表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/12

王の加護

 ジークリンデが滝壺の付近まで戻る頃には、空を覆っていた雨雲はすっかり流れ去り、森はしっとりとした空気に包まれていた。ぬかるんだ道を踏みしめるたびに水音が鳴る。

 返り血で髪も服も汚れたジークリンデの姿を目にして、待っていたファウストは一瞬だけ驚いた顔をした。だがジークリンデの手に握られた角を見てすぐに目を細め、安堵の笑みへと切り替える。


「ただいま戻りました」

「おかえり、ジーク」


 その声に、張り詰めていた気持ちが少し和らぐ。


「可愛い顔が台無しねぇ」


 横から響いたのは鹿の王のからかうような声だった。三つ目がぎょろりと回り、喉の奥でくつくつと笑う。その直後、水の球がふわりとジークリンデを包み込み、衣服や肌に付いた血や泥を一瞬で洗い流してしまった。

 ジークリンデは滝壺のほとりにプラッシーの角を置いた。


「合格よ。おめでとう、ジークリンデちゃん」

「ありがとうございます」


 鹿の王が顔を寄せてくる。大きな影が視界を覆い、三つ目が至近距離でぎょろぎょろと動いた。

 鼻先が額に触れると、ひやりとした冷気が身体の奥にまで流れ込む。血ではなく水が体内を循環しているかのような錯覚に襲われ、指先が微かに震えた。


「さあ、これで完璧」


 鹿の王が顔を離すと、体中を走っていた寒気が薄らいでいく。


「アタシの加護があれば、水属性の魔力が底上げされるわ。雨は無理でも、狭い範囲なら水を操るくらい造作もない」

「それに君は剣士だから、強力な水の盾で防御を固める、という戦い方もできるよ。試しにやってみるといい」


 ファウストの言葉に、ジークリンデは剣を構える。


「《水の盾よ》」


 澄んだ響きとともに、眼前に水面のように揺らぐ盾が生まれる。

 ファウストが静かに杖を取り出し、呟く。


「《風よ》」


 掌の上に淡い風の球体が生まれ、矢の形に収束していく。彼が軽く指を振ると、矢は水の盾に突き刺さった。だが、盾に触れた瞬間に勢いを失い、地面に落ちると矢の形を保てず霧散してしまう。


「……アンタたち、詠唱がないと魔法が発動できないのね」


 鹿の王が物珍しげに二人を見やる。

 ファウストは苦笑を浮かべて肩を竦めた。


「あの人は無詠唱、かつ杖のような媒体もなしに魔力を操れる人ですから。一緒にされては困ります」


 そう言って、彼は自分の杖をジークリンデに手渡す。


「《風よ》」


 ジークリンデが詠唱すると、確かに風は集まった。だが先ほどよりも魔力の流れは粗雑で、形成された球体は歪に歪んでいる。

 そのまま放たれた矢は轟音を立てて飛び出したが、空気中で力を失い、霧のように散って消えた。

 直後、ファウストの右手から血が噴き出す。


「先生……!」


 ジークリンデが慌てて駆け寄ると、ファウストは「大丈夫だ」と言わんばかりに微笑み返す。その表情には焦りもなくいつも通り落ち着いていた。


「このように、媒体がなければ魔力の制御は上手くいきませんし、下手をすれば命に関わります」


 彼は再び杖を受け取り、自らの右手に回復魔法をかけた。淡い光が傷口を覆い、血が収まっていく。

 滝壺で手を洗い流すと鹿の王が心底不愉快そうに顔を歪めたが、ファウストは気にせず続ける。


「それに、時代とともに魔法の形は多種多様になりました。あなたの生まれた頃は基本属性が主でしたが、今は生活に特化した魔法の方が、一般人にはよほど需要があるのです」

「人間は弱くなったのかしら」


 鹿の王が鼻で笑うと、ファウストは首を小さく振った。


「いいえ。戦う必要がなくなったのです。我々のような魔法使いや剣士が魔獣や悪魔に対処している。だからこそ、一般人は戦わずに生きられるようになったのです」


 鹿の王の三つ目が細く歪み、嘲笑するように弓なりを描く。


「ならばアタシが力を取り戻した暁には、力ない一般人を狙えばいいってことね」


 その言葉に、ファウストは薄く笑みを浮かべたまま何も返さない。沈黙に対して鹿の王はつまらなそうに視線を逸らした。


「……ま、いいわ。アタシの仕事はこれでおしまい。さっさと出ていってちょうだい」


 ファウストは深々と頭を下げ、踵を返す。ジークリンデも慌ててその後に続き、一礼して背を向けようとした。


「ジークリンデちゃん」


 名を呼ばれ、思わず振り返る。


「アタシが言うことでもないけれど、魔獣とか悪魔ってのはね、甘い言葉で人を誘うものよ。だからアナタが何を信じるかは、しっかり見定めなさい」


 その声音は先ほどまでの軽口とは違い、どこか真剣さを帯びていた。


「……ご忠告、ありがとうございます」


 ジークリンデは深く息を吸い、その言葉を胸に刻みつける。そしてもう一度、大きく頭を下げてから、ファウストの背中を追って歩き出した。

 途中で振り返ったが、そこにはもう鹿の王の姿は見えなかった。





 目を開けた瞬間、世界は一気に色彩を取り戻した。

 眩しいほど鮮やかな光景。摩訶不思議な部屋。その中心に座し、余裕ある笑みを浮かべてこちらを見ている男の姿があった。

 靄に覆われていた記憶が、鮮明さを取り戻していくと同時に、これは夢の中だと確信する。


「リリアンさん……」


 声に出すと、不思議と安堵が胸に広がった。


「無事に鹿の王から加護をもらえたんだね」


 リリアンはゆったりと脚を組み直し、片手で前方の椅子を示した。

 ジークリンデは促されるまま椅子に腰を下ろす。そして森で浮かんだ疑問を最初にぶつけてみることにした。


「あの……、王様……鹿の王と戦ったのは、リリアンさんなのでしょうか」

「さあ。どうだろうね」


 リリアンは愉快そうに笑みを深め、指先を組んだ。真実を語る気など微塵もないように思える調子に、ジークリンデはわずかに肩を落とした。

 空中を泳いでいた水型の人魚が心配そうにジークリンデの周りを泳ぎ、再び離れていく。その様子を目で追いながらリリアンが訪ねる。


「鹿の王はなぜ力を失ったと思う?」

「戦いに敗れたからではないのですか?」

「名前を奪われているのさ」


 ジークリンデは瞬きをする。


「名前……?」

「真名ともいうね。鹿の王と戦った魔法使いは、互いに真名を賭けて勝負したのさ。鹿の王は相手の真名を奪うことで魂を支配しようとし、魔法使いは鹿の王の真名を奪うことで、その力ごと封じようとした」

「……そして、勝ったのは魔法使いなのですか」

「そう。そしてその魔法使いの面白いところはね―――」


 リリアンは肩を揺らし、笑いながら言葉を続けた。


「なんと、自分に忘却魔法をかけて、鹿の王の真名を忘れてしまったんだよ」

「……え?」


 ジークリンデは思わず声を失う。


「だから誰も今は鹿の王の真名を知らない。鹿の王は死ぬまで、本来の力を取り戻すことはできないだろうね」


 リリアンはすっと立ち上がり、窓辺のテーブルで紅茶を淹れ始める。

 慣れた手つきで淹れるリリアンの手元を見つめながら、ジークリンデは問いかけた。


「……王様、とても怒ったのでは?」

「呆れすぎて、もはや怒る気力もなかったみたいだよ」


 軽く言い放つその調子に、ジークリンデは鹿の王が少し哀れに思えた。


「そもそもあれは人の言葉を“話せるようにした”だけで、暴れん坊な魔獣であることには変わりないんだ」

「元々人の言葉を喋っていたわけではないのですね」

「魔獣でもできるかなと思ったら、できちゃった」


 リリアンは淡々と語る。その口ぶりは己の偉業を自慢するでもなく、ただ「新しい料理に挑戦したら上手にできた」並みに軽い。

 だが言葉の端々に、先ほどからリリアンが「鹿の王と戦った者」であることを隠すつもりがないのが透けて見えた。

 ジークリンデには、この人が自分がファウストの師匠であることを隠したいのか、あるいはわざと滲ませているのかが分からなかった。


「まあ、その代わりに鹿の王が人間に負けたという記録は全部消した。これでお互いに恨みっこなし、というわけさ」


 ジークリンデの脳裏に鹿の王の姿が浮かぶ。ファウストの師の話題になると、不機嫌そうな険しい顔をし、言葉の節々に悔しさをにじませながら語る鹿の王の顔を。


「……多分、王様はまだ恨んでいますよ」

「えー? 随分とネチネチしてるなあ。嫌だねぇ、これだから魔獣は」


 わざと心外そうに眉をひそめ、紅茶のカップを差し出してくる。甘やかに香り立つそれを少し口にした。すっきりとした味わいに花の香りが上品に広がる。

 ジークリンデは表現を緩めてリリアンを見た。リリアンもジークリンデと目が合うと顔をほころばせる。


「でも、一つ疑問が解けました」

「疑問?」


 リリアンが首を傾げた。


「どうして鹿の王の噂や文献が残っていないのだろうと、不思議に思っていたので」

「まあ、僕としても残されないほうがよかったよ。あれは僕が一番やんちゃだった頃だから」

「やんちゃ……」

「そう、やんちゃ。あれこれやらかしては怒られてばかりの時代さ」


 今度はジークリンデは首を傾げる番だった。


「その頃はまだ先生のお師匠さんではなかったのですか?」

「うん。あの子を拾ったのは……こんなに小さかった頃だ」


 リリアンは指先で小さな背丈を示す。


「十年も一緒にいたら、あんなに大きくなっちゃった」


 リリアンの視線が、カップの中で揺れる琥珀色に落ちる。


「あっという間に、僕を追い越しちゃったなあ」


 その声音には、懐かしさや寂しさよりも誇らしさが滲んでいた。


「先生には会わないのですか」


 リリアンは首を振る。


「困ったことに、彼が遮断してしまっているんだよね」


 そう言いながら窓の外に目を向ける。そこには相変わらず、一点の曇りもない青空がどこまでも広がっていた。


「まあ僕には彼に会う資格はないからいいのだけれど……。時々無理をしてしまう時があるから、それが心配でね」

「でしたら、私が先生に伝えます……!」


 ジークリンデは真っ直ぐにリリアンを見つめ、力強く言った。


「先生はきっと、あなたに会いたいと思っています。だから先生と話してあげてください」


 リリアンは目を瞬かせ、それからふっと微笑む。その笑顔は柔らかな陽だまりのようだった。


「ありがとう。君のその優しさだけで、十分に嬉しいよ。それに僕は―――」


 そこまで言いかけて、言葉が途切れる。

 リリアンが目を閉じ、椅子の背もたれに体を預けた。喉の奥からわずかな息が漏れ、苦しみを堪えるように眉間に小さな皺が寄る。


「リリアンさん……!?」


 ジークリンデは声を上げ思わず駆け寄る。


「…………なんでもないよ」


 リリアンは薄く瞼を開け、無理に笑みを作ってみせる。その笑顔はジークリンデを安心させようと努めていた。


「今日は調子が悪いみたいだ。ごめんね」

「こちらこそすみません。お休みしたかったですよね」

「招いたのは僕だからね。気にすることはないよ」


 ジークリンデは声を落とし問いかける。


「……本当に大丈夫ですか?」

「少し休むから大丈夫」


 リリアンは深く息を吐きながら天井を見上げた。


「次に会えるのは、君たちが旅から戻ってきてからだね……。せっかく話し相手ができたと思ったんだけどなあ」


 リリアンは手を伸ばし、ジークリンデの頭にそっと置く。夢の中のせいか、リリアンには体温が感じられなかった。


「いってらっしゃい。良い旅を」

「ありがとうございます。……おやすみなさい、リリアンさん」


 ジークリンデはリリアンに微笑み返し頭を下げる。

 リリアンのまぶたが静かに閉じられていく。睫毛が頬に影を落とす。その様子を見届けながら、ジークリンデもゆっくりと目を閉じた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ