながら。
「母とは……そういうものさ。血が繋がっていようがいまいが、関係はない。お前は……私の子……」
その言葉が途切れる。
焚き火がパチリと音を立て、闇が広がる。
かしんは叫んだ。
「待て! まだ話してくれ! まだ……俺は……!」
しかし、その願いは届かず。
母の瞳から光が失われ、静寂が洞窟を満たした。
かしんの拳が地面を叩く。血が滲むほどに、何度も。
「女神……! お前のせいか……! また俺から、大切なものを奪うのか!!」
森の奥で、微かな笑い声が響いた。
女神の声だった。
「憎しみが強くなるほど、試練は深まる……それこそが、私の望みよ」
かしんは涙を拭い、母の亡骸を抱き締めた。
その体は小さく、かつては頼もしかった背中も、今は羽のように軽い。
「……母さん。俺は、必ず仇を討つ。お前が命を懸けて守った、この命を……無駄にはしない」
その誓いは、炎に照らされ、静かに夜空へと昇っていった。
⸻
『誓いの焔 ― 母を失った夜』
洞窟の奥に静寂が広がる。
焚き火の炎が揺らめき、亡骸を照らし出していた。
かしんはその傍らに座り込み、ずっと動けずにいた。
母の冷たい手を握りしめたまま、血に濡れた自分の指先を見つめる。
「……俺がもっと強ければ。俺がもっと早く……」
その呟きは誰にも届かず、ただ虚空に溶けていった。
だが、頭の奥では確かに声が響いていた。
女神の声だ。
――お前が弱かったから、母は死んだのだ。
――憎め。憎めば力が宿る。怒りに身を委ねよ。
かしんは耳を塞いだ。だが声は止まらない。
心の奥へ、深く深く染み込むように囁き続ける。
「黙れ……俺は、あんたの操り人形じゃない」
しかし胸の奥に渦巻く怒りは、女神の囁きを否定しきれないほど強かった。
母を奪った人間たちへの憎しみ。
母を死に追いやった女神への怒り。
そして、無力だった自分自身への絶望。
焚き火が小さく爆ぜた瞬間、母の懐から一枚の布切れが落ちた。
それは古びた布に縫い込まれた模様――獣族の古い紋章だった。
かしんは拾い上げ、指でなぞった。
すると、母の最後の声が胸の奥で蘇るような気がした。
「お前は、守るために生まれてきた……憎しみのためじゃない……」
涙が頬を伝う。
その言葉が、怒りに呑まれかけた心をかすかに繋ぎ止める。
「守る……か」
拳を握りしめた。震える手がまだ弱さを示していた。
それでも、母の言葉を裏切るわけにはいかない。
その夜、かしんは母を洞窟の外に運び出し、森の奥深くに墓を作った。
月明かりに照らされる小さな塚の前で、かしんは膝をつき、誓いを立てる。
「母さん。俺は必ず、この森を守る。仲間を守る。……そして、女神の思惑を必ず打ち砕く」
すると風が吹き、森の木々がざわめいた。
まるで母の魂が応えるように、葉音が優しく響いた。
だがその一方で、影の中からは冷たい笑い声がこだました。
女神の気配だ。
――お前は守ると誓ったな。ならば試してやろう。
――次に現れるのは、お前の「仲間」だ。彼らの中に裏切りがあれば……お前は守れるのか?
焚き火が吹き消されたかのように暗闇が広がる。
かしんは立ち上がり、腰の剣を握りしめた。
「来いよ……。今度は俺が試す番だ」
その瞳には、涙と怒り、そして新たな決意が宿っていた。
⸻
『裂かれる絆 ― 裏切りの影』
母を弔った夜から数日。
かしんは仲間のゴブリンたちと共に、森の奥で新たな拠点を築こうとしていた。
「守るために生きる」という誓いが、彼を前へと突き動かしていた。
だが、空気のどこかにざらつく違和感が漂っていた。
笑い声や会話の裏に、妙な緊張が混じる。
視線が交わるたび、互いを測るような鋭さが見え隠れする。
ある夜。
仲間の一人、若きゴブリン「グラット」が、かしんに刃を突きつけた。
「……母を失ってお前は弱くなった。俺たちは、お前じゃ守れねぇ」
その目は赤く濁り、まるで狂気に呑まれているようだった。
女神の囁きが背後から聞こえる。
――そうだ。奴は裏切ったのではない。
――ただ真実に目覚めただけだ。
「黙れ!」かしんは叫び、剣を抜いた。
だが、胸の奥が痛んだ。
かつて共に笑い、共に狩りをした仲間に、なぜ刃を向けなければならないのか。
グラットは嗤った。
「女神は俺に力をくれた! お前がいなくても俺たちは生き残れる!」
その身体から黒い炎のような気配が噴き上がる。
女神の力に魅入られた証だ。
かしんの脳裏に母の声が蘇る。
――憎しみに呑まれるな。守るために戦え。
「……分かってるさ」
剣を構え、かしんは一歩前に出た。
刃と刃が激しくぶつかり合い、火花が散る。
仲間たちは息を呑んで見守る。
戦いの最中、かしんは前世の記憶を呼び覚ます。
戦場で幾度も味わった「同胞の裏切り」。
兵法の極意はこう告げていた――「裏切りを恐れるな、それをも戦力に変えろ」。
かしんは叫ぶ。
「お前の心はまだ奪われてない! 立ち戻れ、グラット!」
だが返ってきたのは、憎悪に濁った咆哮だった。
黒い炎が一層強くなり、森の木々を焼き焦がす。
勝負は避けられない。
かしんは最後の一撃に力を込め、剣を振り下ろした。
刃はグラットの武器を弾き飛ばし、彼の胸を裂いた。
血が溢れ、グラットは倒れ込む。
その瞬間、黒い炎は霧散した。
彼の目から狂気が消え、ただ苦痛と後悔の色が残る。
「かしん……俺は……女神に……」
「もういい。喋るな」
かしんは膝をつき、仲間の手を握った。
グラットは微笑み、そして静かに息絶えた。
――仲間を救えなかった。
その現実が胸に重くのしかかる。
女神の声が再び響く。
――いいぞ。もっと失え。もっと傷つけ。
――そうすれば、いずれお前は私のものになる。
「ふざけるな……」
涙を流しながらも、かしんは剣を握りしめて立ち上がった。
「俺は必ず、お前を討つ。母のため、仲間のため、……そして俺自身のために!」
森に風が吹き抜ける。
その中で、かしんの背は一回り大きく見えた。
仲間を失い、女神の影響がますます濃くなっていく中で、かしんは「守る者」として大きく成長しました。
しかし同時に、「女神に仕組まれた因果の罠」は深まるばかりです。
次章では、母が遺した紋章に隠された「古代兵法」の秘密、あるいはゴブリン社会そのものが二分される「内乱」の兆しが語られていく予定です。
今回の裏切りは、単なる仲間との対立ではなく、やがて訪れる大規模な試練の序章に過ぎません。
――因果の鎖を断ち切るために。
かしんの戦いは、まだ続きます。




