輪廻の迷宮 ― 因果に囚われた魂たち
新章はじまる
暗闇の中を歩いていた。
足元には石畳が果てしなく続き、頭上には光のない虚空が広がっている。
それは現実でも夢でもない、魂の迷宮だった。
――またここに戻ってきた。
少年の心に、既視感が押し寄せた。
何度も、何度もこの場所に足を踏み入れ、そして何度も失敗してきた記憶がよみがえる。
死を迎えるたび、彼の魂は再び迷宮に引きずり込まれ、記憶の断片を取り戻しながら新たな時代に放り出されるのだ。
壁に浮かぶ鏡のような光の断片が、過去の自分を映し出す。
王子として戦いに明け暮れた時代。
ただの孤独な学生だった前世。
名もなき傭兵として倒れた遠い世界。
全ては一本の糸で繋がり、ほどけぬ因果となって彼の足を絡めとっている。
「君は、まだ気づいていないのか?」
声がした。
振り返ると、そこには灰色の衣をまとった存在が立っていた。顔は影に隠れて見えないが、ただの人間ではないことはすぐに分かった。
――時の神。
幾度も輪廻を繰り返す中で、影のように現れては消えていった存在。
「お前は何者だ? 俺を弄んでいるのか?」
少年の叫びに、時の神は静かに首を振った。
「弄んでいるのではない。これは“選ばれた者”に与えられた宿命だ。君の魂は、あるべき未来に至るまで何度でも輪廻を繰り返す。敗北すれば因果は積み重なり、勝利すれば新たな因果を生む。その繰り返しだ」
少年は拳を握りしめた。
「そんなもの、俺は望んでいない! 普通の人生でよかったんだ!」
その叫びは虚空に吸い込まれる。だが返ってきた声は冷たくも確かだった。
「だが君はすでに“中心”に立っている。君の選択ひとつが、世界の均衡を変える。君を放っておけば、女神も、異世界の影も、この迷宮の外で暴れ続けるだろう」
女神――リシェルの姿が脳裏をかすめる。
彼女は愛しい婚約者だったはずなのに、その正体は女神であり、すべての運命を操る存在だった。
裏切りと嘲笑。だが彼女もまた、因果に囚われた者の一人なのではないか。
少年の胸に重くのしかかるのは、過去の全ての失敗だった。
仲間を救えなかった記憶。
愛する者を守れなかった後悔。
そして、幾度も同じ過ちを繰り返してきた絶望。
時の神は近づき、少年の耳元でささやく。
「次の輪廻こそが最後だ。君が因果を断ち切るか、それとも永遠に迷宮に囚われるか――選ぶのは君だ」
少年は目を閉じ、震える手を胸に当てた。
逃げ続けるわけにはいかない。
たとえ望まぬ宿命であっても、因果に立ち向かうしかない。
やがて迷宮の奥に、一つの扉が現れる。
それは新たな世界への入口であり、また次の因果の始まりだった。
深呼吸をして、少年はその扉に手をかける。
「――次は、終わらせてみせる」
その言葉とともに、光が彼を包み込み、新たな世界への旅が始まった。
― 女神リシェルの真実
まばゆい白光の中に立つ彼女の姿は、凛として美しかった。
侯爵家の令嬢リシェル。幼いころからの婚約者であり、王子の未来を共に歩むはずの存在。
だがその仮面の下に潜んでいたのは、人の世に紛れ込んだ女神だった。
彼女は高い塔の上から世界を見下ろし、ひとり言のように呟いた。
「すべては、あの子が生まれるはずのなかったせい……」
本来、王子は存在してはいけなかった。
世界の流れは、王国が滅び、異世界の勢力が侵攻し、やがて新たな秩序が築かれる――その筋書きで定まっていた。
だが、運命の糸を束ねる女神であるリシェルの力をもってしても、なぜか王子は誕生してしまったのだ。
「爪を噛んで、夜を明かしたこともあったわ……どうして消えないの、と」
それは神である彼女にとっても、恐怖であり屈辱だった。
リシェルは記憶をたどる。
人として生きた日々。婚約者として王子に微笑みかけた時間。
だが、それらはすべて計算に過ぎなかった。彼を近くに置き、監視し、いざとなればその命を刈り取るため。
――それでも、心は揺れた。
無邪気に未来を語る王子の姿。
力を合わせ、苦難を乗り越えようとする仲間との絆。
そして、何よりも自分を信じて疑わない、真っ直ぐな眼差し。
「……なぜ、人間の言葉や想いに、私の心は縛られていくの?」
女神は胸に手を当てた。
そこには確かに、かすかな痛みと温もりがあった。
神にとって不要なはずの感情――愛。
やがてリシェルは、禁じられた選択をする。
自らの力の一部を封印し、人として王子のそばに生きることを。
だが、その隙を突くように現れたのが「影」だった。
異世界の深淵から這い出る、無貌の契約者。
「お前の願いを叶えてやろう。あの忌まわしい王子を、今度こそ消し去るために」
影の声は、甘美な毒のように耳を打った。
リシェルは迷った。
女神としての宿命に従い、因果を正すべきか。
それとも、人としての心に従い、王子を守るべきか。
だが彼女は――契約を結んでしまった。
「私は……すべてを取り戻す。王子を、生まれるべきでなかったあの存在を、消すために」
そう呟いた唇は震えていた。
その奥にある本心を、彼女自身が最も恐れていたからだ。
リシェルの頬を、一筋の涙が伝う。
「……どうして、私は泣いているの?」
彼女は知っていた。
本当に憎んでいるのは王子ではなく、己自身だということを。
夢幻の糸をたぐり寄せて
⸻
大地を渡る風が、まるで誰かの囁きのように王都を吹き抜けていた。
玉座の間に立つ王子の息子――若き王エリアスは、父から託された記憶の断片に苦しめられていた。夢に見るのは、自分が生まれるよりも前、幾度も繰り返された争いと破滅の輪廻である。
剣を交える影。炎に包まれる城。涙に濡れた顔を最後に見送る自分。
そのすべては「前世の記憶」と呼ぶにはあまりに鮮明で、まるで昨日のことのように蘇る。
――もしこれが因果の連鎖ならば、自分もまた同じ過ちを繰り返すのだろうか。
彼の隣には妹のリディアがいた。嫁いだ先で独裁者の影に怯え、父に救い出されながらも心に深い傷を負った彼女は、兄以上に「ループ」の呪縛を意識していた。
「兄上……私たちの一族は、この運命から逃れられないのでしょうか」
「……いや。必ず断ち切る。俺たちが生きるこの時代で、終わらせるんだ」
エリアスはそう答えながらも、胸の奥に渦巻く不安を拭い去れなかった。
夜になると、宮廷の奥にある「音楽館」から旋律が響いた。
それは過去の誰かが奏でたオペラの断章――記憶の残響だった。
前世で果たせなかった願いが、音となり、今を生きる者に語りかけてくる。
「愛する者を守れ」
「選択を恐れるな」
「破滅の輪を超えてゆけ」
声なき声がこだまし、エリアスの胸を打つ。
その夜、彼は剣を携え、因果の糸を断つ旅に出ることを決意した。
――たとえ何度繰り返されようとも、未来は自らの手で紡ぐ。
その誓いが、彼を新たな物語の中心へと導いていくのだった。
因果を超える剣の旅立ち
⸻
夜明け前の王都は、まだ眠りの中にあった。
だが玉座の間の奥、王子の息子――エリアスは静かに剣を手にしていた。父から受け継いだその剣は、幾度も時代を渡り、同じ悲劇を繰り返してきた証人のように冷たく光っている。
「兄上、やはり行くのですか」
妹リディアの声が背後から響いた。まだ薄暗い廊下に、彼女の白い衣が揺れている。
「……行く。俺が動かねば、また同じ道を辿るだろう。お前が傷つき、国が滅び、父も……」
言葉を続けられず、エリアスは唇を噛んだ。彼の胸には、前世で幾度も見た光景が焼きついていた。
血に染まる王冠。孤独な死。何度抗っても因果の輪に絡め取られる結末。
リディアは目を伏せ、震える声で囁いた。
「……兄上。私も共に参ります。もう独裁者のもとで何もできずに泣くしかない自分には戻りたくありません」
その言葉に、エリアスの胸は熱くなった。彼女の決意は、彼自身の迷いを断ち切る刃でもあった。
「ならば共に歩もう。だが、危険な旅になる。音楽館にこだまするあの旋律……きっと俺たちに試練を告げている」
二人は馬を用意し、まだ眠る王都を後にした。
夜空には星々が瞬き、そのひとつひとつが過去の断片のように光り続けていた。
道中、彼らの耳に再び聞こえてきたのは、あの旋律だった。
――それはオペラの断章。前世で歌舞伎役者のように舞い、魂を削って演じ続けた者の声。
彼の嘆きはこう告げていた。
「舞台の幕が下りても、因果の輪は閉じぬ。
だが観客の心に残る声があれば、それは未来を変える力となろう」
その言葉を胸に刻み、エリアスは前を見据えた。
数日の旅の果て、二人が辿り着いたのは国境に近い古代の廃墟だった。そこには「始まりの剣」を祀る祠があり、伝説によれば、その剣を抜いた者こそが因果を断つ力を得るという。
祠の前に立つと、冷たい風が二人を包み込む。
そして再び、音楽館の残響のように声が響いた。
――「お前はまたここに立ったのか」
――「何度も挑み、何度も敗れ、輪廻に縛られてきた」
――「だが今回は違う。お前の傍らには、かつていなかった“絆”がある」
エリアスは剣の柄に手をかけた。
リディアは震える指で兄の手に触れ、その目で静かにうなずいた。
「……兄上、どうか。もう終わらせましょう」
その瞬間、大地が揺れ、天空に閃光が走った。
祠に眠る剣が共鳴し、音楽館の旋律が現世に重なり合う。
前世の舞台と、今生の旅がひとつになろうとしていた。
――これは、因果を超えるための最初の一歩だった。
祠の試練と前世の残響
⸻
祠の扉がゆっくりと開いた。
重々しい石の音が響き、外の風を遮るように冷気が流れ込む。
エリアスは剣の柄を強く握りしめ、リディアと共に足を踏み入れた。
中は広大な空洞となっており、壁一面に古代文字が刻まれている。
それはまるで、幾千の魂の叫びを封じ込めたかのような重圧を放っていた。
「……兄上、ここに漂う声……前世で聞いたオペラの旋律と同じです」
リディアの瞳がかすかに揺れる。
エリアスは頷いた。
「やはりそうか……。あの舞台は幻ではなく、この祠に繋がっていたのだ」
中央の祭壇に近づくと、そこに一本の剣が横たわっていた。
漆黒に輝き、刃からは淡い音色が響いている。それはまさに音楽館で聞いた旋律――前世の残響そのものだった。
だが、その瞬間。
祭壇の影から一体の人影が現れた。
「また来たか……。何度も輪を廻り、何度も敗れ、ここに至る」
声は低く、響き渡った。
その姿は、かつて舞台の上で共に演じた歌舞伎役者の男だった。
白塗りの顔、燃えるような瞳。だが今は肉体を持たず、魂だけの存在となって祠に縛られている。
「……お前は」
エリアスの喉が震えた。
役者の魂は淡く微笑んだ。
「俺はお前の“過去”だ。女神に翻弄され、観客のために演じ続け、舞台の幕と共に死んだ者の成れの果て……。
この剣を求めては敗れ、再び因果に囚われた」
リディアが息を呑んだ。
「では、この祠は……前世のすべてを映す場所……?」
「そうだ」
役者の魂は頷く。
「だが今度は違う。お前の傍らには血の絆がある。
妹よ、その存在が因果を超える鍵となるだろう」
その言葉と同時に、祠の壁が震え、数えきれぬ幻影が現れた。
それは過去に繰り返された数多の戦いや裏切り、そして失敗の記録。
魔獣に喰われた自分。独裁者のもとに嫁いだリディア。父を倒しながらも孤独に死んだ未来。
「これが……俺の罪か……!」
エリアスは胸を押さえ、目を伏せた。
「罪ではない」
役者の魂が言う。
「これは試練だ。因果を超えるためには、このすべてを受け入れよ。そして剣を抜け。
もし逃げれば、また同じ輪廻に飲み込まれる」
静寂。
リディアは震える手で兄の腕を掴んだ。
「兄上……一緒に立ち向かいましょう。私もまた、この運命の一部なのですから」
エリアスは深く頷き、剣へと手を伸ばした。
その瞬間、幻影たちが一斉に襲いかかる。
血の雨、裏切りの声、女神の高笑い――過去と未来が混じり合い、祠の中に渦巻いた。
「来い……!今度こそ、俺は因果を断ち切る!」
エリアスが剣を握り締めると、音楽館の旋律が轟き、祠全体が光に包まれた。
――試練が、始まった。
次回も楽しみに




